第十一話 転移に理由は必要ですか?

 ティーカップを覗き込んでいたベティは、ふと眉を寄せるとその中に指を差し込んだ。カップの縁まで注がれた水の、丁度中心あたりを摘まむ。するとそこから水が伸びて、そのままズルリと塊になって引きずり出された。

 「にゃあ」と迷惑そうな声を出して、水猫は透明な体を震わせる。ティーポットや花瓶に勝手に住み着くことで知られる水猫は、無害であるが故に間違って飲んでしまったり、温めてしまった時に罪悪感を与える生き物だった。


「此処は駄目だよ」


 ベティは摘まみ上げた水猫を、窓際の花瓶の中に落とした。ほぼ不定形の猫は、細く捻じれた花瓶の口などお構いなしに、底の方へと流れていく。居心地が気に入ったのか、透明な尻尾を左右に揺らして水音を響かせた。


 その音を聞きながら、ベティは小さく溜息をつく。視線はテーブルの向こう側にある椅子の方に注がれている。頭の中には、ほんの少し前の入国審査の内容が鮮やかに再生されていた。





「同じ世界に行きたいの」


 黒く長いワンピースの裾を床に擦らせるようにして、若い女はそう言った。化粧をしていない顔は幼くも見えるし、手入れをしていないロングヘアは年嵩にも見える。一重の目は話すたびに、句読点を打つかのように頻繁に瞬きを繰り返していた。


「私が今まで生まれ育ったのと全く同じ世界。そういう世界があるでしょう?」


 ベティは手元に球体をした書物を引き寄せて、その中のあるページに目を通す。


「まぁ、あるにはありますね」


「そこに行きたいの」


「どうしてですか?」


 女はその問いが来るのをわかっていたかのように、口角を吊り上げる。そして、長く垂れた前髪の奥からベティを見つめつつ口を開いた。


「行きたいから」


「いや、そうではなく」


「私はその世界に行きたい。ただそれだけ」


 一つづつ言葉を噛みしめるような、挑戦的にも聞こえる答えだった。ベティはそれを聞いて、自分の尖った耳が無意識に震えるのを感じる。

 異世界に行こうとする人間はこれまで何度も会ってきたが、彼らには共通して「何かをするために異世界に行く」という意図があった。しかし、目の前の女はその目的と手段が一緒になってしまっていた。そのような転移希望者は、ベティが知る限り存在しなかった。


「行って何をするのですか」


「行くだけよ」


「そこで野垂れ死ぬつもりですか」


「さぁ、それは何とも言えないけど」


 女は首を横に傾げてクスクスと笑う。


「貴女のお仕事は、目的が正当なものか調べるだけなんでしょ? 行く末までは管轄外じゃないの?」


 ベティはその台詞に眉を寄せた。相手は転移ゲートのところで提示される説明書きには、確かにそのようなことが記載されている。長ったらしくて細かい字で書かれているので、此処に来る人間のほぼ全員が読み流してしまうものだが、彼女はそれを全て読み込んできたようだった。

 そのような手合いは滅多にいない分、また厄介でもある。


「言っておくけど、私は犯罪歴はないし、今後も犯罪を犯すつもりはない。ただ、その世界に行ってみたい」


「行くことだけが目的と言いますが、行先が存在する以上、それは認められません」


「じゃあ散歩でもいいわ。朝ね、ご老人がお散歩してるでしょう? えーっと、仮にミスター・タゴサクとしましょうか。タゴサクさんは公園までお散歩して戻ってくる。じゃあタゴサクさんの目的は公園に行くことかしら?」


 違うでしょう? と女は肩を揺らすようにして笑う。ベティはその姿から目を逸らさず、しかしいつもよりは緊張しながら言葉を返した。この場においては少しのミスも許されない。それをベティは理解していた。


「散歩の目的は、散歩をすることでしょうね」


「そう。だから私がその世界に行くこと自体を目的にしても、何らおかしくはない。その過程の一つとして、目的地が存在するだけ」


 異世界に行って何をするのか。それはいつもベティが投げかけて来た問いであり、そして数多の人間が陥った罠だった。


 経営をしたいと言えば、その経営計画の甘さを突いた。

 レベルの低い村に行きたいと言えば、レベルについての認識を正して自信を喪失させた。

 狙撃手を希望する者も、チート能力を欲する者も、不老不死になりたがった者も、現実世界では叶えることが出来ない欲望をベティに話したために、その夢を叩き折られた。


 しかし、「異世界に行く」こと自体を目的とした女には、その罠が通用しない。

 本来、入国審査官は転移希望者に対して、不正な申告がないことを確認し、動機の是非を判断することしか出来ない。転移希望者の殆どは、自分の転移を認めてもらおうとして、必要以上に色々なことを喋る傾向にある。そうして口から出た言葉や言い回しを、審査官は逆手に取り、「正当性」について問い詰める。

 だからこそ今回のようなケースにおいては、その方法が使えないということになる。


「心配しなくてもいいわ」


 女はまるで両足を持て余すかのように膝を曲げ、椅子の上にその足の裏を乗せる。長いワンピースと一緒に膝を抱え込み、その上に顎を置いた。


「行くだけだもの。そこで何をするわけでもない。私の目的はそこで終わるの」


「貴女がその世界で問題を起こさないという保証はありません」


「私が」


 女は何度か瞬きをしてから言葉を繋げる。


「剣を振るって、手から火炎弾を出したいですと言ったら、確かに犯罪に繋がる恐れはあるわね。でも私が行くのは、今まで自分が生まれ育ったのと、全く同じ世界。別の技術や理屈が存在しているわけじゃない。それに私はそんなものを望んでいない」


「なら、どうして」


 ベティは何か言おうとしたが、それが今までに口にした内容と大差ないことに気が付いて黙り込んだ。異世界に行こうとすること、それ自体は禁止されていない。調整事務局が、その数を軽減しようとしているだけである。


 転移の禁止については、今の方針に変わる際に検討されたことがある。しかし、それを行えば過去の転移者を現実世界に返さなければならない。半分以上は異世界に適応出来ずに死んでしまっていたし、無事に生きている者も、既に現実世界では存在しないことになっている。


 何より、彼らが現在進行形で異世界で生きている以上は、「狭間の世界」が無理矢理連れ戻すことは出来なかった。それをしてしまえば、異世界に干渉しないという絶対の掟を破ることになってしまう。

 だから、転移を希望すること、そのこと自体は禁止されなかった。


「ねぇ」


 女が椅子の上で足を動かす。足裏についた木の葉が剥がれ落ちて床に落ちた。


「もういいでしょう? それとも他に何か聞きたいことでもあるの?」


 ベティはテーブルの上に肘をつき、両手を顔の前で組んだポーズのまま考え込む。脳裏を過ぎるのは、ハロンの苦々しい表情だった。異世界転移者の数を誤魔化していた男は、ベティの正しさを責めた。それに対して、ベティは自身の考える正しさを貫いた。

 あの言葉を嘘にしないためにも、これ以上食い下がることは許されなかった。


「いいえ」


 素直に認めたベティは、溜息を吐きたいのを堪えながら落ち着いた声を出した。


「貴女の申請を受理します」


 解かれた手の向こう側で、女が安心したような表情で笑っていた。




 誰もいなくなった部屋で、ベティは用済みとなった書類をまとめて、テーブルの隅の箱の中に投げ込んだ。林檎鳥の骨で作られたその箱は、今では手に入れることの難しい珍品である。中に物を入れると壁から細い骨が突き出して、勝手に蓋を閉じてくれる。偶に夜中にチィチィと鳴くことさえ目を瞑れば、非常に便利な物だった。


「通過許可印なんて描くの初めてだから、緊張しちゃったよ。ねぇ、アリスちゃん」


 そう声を掛けたベティだったが、返事が返ってこないことに気が付くと苦笑を零す。親愛なる部下であり友人でもある彼女は、ベティが依頼した仕事を片付けるために出かけたままだった。


 椅子から降りたベティは、紅茶類の入った棚の方へと進む。横一列に並んだ容れ物の中から選び取ったのは、古びた細長い瓶だった。中には、安くもないが高くもない硝子茶が入っている。この事務局が出来た頃に創立記念として受け取ったものだった。当時、まだ若かったベティは瓶のデザインの古臭さに苦言を呈したものだが、今となってはそれも懐かしい。


「たった一度でも、失敗は失敗ってね」


 カップの中に硝子茶を注ぐ。星型の小さな硝子片が、カップの底へと沈んでいく。長く放置されていたために浮力も失われたようだった。一口飲むと、錆びついたような味が喉を刺激する。ベティはそれに思わず顔を顰めた。


「まっずい」


 異世界調整事務局の一人の審査官は、この日初めて失敗をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る