第九話 この意味を理解できますか?

 赤い宝石が細長いグラスへと注がれる。宝石酒の中でも赤い、特に粒の細かいものは高級品だった。どこでも手に入る緑の硝子酒とは味も格も違う。

 ベティはその美しいグラス越しに、不機嫌な表情をしているハロンを見た。


「不満そうですね、ハロン」


「どうして離席している間に、アリスの姿が消えて、貴女になったのか考えているんですよ」


「理由はわかりますか?」


「彼女を餌に僕を呼び出した。そんなところでしょうか」


 ベティはグラスを手に取ると、一口だけ中身を飲む。冷たい粒が舌の上を転がり、喉の奥へと落ちていった。


「よいお酒ですね。随分と貯め込んでるのか、あるいは奮発したのか」


「どうでもいいでしょう、そんなこと。で、僕に何か用事ですか」


 事務局からほど近い高級レストランは、一階が仕切りのない大ホール、二階が個室となっている。二人がいるのは個室の中の一つであり、テーブルには魔羊のソテーが良い匂いを漂わせていた。ソテーの下に敷かれたペディスカの葉は、紫色の細長い葉を好き勝手に四方にうねらせている。これも、たかが職場の後輩との食事には相応しくないものだった。


「今日、どれほどの人間を相手にしましたか」


「何ですか、急に」


「答えなさい。同じ審査官でも、貴方はパディズーラ、私はアントル。こちらの方が職位は上です」


 強い口調で言うと、ハロンは舌打ちをした。

 両腕につけた鈴が、持ち主の感情に共鳴するように煩く鳴る。


「七人です」


「そのうち、転移を阻止したのは」


「七人ですよ。何を当たり前のことを」


「そのうち異世界転移協会から送り込まれたのは」


 ハロンは少し考え込む仕草をしながら、グラスを手に取った。ゆっくりとした動作で中の宝石を回してから、ほんの少しの量を口の中に入れる。


「確認出来たのは二人です」


「前局長のことは何か聞き出せましたか」


「転移が成功した場合に、前局長が得るものを尋ねましたよ。目的が気になりますからね。転移者は「知らない」と言いました。そして「成功したら彼女にはわかるから問題ない」とも」


 どうなんでしょうね、とハロンは笑いながら言ったが、ベティが黙り込んだままなのに気付くと気まずそうに視線を反らす。

 暫くの沈黙の後、ベティは再び質問を口にした。


「扉から来て、扉から帰った者は何人ですか」


「……三人、だったかな。僕は貴女みたいに誰でもケースAにしたりしないのでね」


「それは結構ですね。何事も平和が一番です」


 ベティはグラスを傾けて、中の宝石を一気に飲み込んだ。一瞬、体が燃えるような熱さを感じたが、全ての宝石が喉を過ぎると急速に元へと戻る。


「では平和的に話をしましょうか。扉が八回しか開閉しなかった理由を教えていただけますか」


「何を言っているんですか」


「貴方の部屋の扉は八度しか開閉しませんでした。それは確かです。アリスがランドルフに確認しています。三人が扉から帰ったのであれば、開閉数は十回になるはずです」


 ランドルフはハロンの部下で、上司によく似て軟派な性格をしていた。おまけに力は強いが少々頭の回転が鈍いところがあり、誘導尋問にはほぼ必ず引っかかる。アリスに言葉巧みにドアの開閉数を聞かれたランドルフは、黒い体を大きく広げて、自信満々に回数を答えた。


「計算が合いません。しかし貴方はケースAにはしていないと言う。私に虚偽の申告をしたのですか」


「いや、それは、その……勘違いですよ」


「ハロン」


 ベティの髪がゆらりと持ち上がり、長い耳が覗く。ハロンはそれを見て顔を引きつらせた。それがベティの怒りを示すものだと、長い付き合いてある男は良く心得ていた。幾人の新人がベティのことを見た目で侮り、そして勘違いしたプライドをへし折られたかわからない。


「虚偽をするなら徹頭徹尾やるべきです。口先で誤魔化せないような虚偽なら、そもそもすべきではありません。それとも互いの種族の礼儀に則り、話し合いをしましょうか?」


「……それには及びません」


 冷汗を垂らしながらハロンは答えた。

 実際、個人の話を種族間の会合に持ち出すことは出来ない。だが、その言葉には大いなる意味がある。つまり、言い出した側の意思の強さである。ベティがそれを口にしたからには、相応の覚悟があると受け止めなければならなかった。


「ベティ。貴女は方針が変わる前から優秀でした。前局長のお気に入りにして、創設メンバーの一人。貴女であれば、全ての転移希望者に却下印を押すことも可能でしょう。でも僕は違う」


 俯き気味に切り出したハロンに、ベティは黙ったまま先を促した。場の空気に飲まれたのか、テーブルの上のペディスカの葉は死んだように静かだった。


「何人かの転移を許してしまいました。局長は僕の失態を責める代わりに、特別措置法を適用しました」


「……事故による転移として、記録を改竄した。そういうことですか」


「そうすれば、阻止率が保持できる。局長はそう言っていました。実際、あの阻止率の高さを見れば、皆の士気も高まる。僕一人の失態であの数字を乱したくはなかった。それに、成果に基づき支給される特別手当も正直、魅力的でしたし」


 ベティは眉を持ち上げた。

 そして、テーブルの上に並んだ高級な品々を見る。


「なるほど、貴方が随分と高い酒を頼んでいた理由に合点が行きました。そんなものでアリスを接待しようとしたことは、この際不問にしましょう」


「貴女には僕の気持ちは理解出来ません」


「出来なくて私に何か不都合があるのですか」


 短い沈黙が流れた。ハロンは何か言い返そうとするが、何を言うべきかわからずに口を閉ざす。

 思いやりや同情などならまだしも、不正を働いた者の気持ちを理解する気は、ベティには一切無かった。優秀と言われるベティとて、失敗をしたことは何度かある。それらは全て正直に申告し、正当な処分を受けた。だからハロンの気持ちはわからないし、理解出来ないところで問題もない。


「仮に理解したとして、何かが変わりますか。「それなら仕方がない」と私に矛先を収めてほしいだけでしょう。自分が怒られたくない。その程度の甘さです。でも貴方がやったことは変わらない」


「貴女は正しいですよ。どうしようもなく正しい。でも皆がそうではないんです。貴女のような人は一握りだ」


「私は貴方個人の話をしています。多数決をしたいなら、議会か定時会議の際に行いなさい」


 二階を巡回していた給仕が、幽霊ランタンを片手に提げながら部屋に入ってくる。ランタンに照らされた箇所だけが他人に視認できる種族であり、今も赤い光に照らされた顔が優しい笑みを浮かべていた。

 宝石酒の瓶を手に取り、給仕は二人のグラスに赤い粒を注ぐ。チラチラと揺れるような音を立てながら、グラスの中が宝石で満たされた。


「他に何かお持ちしますか?」


「このお店で一番安価なものは何ですか」


 ベティがそう尋ねると、給仕は少し考えてから答えた。


「平面鳥の姿揚げです」


「ではそれを。ディップソースに塩苺は?」


「塩苺と骨喰み蝶のグリルソースをご用意しております」


「良いお店ですね。その組み合わせをお願いします」


 給仕は丁寧に頭を下げたようだったが、ランタンと一緒に姿勢が変わったために、それを視認することは出来なかった。給仕が部屋を出ていくと、ベティはグラスを持ち上げる。


「安いものを頼むんですね」


 ハロンが呻くような声で言った。


「僕への皮肉ですか。不正な金で高級品を揃えた僕への」


「私が何を頼もうと自由でしょう。話を戻します。ハロン、貴方の他に転移数を誤魔化している者はいますか」


「さぁ。結構いるんじゃないですか」


 投げやりな態度でハロンは言った。グラスを手に取り、中の宝石を口へ流し込む。一粒が口の端から零れて床の上に転がった。


「口下手なシリルとか、正直者のマトラレスタとか。彼らはいつも数人は逃しているようですけど、本当はもっと多いかもしれません。まぁあの二人が全ての希望者を阻止出来たら奇跡ですよ」


「怪しまれないように数人だけ「失敗」として残している。なるほど、あり得ますね。そしてハロンのように自信家でそこそこ有能な者の記録は全て「成功」とする」


「お願いですから、棘のある言い方は止めてください」


「反論しても構いません」


「しませんよ」


 そこに先ほどの給仕がやってきて、五角形の皿に載せられた揚げ物を置いた。紙のように平たい鳥が一羽づつ油で揚げられている。添えられたディップソースは塩苺のピンク色を上手に引き出していた。色々な店で提供されているメニューだが、高級店らしい盛り付けにより実際よりも遥かに高価に見える。


「ハロン、貴方は誰かと特別手当について話したことがありますか」


「えぇ。でも成果に基づくものだから、あまり口にしないほうがいいと局長には言われています」


「でしょうね」


「でしょうね、とは?」


 一羽分を手にしたベティは、正しい作法として前歯で噛み砕いて音を出す。バリッと小気味良い音が個室に響いた。今まで静かだったペディスカの葉たちが、音に驚いて一斉に動き出す。


「そんなものは存在しないからです」


「……存在、しない?」


「私はそのような手当の存在は知りません。恐らく、貴方のように局長により記録を改竄した者だけが受け取っています。まぁ人によっては別の言い方で支給されているかもしれませんね」


「どういう意味ですか。それではまるで……」


 青ざめたハロンが言葉を紡ぐより先に、ベティは鋭い口調で言った。


「口止め料です。ハロン、貴方はこの話を私にするべきではありませんでした」


「局長は何のために、そんなことを」


「さぁ?」


 わざと素っ気なく返したベティは、揚げ物にピンクのクリームをたっぷりと付けた。


「もしかしたら、それこそ皆のやる気を出すためかもしれません。いずれにせよ、貴方はこの件については黙秘し続けたほうが良いでしょう」


「……貴女はどうするのですか」


「いつも通り仕事をするだけです。異世界に転移する者を阻止する。それが私たちの仕事ですからね」


 意味ありげに笑ったベティを見て、ハロンの額に再び冷汗が浮かんだ。

 異世界調整事務局で何かが始まろうとしていた。

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