終 章 Mid Ships ―舵中央―②
龍馬や茂田、そしてグラバーらの願いとは裏腹に、その後日本は大きな内乱を迎えた。戊辰戦争と呼ばれたその戦いでは多くの血が流されたが、それでも外国勢力が紛争に乗じて介入してくることだけは避けられた。
紀州藩は徳川御三家の一角として、新政府軍の攻撃目標に定められていた。しかし、鳥羽・伏見の戦いで流れてきた旧幕府の敗残兵を領内に匿いつつも、維新政府への恭順を示すため軍資金十五万両と、藩兵千五百人を兵力として差し出したことにより、紀伊一国は兵火に巻き込まれることなく新時代を迎えることができた。
その振る舞いを裏切りだと謗(そし)る幕臣もいたが、一方で無用な血を流すことなく内乱の早期終結に寄与したと評価する声も、また多かったのだ。
勘定奉行の茂田一次郎は、やはり伊呂波丸事件での独断を咎められ、切腹を申し付けられた。しかし、ほどなくして蟄居へと減刑され、その命を取り止めることができた。紀州藩上層部が茂田という人材を惜しんだためとも、土佐藩から強く助命嘆願があったためとも噂されているが、真相は分からない。
乗船を促す鐘の音が鳴り響き、楠之助を長い追憶から呼び戻した。
人の流れが埠頭の方へと向かっているのは、間もなく船が出るからなのだろう。これから旅に出る者や見送りの者たちは皆、どこか浮き立つような賑々しさで足早に歩を進めていく。
楠之助は、ぼんやりとその人波に目をやりながら、かつて忍びの娘が口にした言葉を反芻していた。
(歴史に、名を残して)
胸の内で残響するその声に、楠之助は我知らず力なく首を左右に振る。
――私に、そんな価値などない。
自分はただ、おめおめと生き延びて変わりゆく時代を傍観してきただけではないのか。そんな男に、何を語る資格があるというのだろうか。
楠之助が溜息と共に顔を上げた時、すぐ目の前の屋台で洋菓子を売っている西洋人の小さな男の子が、こちらをじっと見ていることに気が付いた。
目が合うと男の子は帽子をとり、とことこと近付いてきて楠之助を見上げ、
「エクスキューズ・ミー、サー」
と遠慮がちに声をかけてきた。
サー、と呼び掛けられたことがあまりに久方ぶりだった楠之助は、一瞬声を詰まらせたが苦笑いと共に、
「私はサーではないよ。何かご用かい? 坊や」
そう言って、男の子の目線に合わせてその場にしゃがみ込んだ。
「失礼ですが、ミスター・タカヤナギでいらっしゃいますか?」
大人びた口調で小首を傾げるようにして問いかける可愛らしい様子に、楠之助は思わず笑みをこぼし、いかにも自分は高柳だと名乗った。
「ああ、よかった。さきほどあるご婦人からことづかったんです。これをミスターに渡してほしいと」
男の子が差し出した小さな紙包みを受け取った楠之助は、訝しく思いながらも言われるままにそっとそれを開いてみた。
中に入っていたのはビスカウトだ。男の子の屋台で売っているものなのだろう。だが、その包み紙の裏に何かが書き付けてあることに楠之助は気が付いた。
笹の葉の輪郭を線でなぞったような、細長い形のものが描かれている。菓子をよけながらその絵の全体を見ていくと、下の方にぞんざいな字で小さく〈フネ〉と記されていた。さらに、絵の中には何やら文字のようなものも見え隠れしている。ビスカウトを一枚取り上げると、〈U〉というアルファベットが認められた。その次には〈N〉、そして〈L〉と続けられており、楠之助は次々にビスカウトの下から現れる文字を目で追っていった。
U・N・L・O・A・D・E・D
――アンローデッド。楠之助は記憶にある訳を頭に思い浮かべる。
銃の弾丸を抜き取る……、何かを打ち明ける……、船から荷を降ろす……。
船……? そうだ、周りの線画はフネだった。荷を積んでいない船、アンローデッド・シップ……。
空船(からぶね)だ!
「坊や!」
がばっと顔を上げた楠之助は、血相を変えて男の子に向き直った。
「これを君に託したご婦人は、どっちへ行ったか分かるかい?」
楠之助の慌てぶりに少々驚いた様子を見せた男の子は、それでも賢そうな目をくるりと見開いてはっきりと答えた。
「次の船に乗って、アメリカまで行くのだとおっしゃっていました。外国航路ですと第七埠頭だと思います」
楠之助は弾かれたように立ち上がり、男の子に礼を言うと懐からコインを取り出し、その小さな手に握らせた。
「ありがとう、坊や! ビジネスの成功をお祈りしているよ!」
駆け出した楠之助の背に、「サンキュー、サー!」と男の子の大きな声だけが追いすがってきた。
楠之助は走った。外国航路である第七埠頭の方角からは、出港を知らせる汽笛が腹の底に響くような名残の音を奏でている。
息せき切って駆け込んだ埠頭は、見送りの人々でごった返していた。船はすでに岸壁を離れ、色とりどりの無数のテープと紙吹雪が舷側から降り注いでいる。
楠之助は踵を返して隣の埠頭へと回り込み、ドックの建屋の階段へ足をかけた。丁度港を出て行く船の縁と同じ高さのギャラリーが設けられているのだ。
息を弾ませて、楠之助はなりふり構わず階段を駆け上った。
最後の段を踏み越えた瞬間、楠之助の眼前に巨大な客船の舷側がいっぱいに広がり、顔を上向けると岸壁に向かって手を振り続ける無数の乗客の姿が目に入った。
「しのっ……!」
楠之助はその名をすべて叫ぶ前に、胸に溢れ出す万感の思いに声を詰まらせた。
デッキには清楚な洋装に身を包んだ、しのぶの姿があった。彼女は楠之助に微笑みかけると、いつかのあの日と同じく西洋の貴婦人のようにふわりと膝を屈して挨拶し、舞台から退くようにその姿を人波に溶け込ませていった。
彼女は生きていた。そして約束通り、伊呂波丸の積荷の真実を伝えるメッセージを楠之助に託したのだ。だが、もはやそんなことはどうだっていい。彼女が新天地で、これからの人生を歩んでいけることこそが何よりの救いなのだ。
楠之助は茫然と佇み、遠ざかる客船が描く白い航跡を、ただ眺め続けていた。
何の前触れもなく、最後に龍馬が語った言葉が楠之助の脳裏に蘇った。
(わしらあは皆、日本ちゅう大きな船のクルーなんじゃ)
ああ、そうか。自分はこれまで、陸に上がった役立たずの船乗りだと思い込んでいた。だが、そうではなかったのだ。新しい時代のため、自分はクルーの一員として、この日本という大きな船に乗り組んでいたのだ――。
楠之助は、胸の底からふつふつと湧き上がってくる愉快な気持ちに、いつしか声を上げて笑っていた。
こんなに楽しい思いはいつ以来だろう――。
不意に、楠之助は大きな船のデッキ上にいる幻想を見た。出港を目前にした慌ただしさと心浮き立つような高揚感のなか、皆が懸命に持ち場で作業に当たっている。そしてその舳先には、海風を身体いっぱいに浴びて気持ちよさそうに目を細める、龍馬の姿があった。
甘い幻は泡沫のようにすぐ消えてしまった。しかし楠之助は晴れやかな気持ちで、しのぶを乗せた船が行く針路に目を向けて姿勢を正した。
そして、まるでひと時だけ船の長に戻ったかのように、朗々と号令を放った。
「機関、前進微速」
そうだ、ゆっくりでいい。出港したばかりの日本という大きな船は、悠々と正しい針路を取ればいいのだ。
楠之助は前方を真っ直ぐに指差し、生涯最後になるであろう秘密の操舵をオーダーした。
「舵中央。Mid Ships(ミジップ)!」
〈真っ直ぐ進め〉という願いが解き放たれたその先には、常よりも蒼い凪の海が、どこまでもゆったりと広がっていた。
(完)
伊呂波アンローデッド―伊呂波丸事件異聞― 三條すずしろ @suzusirosanjou
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