第一章 Hard a Port ―取り舵一杯―③

 明光丸はゆっくりとその場から後退し、衝突点から距離をとった。

 しかし、エンジン出力と船体の重さ、さらには潮流の速さも相まって明光丸は相手の船から大きく五〇間(約九〇メートル)ほども離れてしまった。古来、潮流が強く複雑であることで知られるこの海域を航行するには、本来であれば潮目を読むための特殊な経験が必要とされるのだが、この時ばかりは如何ともしがたかった。離れすぎた距離を縮めるため、楠之助は細心の注意を払って微速前進を命じた。

 明光丸が慎重に、衝突した船へと再び近づいていく。だが、機関長である覚十郎はいち早く、蒸気機関の異常を示すほんのわずかな音の変化に反応した。

「キャップ、エンジン音おかしいど!」

 その注進に、一瞬遅れて楠之助の耳もエンジンの立てる微妙なノイズを捉えた。衝突のショックで機関出力が不安定になっているのだ。これでは、目標地点で停船することができなくなる――。

「エマージェンシー・フル・アスターン! 機関後進全速!!」

 ほとんど絶叫に近い号令が轟いたが、すでに遅かった。必死の急制動もむなしく、加速のつきすぎた明光丸は再び相手の右舷船尾に衝突する形で、ようやくその船足を止めた。

 すぐさまボートが下ろされ、まず岡崎ら二名の明光丸士官が相手方の船へと乗り移っていった。それに続き、他の当直士官たちも次々にボートを漕ぎ出していった。

 楠之助は各クルーにてきぱきと指示を出しながら、その合間に遠眼鏡を取り出して相手方の船の様子を確認していった。

ランプの薄明かりでも、相当の損傷を受けているのが見てとれる。自力での航行は……残念ながら難しいだろう。

 そのデッキ上を往き来するクルーが手にしている提燈に目を転じると、「蛇の目紋」が描かれている。どうやら大洲藩加藤家の物らしい。大洲は現在の愛媛県大洲市から伊予市を中心とした一帯を領有していた、勤皇の気風が盛んな藩だ。そして、提燈の横には「伊呂波丸」の文字が読み取れた。

 伊呂波丸――。その船の名を、楠之助は胸に刻み込んだ。

 さらに他のクルーの提燈に視線をずらすと、今度は「三つ葉柏」の家紋が目に飛び込んできた。三つ葉柏といえば、土佐山内家の紋所ではないか。

(伊呂波丸……。なぜ大洲と土佐の藩士が一緒に?)

 そうこうしているうちに、安否確認に出向いた明光丸のクルーたちが、続々とボートを漕ぎ寄せて帰艦してきた。傍らには伊呂波丸の乗組員であろう人員を多数伴っている。また、明光丸の舷側には縄橋子がかけられ、伊呂波丸から直接乗り移ってくる者たちもいた。

 数名の明光丸士官が楠之助に現状報告をすべく、息せき切って駆けつけてくる。

「キャップ、やはり事故船の蒸気機関は損傷甚大、それに船体の破損した箇所から浸水しています。応急処置を施してはいますが……、そう長くは浮いていられないでしょう」

「分かった。とにかく全ての人員をわが艦に移送するんだ。荷物は最低限の手周り品のみにするよう徹底してくれ。あの船には一般の乗客もいるようだな。どこの船籍かは分かったのか?」

 楠之助の質問に士官たちは顔を見合わせ、困惑した表情を浮かべた。

「それが……ある者は〈大洲藩だ〉と言い、またある者は〈土佐藩だ〉という始末で……。誰に聞いても、どうにも要領を得ません」

 楠之助が見たとおり、やはり大洲と土佐両方の人員が乗り組んでいるのだ。だが、船籍が不明瞭なのはどういうわけだろう。しかし今は全員の安全確保こそが最優先だ。気を取り直した楠之助は、今度は負傷者の確認に向かった。

「ドクター、怪我人の様子は?」

 そう声をかけられた医官の成瀬国助が、いつもの冷静な様子で淡々と応答する。

「三名が顔に蒸気創を負っていますが、生命に別状はありません。膏薬を塗布、水薬を投与しました」

 命に関わる怪我でないのなら、まずは一安心だ。今のところ死人が出るという最悪の事態だけは避けられたようだ。

 明光丸のデッキ上は、自船のクルーと伊呂波丸の乗員・乗客とが入り乱れ、各藩の方言が怒号のように飛び交い混迷を極めている。

 あとは、伊呂波丸側の船長か責任者と話をしなければ――。

 楠之助が辺りを見回したその時、明光丸の士官に伴われて一人の男が近付いてきた。

 異相、と言っていい。

 背丈は五尺八寸(約一七六センチメートル)程もあろうか、当時としてはかなりの長身だ。それに、髷がまともに結えないのではないかと思えるような縮れた髪を後ろで束ね、近眼の人がよくそうするように、切れ長の眼をぎゅっと細めた渋面をつくっている。

 仙台平の袴に、黒絽の紋付というありふれた和服姿だが、足元が変わっている。楠之助は最初、西洋の船乗りが履くデッキシューズかと思った。だがよく見ると、それは日本ではまだ珍しいハイカットの革製ブーツだった。

 不思議な格好をしたその男は楠之助の前まで来ると、少し威圧的な外見からは意外なほど、穏やかな声で語りかけてきた。

「まずは貴艦よりの救護、痛み入ってござる。軽傷の者はあれど、お蔭様にて皆つつがなく移乗賜りました。紀伊侯の御船かとお見受けつかまつりますが?」

 訛りのない、分かりやすい武家言葉に楠之助は内心ほっとした。それにこの落ち着いた物腰であれば意思疎通も上手くいくのではないか。

「いかにも、我が艦は紀伊海軍・明光丸にござる。それがしは艦長の高柳楠之助と申す。此度の海難、衷心よりお見舞い申し上げる。何より人死にもなく、御人数打ち揃いて安堵いたした。貴船名は〈伊呂波丸〉と承りしが、いずこの船籍なりや?」

「我が船は大洲藩籍にて、土佐侯御用の〈海援隊〉が借り受けて運用してござる。しかし既にご覧の有様、自力航行はもはや望めますまい。この上は、最寄りの港津まで曳航願いたく、御願いつかまつる」

 そう言って長身の男はすっと頭を下げた。理路整然とした物言いに、堂々としつつも辞の低い立ち居振る舞い、おそらく彼が伊呂波丸の責任者なのだろう。

「ごもっともにて、承って候。この海域から最寄りの港は……備中鞆の津にてござるが如何がなりや?」

「よしなにお取り計らいのほどを」

 話は迅速に取りまとまった。ちょうどその時、覚十郎とドクターの成瀬国助が、もう一人伊呂波丸の人員を伴ってやってきた。

「伊呂波丸船長の、小谷耕蔵です」

 そう名乗った彼は、先ほどの長身の男とは対照的に、丸顔に二重瞼の大きな眼、そして分厚い唇といったいかにも人のよさそうな人相をしている。

 小谷はしきりに伊呂波丸に積載している荷物を気にかけ、速やかにそのすべてを明光丸に移し替えてほしいと訴えた。しかし、いつ沈没するか分からないような船での作業は危険であり、さすがに承服しかねた。

 さらに、伊呂波丸の沈没を防ぐために、船体を明光丸に接舷・固定するよう要求してきたのだが、今ある資材だけでは技術的に不可能だ。先ほどの話どおり、引っ張るようにして最寄りの鞆の津を目指すことで了承を取り付けた。

楠之助は伊呂波丸を曳航すべく、二条のロープで両船を接続するようクルーたちに指示を出した。

 何とか港まで船体がもってくれれば……。祈るような気持ちで、蒸気を噴き続ける伊呂波丸に目をやる。

 楠之助は、そこでふと思い出したように長身の男に向き直り、あらためて問いを発した。

「ご無礼ながら……、貴公の御名は?」

 男はうっかりしていた、とでもいうように居住まいを正すと、

「申し遅れました。拙者、土佐藩海援隊……才谷、梅太郎と申します」

 そう言って、初めて表情を緩めてくしゃっと笑ってみせた。

 その唐突な無防備さに、楠之助は才谷と名乗った男に対して言い知れぬ好感のようなものを覚えてしまった。

 出会った場所が、立場が、そして時代が違えば、二人は無二の親友になれたのかもしれない――。

 だが、無論その時の楠之助はこれから待ち受ける運命など、知る由もなかった。

 明光丸は伊呂波丸を曳航しつつ、一路備中鞆の津へと針路をとった。鞆の津、つまり現在の広島県福山市、「鞆の浦」のことだ。

 伊呂波丸には明光丸と海援隊の水夫計六名が乗り込み、亀裂の入った船体の様子に注意を払い続ける役目を負った。もしも伊呂波丸が水没すれば、ロープで繋がった明光丸までもろともに海の底へと引き摺り込まれてしまう。その時は、躊躇することなく切り離さねばなるまい。

 明光丸は機関微速で前進を開始した。ぴんと張り詰めたロープの先には、既に船体が傾きつつある伊呂波丸を捉えている。慎重に、だができる限り速やかに鞆の津へと入港すべく気ばかりが逸るが、無残にも伊呂波丸の浸水の速度は増していき、その姿はもはや浮いていることすら苦しげな様相を呈している。

 もはや、これまでだ――。

 伊呂波丸に移乗していた水夫たちが、大声で合図を送った。

 それまでじっとその様子を見守っていた副長の覚十郎は、明光丸から延びているロープの根元へと歩み寄ると仁王立ちとなり、数瞬の間瞑目するように瞼を閉じた。

やがてかっと目を見開くと同時に腰の刀を抜き放ち、大上段に振りかぶって全体重を乗せるようにロープめがけて斬り下ろした。

 船の曳航に耐えられるほどの極太のロープ二条があやまたず切断され、びゅるん、と音を立てて後方へと弾け飛んでいった。

 すぐさま伊呂波丸から水夫たちを収容すべくボートがおろされ、全速力で漕ぎ寄せていくのがデッキ上から認められた。

 曳かれる力を失った伊呂波丸は、まるでくず折れるかのような速さでその姿を海中へと没していく。

 衝突点からおよそ二里(約八キロメートル)の備中宇治島付近、時計の針はちょうど午前四時を指していた。

 伊呂波丸のクルーたちは自分たちの船の最期を目の当たりにし、悲鳴とも慟哭ともつかない叫び声を上げている。

 楠之助は悲痛な気持ちで、才谷と名乗った長身の男の表情を覗った。

 だが、ぎゅっと細められたその眼は沈みゆく伊呂波丸を凝視したまま、一切の感情を押し殺したように沈黙していた。

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