第三章 紅茶と御庭番③

 楠之助は、幕府側の陣営からまさにその戦場を目の当たりにしていたのだ。

 この時の戦は幕府軍が長州における藩境、すなわち大島口・芸州口・石州口・小倉口の四箇所から侵攻したため「四境戦争」と呼ばれることもある。

 中でも最大の激戦地となった小倉口では長州の奇兵隊・報国隊などの諸隊が九州・小倉への上陸作戦を敢行、海上に展開していた長州艦隊は小倉藩の幕府陣地を砲撃してこれを援護した。

 これら陸海の長州軍を実質的に指揮したのが遊撃将軍・谷梅之助こと、奇兵隊総督・高杉〈東行(とうぎょう)〉晋作だった。

 楠之助は明光丸を駆り、兵員や物資の輸送任務に従事していたのだが、紀州藩兵が投入された芸州口の戦いで早々に幕府軍は敗退。以降、諸藩の部隊は積極的な戦闘を回避するようになっていた。小倉口での激戦においてもそれは変わりなく、奮戦する小倉藩兵や洋式の幕府陸軍らを尻目に、諸藩はほとんど傍観の態度を決め込んでいた。

 それ以上動こうとしない紀州藩の部隊にもどかしい思いを抱きながらも、楠之助はいわば観戦武官のようにして戦況の実見に赴いていたのだ。

 そこで目にしたのが長州艦隊の一糸乱れぬ戦闘機動と、正確無比な艦砲射撃の実力だった。その射撃の精度は、単純な錬度の高さというだけでは説明しきれないものだった。おそらく事前に、入念な測量に基いた詳細な地形図を作製し、その情報を艦隊で共有した上で実戦にあたっているのだろう。航海測量を専門とする楠之助は、長州の軍略に戦慄した。

 これは、いわば中世対近代の図式そのものなのだ。

このままでは幕府軍は――、絶対に勝てない。

そこまで思い至った時、楠之助は視界の端に一隻の艦が戦闘海域に突入してくるのを捉えた。

 入り乱れる長州艦と幕府艦の間を縫うように、奔放なまでに自由な航路をとりながら戦場に乱入していく。それが楠之助たちにとって仇成すものだと分かったのは、その艦載砲が小倉口の幕府陣地に向けて火を噴いた時だった。

 他の長州艦と同様に、的確な砲撃には思わず目を瞠るものがあった。しかも乱戦のさなか、狭い海峡を不規則な針路で全力航行しながらの攻撃だ。

 まるで、艦による流鏑馬(やぶさめ)だ――。

 楠之助は、疾走する馬上から確実に標的を狙撃する、古来の弓術を連想していた。だが、艦の動きは一人だけでできるものではない。

 艦長・航海士・砲撃手・操舵手・機関士、そしてすべてのクルー。

 これらの意思が渾然一体となり、艦は一個の生き物と化すのだ。それは到底一朝一夕の訓練で成し得るものではなく、鬼神のような操艦技術をもった指揮官と、それに応えられる練達の乗組員が心を合わせてこそ初めて可能になることだ。

 海上を龍の如く踊り、馬の如く駆けるその船の動きに、楠之助はもはや戦慄を通り越し、ある種の感銘すら覚えていた。

 さざめきのように、同じ陣営の藩士たちが囁きあう声が伝わってくる。しきりに〈ユニオン号〉という名が繰り返されていた。隠密らがもたらした情報が伝えられたのだろう。そして、その船将は誰かという問いが誰ともなく発せられ、

坂本龍馬――。

 その名が挙げられたのだった。


「もうお分かりかと思いますが、龍馬さんにユニオン号での参戦を依頼したのは誰あろう、高杉晋作さんです。二人はとっても仲良しで、晋作さんは龍馬さんに上海土産のリボルバーなんか贈ったりしているんですよ。でも晋作さんは何と言うか……こう顔が長くって、男前っていう感じではないですねえ」

 しのぶの話を聞きながら、楠之助は激しく動揺していた。

まさか、あの才谷さんこそが坂本龍馬その人だったとは――。

手元の紅茶はいつのまにか飲み干してしまっていたが、あまりの衝撃にお茶の味などほとんど感じないままだった。

「……もう一杯淹れたら、君も飲むかい?」

 もう少し落ち着こうとした楠之助は二服目を思い立ち、しのぶにそう問いかける。嬉しそうに何度も首を縦に振る娘の様子に思わず笑ってしまった。

「こういうものもあるんだけど……好きかな?」

 キャビネットにしまってあった菓子があるのを思い出した楠之助は、小皿に盛ったそれをしのぶの前にそっと置いた。

「まあ、ビスカウト!」

 楠之助がすすめたのは今で言うビスケットだ。鎖国を続けてきた江戸幕府において、唯一の貿易国だったオランダから伝わった西洋菓子としてよく知られ、作り方も簡単なため高い人気を誇っていた。

 いただきます、と軽く合掌したが早いか、一枚まるごと口に頬張ったしのぶは幸せそうにぽりぽりと咀嚼している。

「おいしい。炒ったカヤの実を砕いてまぶしてあるんですね! まるでローストアーモンドみたい……。こんなの初めて」

 喜んで二枚、三枚と手を伸ばす姿を微笑ましく眺めながらも、楠之助は徐々に面妖な気分になってきた。

(この娘、全然忍びらしくない)

 知らぬ間に目の前に立たれた時はさすがに驚いたが、無防備に紅茶とお菓子を口にするしのぶはあどけない少女そのものだ。

「毒が入っているかも、とか思わないの?」

 呆れたように問う楠之助に、

「あら、毒入りお菓子を常備している人には見えませんわ」

 と、涼しい顔で切り返してくる。つくづく妙な娘だ。

「で、その坂本龍馬さんについて、もっと教えてもらえることがあるのかな?」

 二杯目の紅茶を準備しながら、楠之助は話の続きを促す。

 口の中のビスカウトを飲み下したしのぶが、忘れていたとばかりに身を乗り出してきた。

「はい。ここからが本題です。龍馬さんは伊呂波丸の積荷を、銃器だと言ったのではありませんか? これはとても厄介な事態です。なぜならそれを証明しようにも、船は沈んでしまったから。つまり、悪くすれば積荷の内容は実はこうでしたと、どうにでも言えるということ」

 しのぶの言葉に、楠之助は背筋が冷たくなるような感覚を味わった。

 そうだ、伊呂波丸の積荷は当初、少しの米と砂糖だけだという話であり、副長の覚十郎に至ってはその目で直に確認しているのだ。

 にも関わらず、龍馬たちは四百挺の最新式ミニエー銃を積載していたのだと、堂々と主張してきた。今後の談判において、それ以上の要求を突きつけられる恐れは充分にある。いや、むしろその可能性を視野に入れて対応すべきであろう。

「伊呂波丸、という船のことも改めて知っておいていただきましょう」

 ティーポットの中で踊るリーフを見やりながら、しのぶが話を続ける。

「スペックで言うと全長三〇間、船体幅三間、深さ二間、ちょうど明光丸より一回り小型といったところですね。機関出力は四五馬力、スクリュー式推進ですが三本マストで帆走も可能です。建造はイギリスのバーミンガム。もとは〈アビソ号〉という名前だったものを大洲藩が買い取り、〈伊呂波丸〉と改めました」

 しのぶの語ることに耳を傾けながら、楠之助は充分に色付いた頃を見計らって、彼女の器に二杯目の紅茶を注いでやった。

「その時、伊呂波丸購入にあたった大洲藩の責任者は郡中奉行の〈国島六左衛門〉という方です。そして、長崎でそれを斡旋したのが薩摩藩勘定奉行〈五代才助〉と、坂本龍馬さんだったのです。しかし、国島さんが本来負っていた任務は銃器の買い付けだったようなんです。でもどういう訳か、藩には無断で蒸気船の購入を決めてしまいました。おそらく龍馬さんと五代さんとの接触がそうさせたのではないかと思います。そして国島さんは、その責任を厳しく咎められ――、切腹を申し付けられたのです」

 一息入れるように、しのぶが紅茶に口をつけた。それに倣うように楠之助も器を手に取る。今度は馥郁たる茶の香りも味わいも、しっかりと感じることができた。

「大洲藩内で伊呂波丸はその処遇が検討されました。大金を投じたものの、蒸気船の操作に長けた専門のクルーが揃っていなかったため動かせなかったのです。そこで、名乗りを上げたのが土佐海援隊でした。その時の海援隊は自分たちの持ち船が無く、海援隊は伊呂波丸を大洲藩籍のまま有料で借り受けることを提案しました」

 そこまで言って、しのぶは唐突に大きく息を吸い、節をつけて唄を歌いだした。


  今日を始めと

    乗り出す船は

      稽古はじめのいろは丸


「と、歌いながら海援隊の皆さんは船出したのですが、つまり伊呂波丸は龍馬さんたちにとって練習艦の役割も持っていたのです。ちなみにこれ、龍馬さんが作った歌なんですって」

 そうだったのか――。

楠之助はようやく腑に落ちた。船上で龍馬が見せた堂々とした振る舞いに比べ、船長だと名乗った小谷耕蔵はじめ伊呂波丸のクルーたちの、何とも言えない垢抜けなさが気に掛かっていたのだ。

 後に楠之助が〈浮浪剽悍(ふろうひょうかん)の暴士〉、つまり血気盛んな無頼漢たちのようだった、と回想している海援隊の面々の風体は荒々しく、正直なところ初めてその姿を目の当たりにした時は、まるで海賊のようだと思ってしまったのだ。

 小谷や他のクルーへの質問に対する応答も心許なく、どことなく確信なさげな様子だったことにもこれで合点がいく。つまり、伊呂波丸のクルーは〈蒸気船乗り〉としては、まだまだ洗練されていなかったのだ。「稽古はじめの」と歌っていることからも、それは海援隊士たちにとっても共通の思いだったのかもしれない。

 深く頷きながら話に耳を傾ける楠之助の様子を確かめながら、しのぶがさらに続ける。

「伊呂波丸は十五日間の航海につき、五百両で大洲藩から海援隊に貸し出される、という体裁になっていました。船本体の代金は三万三千六百両。大洲藩は長く船を貸し出すことで費用の回収を図り、海援隊は伊呂波丸を運用して交易を行い、合法的に収益を上げるという両得の方法が考え出されたかに見えたのです」

「……それが明光丸と衝突して沈んだことで御破算になった、そういうことだね?」

 楠之助の言に、しのぶがこっくりと頷く。

 つまり龍馬にとっては大洲藩への補償問題があり、是が非でもまとまった金を捻出する必要があったということだ。

 だがもちろん、金子に関わることだけではない。歌の通り、すべての船乗りがそうであるように、きっと前途の希望に満ちて帆を揚げたのに違いない。

海の男にとって船とは恋人であり母であり、帰るべき故郷そのものでもあるのだ。それが沈んでしまうというショックの大きさは、体験した者でないと決して分からないだろう。

とにかく、どんな理由があろうとも、こちらは誠を尽くして対応するだけだ。

楠之助は胸のうちで思いを新たにする。

「あ、それと蛇足かもしれませんが、昨日海援隊を脱退したいと龍馬さんに申し出た方が二名おられました。その理由というのが勇ましくってですね、〈皆に迷惑をかけないよう海援隊を辞した上で、明光丸に斬り込んで紀州に一矢報いる〉というのです」

 楠之助は飲みかけた紅茶を危うく噴き出しそうになった。

「待て待て! 何だってそういう話になるんだい?」

 予想もしないことに驚き、茶にむせながらしのぶに問い質す。

「龍馬さんが海援隊の皆さんにどんな説明をしたのかまでは分かりませんけど、どうやら〈紀州の連中は自分からぶつかってきて伊呂波丸を沈めた挙句、はした金を放り投げてさっさと長崎に向かいやがる〉って思っているみたいですよ」

 しのぶはこともなげにそう言い、おいしそうにもう一口紅茶をすする。

「つまり紀州は徳川御三家という大藩の威光を笠に着て、土佐をないがしろにしている……。そう、思われているんだね?」

 はっきりそう口に出してしまってから、楠之助は暗澹たる気持ちになる。おそらく龍馬を中心に、鞆の津での交渉にあたったメンバーはそのような含みを持たせて経緯を隊士らに説明したのだろう。

「詳細を知らされなければ、そう思われても仕方ないかもしれませんねえ。せめて直接、海援隊や乗客の皆さんにお見舞いするべきでしたね。あなたの失策です」

 しれっと手厳しいことを言われながらも、楠之助は返す言葉もない。重大な誤解が後々尾を引かなければいいのだが――。

「それで、龍馬さんはその脱退希望者らを慰留したのだろうか。誤解とはいえ、そこまでの覚悟を決めた男たちをどうやって納得させたのかな」

「それはもちろん、〈長崎できっちり決着をつける〉と約束したに決まっています。かえって海援隊の結束は強まり、皆さん戦にでも臨むような気の昂ぶりようでしたよ。直訴したのは〈佐柳高次〉さんと〈腰越次郎〉さんです。腰越さんは明光丸の岡本副長と同じ機関士さんです。でもなんだって、こうエンジニアにはおっかない人が多いのでしょうねえ。お二人ともそんなに男前ではないけれど、決意を固めた殿方というのは素敵ですよねえ」

(男前かどうかの話ばかりだな、この娘は……)

 楠之助は呆れつつも、明光丸と伊呂波丸、それぞれのクルーが抱える温度差の在り処を突き付けられる思いがした。

 だが、御庭番がわざわざこのような情報をもたらしたということは、事件はすでに本国に伝わっており、紀州藩上層部も事態を重く見ている証拠にほかならない。長崎の談判では、こちらも気を引き締めてことに臨まなくてはなるまい。

 ことりと小さな音を立ててテーブルに器を戻し、しのぶがゆったりと席を立った。

「さて、と。そろそろ行かなくちゃ。紅茶とお菓子、ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」

 ぺこりと頭を下げてドアに向かいかけた彼女だったが、何かを思い出したように急に振り返り、

「あ! それと鞆の津で親切にしてくれた大西屋公兵衛さん。あの人、実は福山藩の隠密なんですよ。龍馬さんとは古い付き合いみたいですから、おそらく圓福寺では監視されていたのでしょうねえ。海援隊が宿舎にしていた枡屋さんにも、中二階には隠し部屋があるんですよ。多分そこで龍馬さんと大西屋さんあたりが秘密の談合なんかしていたのじゃないかしら。彼らに迂闊なことはおっしゃらなかったでしょうけど、ほんのわずかな情報でも重要な手掛かりになりますからね。あまり簡単に心を許しては駄目ですよ。あと最後にもう一つだけ。お偉いさん方から〈絶対に武力衝突は避けるように〉とのお言い付けです。紀州人は喧嘩が苦手ですからねえ」

 と、冗談めかして重大なことを言い置いた。

「それではキャップさん、ごきげんよう」

 最初に挨拶した時のようにふわりと膝を屈すると、静かにドアの向こうに消えていった。

 何やら圧倒されてしまったように動けずにいた楠之助はふと我に返り、彼女が狭い船内のどこへ身を隠すつもりなのか質す必要に思い至った。

 しかし、すぐさまドアを開けて通路の左右を見渡したものの、すでにしのぶの姿はおろか、足音すらも認めることはできなかった。

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