第五章 龍と柳③

 しのぶの書いた地図を手に、楠之助と覚十郎は龍馬の宿舎がある漆喰町へと急行した。目当ての家屋を見つけると、押し込みと疑われないよう呼吸を整え、坂本龍馬先生にお目にかかりたいと丁寧に来意を告げた。

 懸念とは裏腹に、拍子抜けするほどあっさりと屋内に招き入れられた二人は、二階の奥の部屋がそうだと教えられ、緊迫した面持ちで急な階段を上っていった。

「御免。紀州藩、高柳楠之助と岡本覚十郎、罷り越してござる。坂本先生、失礼いたします」

 そう声を掛けて襖をゆっくりと開いていく。と、そこには芸妓と思われる女が酒肴を前に、艶な仕草で三味線の弦の張りを確かめていた。

「坂本先生にご用ばあると? ばってん、もうすぐ帰られますけん。兄さんらも呑まんと?」

 愛嬌を振りまきながら、土地の言葉で酒を勧めてくる女に鋭い一瞥を投げかけた覚十郎は、それなら仕方がないというような表情で盃を受け取りに近付いていった。

「やあ、これはすみませんなあ。ほな、遠慮のう頂きます。姐さん一人で呑んではったんやろか?」

 あい、あい、と笑みを絶やさずに頷く女に、覚十郎はさらに近付いた。

「こんな別嬪さんほったらかして、坂本先生も人が悪いですな」

 急にぐいっと顔を寄せてきた覚十郎に驚いて、女は座布団からずり落ちるようにして後ろへ倒れそうになった。

「ちょっと、何ばしよっと!」

 女が怒気を露わにして覚十郎をなじった。その狼藉に、さすがに楠之助が諌めようとした瞬間、さっきまで女が敷いていた座布団を覚十郎がさっと引き抜いた。その下にはもう一枚座布団があり、何故か二枚重ねとなっていたのだ。覚十郎は下にあった座布団の表面に手を当てると、

「キャップ、龍馬はすぐ近くや! 今ならまだ追い付ける!」

 そう言うや否や勢い込んで立ち上がり、部屋を飛び出していった。訳も分からず後を追った楠之助の背に、女の金切り声だけがまとわりついた。おそらく土地の言葉で罵詈雑言を浴びせられているのだろう。

「覚、説明してくれ。どういうことだ?」

 横に並んだ楠之助が、走りながら覚十郎に問い掛ける。

「あの姐さん一人で呑んでたって言うけど、あんな真っ赤な口紅さしてるのに、盃に付いてへんのはおかしいやろ? それに座布団二枚敷きにしてあって、下にあったやつが温かったんや。つまり、ついさっきまで隣に誰か座ってて、それを隠すために自分の座布団の下に敷いたんや。そもそも急に押し掛けてきた連中に酒出すのも不自然やないか。女に逃がしてもらうやなんて、龍馬もええ御身分やのう!」

 息せき切った二人は、大通りへと走り出てきた。方角は二方向に分かれている。思いの外の人の波に、目指す人物を見定めることは心許なくなっていた。

「キャップ、二手に別れよう。決して無茶はせえへんって約束するから、キャップももし龍馬を見つけたら強談せんと、これ吹いてわしに知らせちゃってくれ」

 そう言って船乗りが使う、遠くまで音の響くホイッスルを握らせた。無論、覚十郎が龍馬を見付けた場合でも同様だ。二人はそれぞれ逆の方向に向かい、すっかり日が落ちて紅灯がともり始めた長崎の町に走り出していった。

 楠之助は人込みを掻き分けながら、特徴のある龍馬の後姿を見定めようと目で追い続けた。やがて大通りの果てに至ろうとしたその時、ふいに裏路地へと歩みを曲げた長身の男の姿が目に入った。

 間違いない、龍馬だ――。

 楠之助は気取られないよう足音を忍ばせつつ、速度を上げて龍馬の後を追っていった。

 坂の多い長崎の町は、ひとつ路地を曲がると急斜面に家屋敷がひしめき合い、つづら折りの道が複雑に入り組んだ迷路のような姿をしていた。慣れた足取りで悠々と進んでいく龍馬を見失うまいと、楠之助も必死で坂道を上っていく。

 やがて龍馬は古びた鳥居を潜り、長い石段を上がっていった。参道の両脇には灯篭が立ち並び、祭礼でもあったのかいずれにも煌々と灯りがともされていた。石段を登り切った所には存外に広い境内があり、篝火が燃え盛っている。楠之助は足音を忍ばせて一挙に龍馬との距離を詰めていくと、火明りに照らされたその背中に向けて声を掛けた。

「龍馬さん!」

 ぴたりと歩みを止めた龍馬は、

「楠之助さんじゃろう?」

 そう言って、ゆっくりと振り返った。

 折りしも篝火の薪が爆ぜ、一瞬高く炎が舞い上がった。

「ははっ。尾けてきとるのが、あの恐ろしい副長さんじゃったらどうしようかち思うとったぜよ」

 軽口を叩きながらも、尾行に気付いていたことを示してしっかりと牽制している。しかも口元は綻ばせているが、目だけは決して笑っていなかった。

「龍馬さん、何ゆえ紀州を目の敵にするのです? 我らは誠心誠意、事故の対応にあたってきたはずだ。それを何故……、何故、あのような強談で大金を強請(ゆす)り取るのですか!」

「強請る? 心外じゃのう。例えどういう形であれ、話し合いを通じて正式な手続きで賠償金の支払いを承諾したんですろう? なのにわざわざそういう言い掛かりを付けにくるっちゅうんは、ちと男らしゅうないのう」

 嘲るように言い放つ龍馬に、それでも楠之助は食い下がった。

「あんたたちや藩の上層部が、何を考えているかは俺には分からない。だが、ものには通すべき筋があるはずだ! 一方的に責任をこちらに押し付けて賠償金を請求するなど、言語道断ではないか? 得心のいく説明をできないと言うのなら……」

「ほう。できないと言うのなら……? 結局こいつに頼りますがかえ?」

 龍馬は刀の柄を、手の平で撫でながら問い掛ける。

「どうやら言い争うても無駄のようですのう。残念じゃが……仕方ないきに」

 ふっと龍馬が小腰を屈めたかと思うと、そのまま発条(ばね)が弾け飛ぶかのような勢いで、楠之助目掛けて真っ直ぐに走り込んできた。手は既に刀の柄にかけられ、いつでも抜刀できる体勢を整えている。

 肉薄してくる龍馬の動きが、不思議なことに楠之助の目にはゆっくりと映っていた。瞬時に足元の草履をはねて刀の鯉口を切り、柄に手掛けしてぐっと腰を落とす。楠之助が最も得意とする「居合」で迎撃する構えだ。

 数瞬の間に間合いを詰めてきた龍馬が、今しも刀を抜き放とうとしたその刹那、楠之助は鞘を返して斜め上に向けて抜き打ちの一撃を放った。狙うは龍馬の手首の内側、「裏籠手(うらごて)」と呼ばれる部分だ。

 剣術の達者として紀州にも名が知られている龍馬だ。まともに立ち合っては斬り負けるかもしれない。楠之助はただ一刀に全霊を込め、尚かつ相手の戦闘力のみを封じて生命までは奪わない、居合の裏籠手切りにすべてを賭けた。

 龍馬の手首に切っ先が到達したと思われた直後、存外に硬く乾いた音が鳴り響き、鋼と鋼が食い込み合う強い手応えを感じた。

 龍馬は柄の握りを逆手に持ち替え、途中まで抜き出した刀身を楯にするようにして居合の一撃を受け止めたのだ。

 衝撃で両者の動きが止まったのは刹那の間だった。ほとんど同時に互いに後ろへと飛び退り、間合いを切って構え直す。

 楠之助は目にも留まらぬ速さで刀を鞘に納めると、再び居合で迎え撃つ気勢を示した。

――来い。何度でも!

 心の内でそう叫び、下腹に力を入れて気を充実させていく。

 楠之助の太刀筋を受けたままの体勢で気攻めを続けていた龍馬は、やがてふっと肩の力を抜くとゆっくりと刀を納めながら静かに口を開いた。

「……やるもんじゃのう、楠之助さん。今のは肝が冷えたぜよ。それに、たいがい一太刀打ち合わせたら、後は気が萎えて怖くなるもんじゃけんど、その様子じゃったらなんぼでも斬り結ぶ気いですろう。ちっくと脅したら退いてくれるかもしれんと思っとったけんど、いやいや、紀州にも骨のある侍がおるもんじゃ」

 話し掛けることでこちらの油断を誘う作戦かと警戒し、楠之助が一層気を張り詰める。ところが、龍馬はいつもの飄々とした態度のまま、やにわに腰から大刀を鞘ぐるみに抜き取った。続いて短刀まで外してしまう。

「なあ、楠之助さん。人間なんぞ、剣じゃろうが銃じゃろうが簡単に死んでしまうもんじゃ。忘れちょりましたが、ここは神社の境内じゃきに、血を流すような無粋な真似は避けたいもんですのう」

 そう言いながら、片膝を着いて大小二刀を丁寧に脇に置いた。だが、その間に懐に差し込まれた右手には、次の瞬間ピストルが握られていた。

 しかし龍馬は、にわかに緊迫感を高めた楠之助を安心させるように、引き金に指をかけていないことを示しながら銃口を空へと向けた。そしておもむろに弾倉を展開して、バラバラと全ての銃弾を落とすと、無力化した銃を刀の脇にそっと置いた。

「やるんじゃろう? 柔術を。鞆の津では、あの恐ろしい副長さんを見事に押さえ込みましたろう。わしも柔にはちっくとうるさいんじゃ。……素手で勝負せんがかえ?」

 そう言い放つや羽織を脱ぎ捨て、「さあ来い」と言わんばかりに諸手を広げて組み合いに誘ってきた。

――そう来るか、龍馬さん。

 一歩間違えば、丸腰のまま斬られるかもしれない危険な行動には違いない。だが、ここまでされて受けて立たない男はいないのではないか。楠之助がどのような対応をするのか、充分に読みきった上での挑発だろう。だが、信頼とも挑戦ともつかない不可思議な龍馬の振る舞いに、楠之助は心のどこかで喜びに似た思いを感じていた。

 黙って二刀を脱した楠之助は、やはり丁寧に刀を置くと羽織を脱ぎ、正面から龍馬と対峙した。

「おおっ!」

 同時に放たれた気合と共に二人はぶつかり合い、互いに充分な体勢で組み合うと、その身に棲まわせたありったけの術を解放するかのように、次々と技を繰り出していった。

 柔術には投げ技だけではなく、締め技・極め技・固め技、そして突きや蹴りなどの当て身技までが含まれている。だが技の応酬の最中でも、龍馬は眼や顔面、金的などの危険な急所を決して狙ってこなかった。

 だが――、強い。

(これが……、坂本龍馬か……!)

 楠之助は、頭一つ分以上も大柄な龍馬の猛攻がもたらす圧力に、徐々に体力を消耗させていった。このままではほどなく力負けしてしまう――。

 楠之助の力の流れが一瞬途切れ、小さな隙が生まれた。それを鋭敏に察知した龍馬はその肘関節をひねり上げ、そのまま横向きに投げを放った。楠之助の身体が宙に浮き、そのまま地面に叩きつけられるかと思われた。

だが――。

狙い澄ましていた機を過たず捉えた楠之助の眼に、一際強い光が宿った。楠之助は投げられる瞬間、自ら地面を蹴って大きく跳んだ。そして一回転するその勢いと相手の力を上乗せして、強力な〈返し投げ〉を龍馬に見舞った。

 龍馬と楠之助は、巴の形になって一瞬宙に浮き上がった。その直後、二人は同時に激しく地面に叩きつけられた。

 完全な形では技が決まらなかったため、楠之助も受身を取れないまま境内の石畳にしたたか頭を打ち付け、目の前に火花が散るのを見た。

 朦朧とする意識の中、すぐ隣で伸びている龍馬の呻き声が聞こえてくる。

「ちゃちゃちゃ……。痛てえのう……、なんちゅう技ぜよ」

 間延びした龍馬の声に、楠之助は思わず苦笑してしまいながら、息も絶え絶えにその技の名を口にした。

「関口新心流……、楊柳(ようりゅう)」

 紀州、藩外不出の秘伝とされる柔術流派の第一に修める技だ。正確には田辺藩士である楠之助が習える流派ではなかったが、目をかけてくれた師範から特別に一本だけ伝授されたのだ。咄嗟の状況でもあり、楠之助の工夫を加えて応用したため本来の形そのものではないが、紀州が誇るこの流派の名を、龍馬には覚えてほしかった。

「楊柳、ですか。〈柳に雪折れなし〉っちゅうことですな。楠之助さん、あんたにぴったりの技じゃ」

 大の字に寝転んだまま、龍馬が楠之助を称えた。篝火の仄明るさの中でもはっきりそうと分かるほど、頭上には満点の星が輝いている。古えより、すべての船乗りを導いてきた北辰(北極星)が二人の上に瞬いていた。

「龍馬さん、私は本当のことが知りたいんだ。そこまで紀州を嫌う理由と……、伊呂波丸が本当は何を積んでいたのか教えてくれませんか?」

 意識がだいぶはっきりしてきた楠之助が、龍馬に問いかける。身体はまだ痛みで動かすことができず、寝転んだままの姿勢だ。

「わしらは紀州を嫌っちょるわけではないがです。此度の事件は……、申し訳なく思う気持ちもありますき。じゃが、どうしても金がいるがじゃ。それはこの日本の未来のため、必要な金じゃ」

〈日本の未来〉という言葉が、何か不思議な余韻をもって楠之助の心に滲み入ってくる。黙っていることが催促の代わりだと察した龍馬が、さらに続ける。

「今この国は、外国からの侵略と内戦の危険に同時に曝されちょります。わしはそれを、絶対に避けたい。両方ともじゃ。じゃが、そのためには哀しいかな、具体的な資金が要りますき。例え強談でも、今回の賠償金は合法的に調達したという建前がありますき、表立って使うことができるがじゃ。茂田一次郎さんは、そんなわしらの機微を正確に察知してくれました。いわば、わしらに紀州の未来を賭けてくれたんじゃち、心得ちょります。楠之助さん、納得でけん気持ちは、よう分かる。じゃけんど、後少し待ってたもんせ。この国は間もなく夜明けを迎えるがじゃ。必ず紀州が、いや、日本のすべての人が後悔せんよう、平和に時代を変えて見せますきに。これからは藩っちゅう区切りは関係ない。わしらあは皆、日本ちゅう大きな船のクルーなんじゃ」

 日本という船の、クルー――。

 楠之助は、驚きのあまり声も出せずにいた。龍馬は……、龍馬という男は、そんな巨大な視野で物事を見ていたというのか。

 時代が大きな転換点を迎えようとしていることは、楠之助にもよく分かる。故に、運命の波濤に飲み込まれないためには、龍馬のような男に舵を託すことも必要なのではないか。今回の事故の決着の仕方は無念ではあるが、楠之助は龍馬の言うことを信じる気持ちになっていた。

「楠之助さん。あと一つ、積荷のことじゃけんど、実は……」

 その語尾を遮るように、参道下から慌ただしい駆け足の音と共に楠之助を呼ぶ大声が響いてきた。ぎくっとした龍馬が、

「ああ……、いかんちゃ。あの恐ろしい副長さんじゃろう。わしゃあ、ああいう〈いごっそう〉はもうたくさんなんじゃ」

 頑固で気骨のある快男児を指す、土佐弁の意味までは楠之助には分からなかったが、それでも悪口でないことは龍馬の物言いや表情から充分に伝わってくる。

「立てるかのう……? よっ、おっと。おお、膝がガクガクしますのう」

 ようやく立ち上がった龍馬は、ふらふらとした足取りで刀と銃を拾うと、羽織を肩にかけて本殿の裏手へ続く道へと足を踏み出した。

 だが途中で振り返ると、まだ動けずにいる楠之助に向かって微笑みかけ、

「続きは今度会えた時に言うぜよ。シャモ鍋でもつつきながら、一献傾けたいですのう」

 そう言って、小走りに駆け出していった。しかし、その姿が視界から消える前に、

「楠之助さん。ボン・ボヤージュ!」

 航海の安全を祈るフランス語の挨拶が、楽しげにすら聞こえる声で楠之助の耳へと届いた。

 その直後、石段を上がってきた覚十郎が、境内に倒れている楠之助の姿を認め、

「キャップ!」

 と、血相を変えて駆け寄ってきた。

 怪我のないことを何度も確かめ、やや安堵した覚十郎は息せき切って楠之助に問い掛ける。

「龍馬は? 見つかったんやろ? どっち行ったんや?」

 だが楠之助は、ゆっくりと首を左右に振ると、

「いや……。龍馬さんには……、会えなかったよ」

 そう言って力なく微笑んでみせた。驚いた覚十郎がなおも何か言い募ろうとするのを遮るように、

「会えなかったんだよ」

 楠之助はもう一度、はっきりとそう言った。

「……そうか。会えれへんだんやな……。そうか……」

 覚十郎はすべてを悟ったかのように天を仰ぐと、そうか、そうか、と何度も繰り返した。

(これで、いいんだな。龍馬さん)

 胸の内で呟きながら、楠之助は痛みを堪えて上体をゆっくりと起こしていった。

 眼下には長崎の町の灯りが、満点の星空を反射したかのように煌いていた。

 その光は港に碇泊する船々をも淡く照らし、その先のはるかな海へと吸い込まれている。

 楠之助の目に、ふいに涙が溢れ出した。ぼやけていく視界の中で、それらの灯が次々に混ざり合い、やがてひとつの大きな光へと溶け合っていった。

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