終 章 Mid Ships ―舵中央―①

 慶応三年(一八六七)十一月九日、紀州は伊呂波丸事件における賠償金を土佐藩に完済した。結局、再調停の末に賠償額は七万両に減額され、日本初の蒸気船同士の衝突事件はこれで落着したかに見えた。

 だが、その間に国内は未曾有の転換点を通過し、未だその衝撃が収まらない状態が続いていた。

 大政奉還――。

 六百有余年にもわたる武家の政権が朝廷に返上されたのだ。主導したのは土佐藩であり、その計画にはやはり坂本龍馬が深く関わっていたのだという。

 茂田や龍馬がいみじくも予見していた、徳川幕府の終焉がまさに現実のものとなったのだ。だが、国内には不穏な空気がくすぶり続けていた。混乱する情勢のなか様々な思惑が交錯し、有象無象の革命勢力が一層その動きを活発化させていたのだ。

 

 楠之助は深夜の和歌山城下を、足早に歩んでいた。

 吐き出される息の白さが外気の冷え込みを示しているが、頭の芯はぼうっと熱を帯びたように火照り、ほとんど寒さを感じられない。

 先ほど緊急の召集で和歌山城に登城した楠之助は、そこでもたらされた報せに愕然とした。

 坂本龍馬、死亡――。

 十一月十五日、京都近江屋にて何者かの手により斬殺されたというのだ。

傍らには土佐陸援隊隊長・中岡慎太郎も共におり、龍馬はその場で死亡、中岡はその後二日ほど存命したものの、ほどなく息を引き取ったという。

龍馬暗殺の下手人は分かっていないが、賠償金完済から一週間と経たないうちでの凶事だ。伊呂波丸事件の結末を禍根とした紀州の手の者が、龍馬に報復したという疑いを向けられるのは明白だった。

城での達しでは藩内の主だった者、特に伊呂波丸事件の当事者である明光丸のクルーたちには充分に身辺を警戒するよう注意されていた。

龍馬に近かった勢力からの襲撃も考えられるためだ。

(龍馬さんが、死んだ)

楠之助は何度も胸の内でそう呟きながら、宿舎への道のりを闇雲な速さで進んでいく。荒い呼吸でいよいよ白さを増した息が、ふいにあの衝突事故の時に伊呂波丸が噴き上げていた蒸気の煙を思い起こさせる。

 あれだけのスケールで時代を見通していた男が殺された。それはこの混迷の時代において、嵐の海上で羅針盤を失うに等しいことではないか。

(ボン・ボヤージュ!)

 楠之助は龍馬が最後に掛けた言葉を反芻しながら、涙がこぼれないようぐっと奥歯を噛み締めた。

 やがて、蔵屋敷が建ち並ぶ水路沿いの界隈へと達した。昼間は荷を満載した舟が行き交い活気に溢れているが、さすがにこの時間では不気味なまでに静まりかえっている。

 橋のたもとまで至ったその時、楠之助は背後から足音を忍ばせて接近してくる気配があることに気が付いた。橋の手前で立ち止まり、くるりと後ろを振り返ると、尾行してくる気配もぴたりと動きを止めた。

「いずこの者だ。私に何用か」

 誰何するも、当然返答はない。楠之助がさらに一歩踏み出そうとした瞬間、前方で風切り音が鳴り響き、何かが闇を裂いて飛んでくるのが感じられた。

 反射的に抜刀してそれを払った楠之助は、手応えと甲高い金属音から忍びの使う棒型の手裏剣が打ち込まれたことを悟った。

 身を伏せながら路地に飛び込み、蔵の壁を盾にして手裏剣が飛んできた方向の気配を探る。

 城下でありながら、自分は既に狙われているのだ――。

 楠之助は納刀し、居合の体勢をとりながら全神経を集中して敵の様子を探った。じりじりと間合いを詰めてくるのはどうやら一人ではない。だとすれば、こちらの位置を確認した相手は包囲して多方向から攻撃を加えてくるのではないか――。そう思い至った瞬間、意識を向けていた方角とは反対の場所から、再び風切り音が鳴り響いた。

 今度は近い! 楠之助が抜刀する間もなく身を強張らせた直後、鈴(りん)のような音を立てて耳元のすぐ傍で手裏剣が払われた。

「キャップさん、決して刀を抜いては駄目よ」

 闇の中から現れ、素早く楠之助と背中合わせになって苦無(くない)を構えたのは御庭番のしのぶだった。

 驚く楠之助を庇うように周囲の気配に警戒しつつ、早口でしのぶが囁きかける。

「暗闇だと、刀は星明りすら反射して敵に居場所を知られてしまいます。どうかじっと辛抱して、私の言う通りにして」

 しのぶは楠之助を橋の方へと導きながら、闇の彼方に向けて腕を一閃させた。手裏剣が風を裂いて飛んだ直後、呻き声と共にどさりと人のくず折れる音がした。敵の忍びに命中したのだろう。

 仲間が倒されたことで警戒を強めたのか、楠之助としのぶを取り囲む気配がしばし鳴りを潜めた。その瞬間を捉えるように、しのぶは楠之助の手を引いて橋の中ほどまで一息に駆け抜けた。

「あと少しで仲間が迎えにやってきます。ここは私が食い止めますから、キャップさんは確実にここから離れることだけ考えてください」

 再び闇の向こうの気配が動き始めていた。今度は足音を隠そうともせず、じりっ、じりっ、と徐々に包囲網を狭めてきているのが手に取るように分かる。二人……いや、三人ほどもいるだろうか。他藩の城下にまで潜入して闇討ちに来るなど、相当の手練れ達に違いない。だからと言って、楠之助はもはや退く気などは微塵もなかった。例え任務を帯びた忍びの者とはいえ、こんなあどけない娘を楯にしてまで生き延びたいと思うほど、惜しい命ではない。

「いいや、俺もここで斬り合う。君だけ残しておめおめ逃げ延びるなんてまっぴらだ。死ぬなら……、誰にも恥じないように戦って死にたい!」

 そう言って楠之助が再び刀の柄に掛けた手を、しのぶがそっと押しとどめながら笑みを漏らした。

「キャップさん」

 母親が小さい子どもに何かを言い含めるかのような声音で、しのぶが優しく語り掛ける。

「ねえ。もしずっと後の世の人たちが、伊呂波丸が沈んだお話を聞いたらどんな風に感じるんでしょうね? 今のままでは土佐の人たちの言い分ばかりが残るでしょうから、きっと紀州の連中は何て悪い、嫌な奴らなんだって思われるんじゃないかしら。だからね、キャップさん。きちんと生き延びて、本当の歴史を伝える人が必要なのよ。だから私は、あなたを守るよう命じられたの。私たちのような日陰に生きる者は、決してその存在が記憶されることはないわ。でも、あなたは違う」

 絶句する楠之助に、ふいにしのぶの顔が寄せられた。

「歴史に、名を残して」

 そう言うや否や、しのぶの唇が楠之助の口を強く捉え、舌先で何か丸薬のようなものが押し込まれた。楠之助が驚く間もなく、丸薬が胃の腑にすとんと下りていった。あっという間に腹の底がかっと熱くなり、手足の先から順に痺れが這い登り、程なく身動きひとつ取れなくなってしまった。

 動きの止まった楠之助の身体をしのぶは優しく横にすると、欄干の際まで運びもう一度微笑みかけた。

「それと伊呂波丸の積荷のこと、もうちょっとで分かりそうなんですよねえ。必ず報せに来ますから、待っててくださいね」

 それが最後に聞いたしのぶの声だった。充分に間合いを詰めてきた敵の忍びが、橋の両側から一斉に手裏剣を放ってきたのだ。次々にそれらをかわし、あるいは打ち払っていたしのぶは、一瞬の隙を衝いて楠之助をするりと橋の下へ向けて落とし込んだ。

 すでに全身が痺れに覆われていた楠之助は、声ひとつ立てることができないまま落下していった。その身体が川面に激突するかと思われたまさにその瞬間、上流から矢のように漕ぎ下ってきた猪牙舟(ちょきぶね)に拾われて、積み上げられた稲藁の山に、ずんと受け止められた。

 すると船頭らしき男が楠之助の耳元に、落ち着いた声で囁きかけた。

「紀伊御庭番、嘉助と申します。このまま港へ出、田辺まで護衛いたします」

 楠之助は口を開こうとしたが、やはり声が出ない。無理やり首を捻じ曲げて元居た橋の方を見やると、すでに随分と離れてしまっていた。

 橋上で盛んに火花が飛び散っているのは、しのぶがそこで戦っているために違いない。

 楠之助を載せた舟は尚も速度を緩めることなく、橋からどんどん遠ざかっていく。そして充分な距離がとられたことを見計らったように、今や小さく見える橋の上でチカッと光が瞬いた。

 次の瞬間、大音響を立てて爆発が起こり、橋は木っ端微塵に吹き飛んだ。

 川面を渡ってきた爆風に頬を弄られながら、楠之助はしのぶの名を叫んだが、それが声になることはなかった。

 視界の端で嘉助がそっと合掌するのが見え、それっきり楠之助の意識は遠のいていった。

 爆発の残光が、瞼の裏に星明りのように焼き付いていた。

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