第五章 龍と柳②

 楠之助は一人、紀州藩宿舎である聖徳寺の縁に腰掛けて物思いにふけっていた。     

 原点に立ち返り、そもそも何故、あの時伊呂波丸が原則とは異なる左方向へと転舵してきたのだろうかと考えていたのだ。これは憶測でしかないが、操舵号令の方法である〈ホイールオーダー〉と〈ティラーオーダー〉との混同が原因だったのではないだろうか。ホイールオーダーは舵輪を操作する方法であり、右方向へ船を進める号令があれば舵輪を右に回転させて変針する。一方、ティラーオーダーとは、舵に直結した舵柄と呼ばれる棒を左右に動かして方向を定めるものであり、号令の意味がホイールオーダーとは逆になるのだ。これら二つのオーダーが混在するこの時代では、号令や操作のミスであらぬ方向へと船を進めてしまうことが多々あったのだ。

 一時は伊呂波丸が、あるいは意図的に明光丸にぶつかるよう仕向けてきたことも疑ったが、状況的にそこまでの危険は冒せないだろう。それに、船長の小谷とその他のクルーは、いかにも蒸気船に不慣れな印象だった。元来〈伊呂波丸〉の〈いろは〉とは物事の初歩、そしてその修得のことを意味しているのではないか。そういった意味では、海援隊にとって伊呂波丸は実習船としての役割を持っていたのかもしれない。

 しかし、今さらそんなことに思い至ったとしても何になるだろう。楠之助は頭の中から伊呂波丸のことを振り払うように立ち上がると、境内から見える大きな夕陽に目を細めた。


 五月二八日の今日、聖徳寺では茂田一次郎が重要な客を招き、会談に及んでいた。

 客の名は、五代才助。後に「大阪近代経済の父」として名を轟かせる五代友厚その人だった。当時、薩摩藩勘定奉行として長崎でも顔を知られていた五代に、茂田は土佐藩との賠償問題に関する調停を依頼したのだ。

 五代は、大洲藩の伊呂波丸購入に際しては龍馬と共に斡旋に関わっており、ある種の因縁も含めて仲介には最適の人物と言えるだろう。

 会談には、茂田一人が臨んでいた。ごく短い時間で話は済んだのか、座敷の方から人声が重なって移ろい、やがて表口へと向かっていった。首尾よく段取りが決まったのならば、接待のために酒家にでも繰り出すのだろう。

 山門の向こうに足音が消えていくのを待って、楠之助はゆるゆると立ち上がり、あてがわれている自室へと引き上げようとした。すると、会談に使われた座敷のすぐ傍で茫然と立ち尽くしている男の後姿が目に入った。確かめるまでもなく、副長の覚十郎であることは一目瞭然だ。

「覚の字、どうした?」

 何気ない問い掛けにゆっくりと振り向いた覚十郎の顔に、楠之助は息を呑んだ。かつて見たこともないほどに憔悴し、蒼白となっている。

「……ああ、キャップか。なんでもあらへん。あ……、いや……。そやな、なんや気分が晴れんから、ちょっと飲みにでも行って来るわ。今日はもしかしたら深酒になるかもしれへんよって、もし明日の朝までに帰らんでも心配せんとってな」

 最後のほうは、無理に陽気さを取り繕っているかのように、覚十郎はふらふらとその場を離れていった。あまりの様子にそれ以上声を掛けるのも躊躇われ、気掛かりではあるが楠之助は自室へと向かった。あれほど剛毅な男でも、やはり一連の経緯は心身にこたえて当然だろう。一夜の酒くらいは大目に見てやりたい。

 陽は急速に落ちていき、楠之助が自室に入ったときは既に室内は暗く、目が慣れるまでに数瞬を要した。ふと文机を見やると、何か書面のようなものが置いてある。部屋を出たとき、机上には何も無かったはずだ。手にとって目を凝らすと薄暮の中でもようよう文字が見分けられる。楠之助はすぐにそれを開き、目を通し始めた。だが、読み進めるうちにその手は小刻みに震え出し、ついにはその場にくず折れるように座り込んでしまった。文は御庭番のしのぶからの報告書だった。そこには茂田が五代との会談で、土佐への賠償金支払いを独断で了承したこと、その裏ではやはり龍馬が暗躍していたこと、そしてその賠償金の額がはっきりと記されていた。


 金 八萬三千五百弐拾六両百九拾八文


  内 三萬五千六百三拾両         伊呂波丸沈没に付き、船代

    四萬七千八百九拾六両百九拾八文   右に付き、積荷物等代価


 楠之助は、震えが全身へと広がっていくのを止めることができなかった。常識外れの莫大な金額だ。しかも積荷の代価が船本体の額をはるかに超える数字に膨れ上がっているではないか。こんな賠償金を支払うなど、とても正気の沙汰とは思えない。

 震え続ける手で文をめくると、二枚目には下手な地図が添えられ、〈坂本龍馬宿所〉〈漆喰町〉などの文字が書き加えられている。つまりしのぶは、龍馬の居場所を知らせているのだ。そこまで読んだとき、楠之助ははっと気が付いた。先ほどの覚十郎の様子はただ事ではなかった。「酒を飲みに行く」「朝までに帰らなくても心配するな」などの断りも、よくよく考えるとおかしいのではないか。いつもならわざわざそんなことを言い置いたりする男ではない。

 楠之助は自室を飛び出すと、覚十郎の部屋へ直行した。勢いよく襖を開け放つと、机上には楠之助宛てに一通の書状が残されていた。開かずとも、もうそれが何かは明白だ。楠之助は直感的に、本堂の裏口へと走った。袴の裾を翻しながら足音高く駆け込んだ裏口の上がり框では、覚十郎が今まさにわらじ履きの足ごしらえを終えて、外へと踏み出そうとしているところだった。

 血相を変えて息を乱す楠之助の姿に、覚十郎はさすがに驚いたようだったが、自嘲するかのようにふっと寂しそうな笑みを漏らした。

「どこへ行くつもりだ。覚の字」

 詰問する楠之助の視線の先に立つ男の様子は、とてもこれから紅灯の巷に繰り出そうというそれではなかった。

 腰の大小はいつも見慣れた物ではなく、とんでもなく長い脇差と、短めではあるが身幅が広く重厚な造りの大刀を帯びている。足元が草履ではなく、安定性の高いわらじであることは先ほど認めた通りだが、肩口には羽織の生地を通して、たすき掛けの紐がくっきりと浮かび上がっている。

 明らかに、室内あるいは市街地での斬り合いを想定した装備だ。

 無言で鋭い眼差しを向けてくる楠之助に、覚十郎は諦めたように語り出した。

「実は茂田のおいやんと五代の話を盗み聞きしたんや……。その様子やとキャップももう知ってんねんやろ。やっぱり土佐は賠償金を要求してきて、茂田のおいやんはそれを呑んだんや。……どてらい金額やな。そやけどな、それは後の世まで土佐に恩着せることになるんやって、おいやんが言いよってな。この八万両ちょっとで紀州の未来を保障させる、って言うてはったんじゃ。五代は、なんぼなんでも独断でそこまでのこと決めてええんか、って念押ししたんやけど、茂田のおいやんは〈自分一人が腹切ればそれで済む〉って笑っとった……」

 紀州藩のみならず、幕府そのものの権威が現在進行形で低下していることは一般の藩士たちの目にも明らかだった。特に直前の対長州戦で喫した手痛い敗北は、諸藩に対する紀州の求心力を一挙に弱める結果となったのだ。しかし、その当の紀州藩そのものも幕府に対する不信感を募らせていた。徳川宗家は第二次長州征討で紀伊家に尖兵を命じながらも増援を送らず、敗戦後も何ら補償や労いもなかったのだ。

 早晩、徳川幕府は倒れる――。

 そんな認識がすでに紀州では浸透しつつあり、特に奥祐筆として政治の中枢にあった茂田は冷静に幕藩体制の綻びを見極めていたのだろう。

 土佐に賠償金を支払うことは、いわば紀州が雄藩に歩み寄るという暗黙のサインでもあるのだ。しかし、それはまだ藩全体としての統一見解ではない。それでも茂田は一命を投げ打ち、乾坤一擲のこのチャンスに全てを賭けたのだ。

「茂田のおいやんが言うことは、よう分かる。おそらく、これで紀州が今後無事に存続できるかどうかが決まるほどの正念場やったんや。せやけどな、キャップ。わしは大きな政治のことなんぞあずかり知らん、一介の侍や。侍っちゅうのは百姓が汗水垂らして作ってくれた米を、一粒たりとも無駄にしたらあかんのとちゃうか? 藩の金は、民百姓のものと違うんか? わしはどないしても納得でけへん。ごく一部の人間が、駆け引きのために簡単に動かしていいような金は、一文たりともないはずなんや」

 覚十郎は拳を握り締め、改めて楠之助の目を真っ直ぐに見据えた。

「せやからキャップ、わしはこれから坂本龍馬に会いに行ってくる。裏で糸引いとる男の真意がどんなもんなんか、この目で、この耳で、確かめたいんや。その上でもし、話が通じんかったら……、その時は新しい副長を探してほしい。キャップ、わし一人で行かせたってください。岡本覚十郎、一生一度のお願いです」

 そう言って、覚十郎は楠之助に深々と頭を下げた。茂田には茂田の、そして覚十郎には覚十郎なりの通すべき筋があるのだ。それこそが彼らにとっての〈武士道〉と呼べるものなのかもしれない。

 黙って聞いていた楠之助の呼吸はいつの間にか整い、全身を駆け巡っていた激しい震えも治まっていた。だが、そのかわりに胸の奥底からふつふつとやるせなさと怒りが湧き起こり、楠之助を衝き動かしていた。

 茂田も覚十郎も、自分一人で何かを背負おうとしている。何故、誰も彼も最後は己の一命をのみ、恃むのか。何故、もっと仲間の力を結集しようとしないのだ。俺は……、俺は艦長としてそこまで信頼に足らない男だというのか。我々は……、同じクルーではないか!

 それまで抑え込んでいた激情が不意に爆発したかのように、楠之助は覚十郎の胸倉を掴むとその身体を荒々しく戸板に押し付けた。

「俺は君をっ! 絶対に一人で行かせはしないぞっ!!」

 かつて見たことのない楠之助の剣幕に、覚十郎は驚愕して目を見開いた。

「君は侍であり、紀州人であり、そして明光丸の副長だ! それは例え船を下りて陸に上がろうとも、決して変わることはないんだ! 抜け駆けは、この俺が許さない! ……坂本龍馬のもとへは俺も同道しよう。そうして真意を問い質した上で納得できないようだったら、侍らしく斬り合って死のうじゃないか! いいか、これは命令だ! 副長っ!!」

 まん丸に瞠られた覚十郎の目から、ぽろりと一筋の涙が滴となって流れ落ちた。思わず手を緩めた楠之助に、泣き笑いのような表情を浮かべた覚十郎はただ一言、

「アイ、サー」

 そう答えると照れくさそうに、ごしごしと袖で顔を拭うのだった。

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