第二章 才谷梅太郎①

 明治の世を迎えてから、全国の港の様相は一変した。大量の外国船が往来し、様々な国の言葉がにぎやかに飛び交う別世界となっていったのだ。

 船舶もほとんどが蒸気機関を積んだ大型船で、楠之助にとってはまさしく〝隔世の感〟だ。

 だが、多くの船が往き来するようになったことで、その分海難事故もまた増加の一途をたどっていた。

 蒸気船同士が衝突すると、互いの大きな推力と速力のために激しい損傷を受けやすくなる。古来から考え出されてきた多くのルールを遵守しているつもりでも、やはり事故は後を絶たないのだ。

 そう考えたとき、楠之助はあの時の事件を思い出す。

 明光丸と伊呂波丸は、おそらく日本で初めての蒸気船同士の衝突事故だっただろう。

 それを不名誉だとは、いまの楠之助は思わない。むしろ歴史の重大な一ページを目の当たりにし、当事者として深く関わってしまったのだという静かな感慨があるだけだ。

 そしてそれはすなわち、「日本初の海難事故審判」という手探りの裁判へと臨んだ記憶でもあるのだ。

 楠之助は、今もはっきりと思い出すことができる。

そう、その始まりは鞆の津でのことだった――。



慶応三年(一八六七)四月二四日午前六時三〇分、明光丸は備後鞆の津に入港した。伊呂波丸の乗員計三四名も無事に上陸を果たし、一般の乗客には紀州側が宿舎を斡旋するなど、その後の対応も滞りなく進んでいった。時ならぬ事故船の入港に、鞆の津の人々も参集してあれこれと世話をしてくれたのだ。

だが、才谷をはじめとする伊呂波丸のクルーたちは、紀州による宿舎手配を辞退し、大洲藩御用達の廻船問屋「枡屋清右衛門」の邸宅に投宿するという。どうやら才谷らにとって鞆の津は、勝手知ったる土地のようだ。

 あとは自分たちが逗留する宿舎を探さなくては……。楠之助がどうしたものかと思案したその時、

「才谷様!」

 そう呼ばわりながら人込みを掻き分けるように、一人の男が走り寄ってくるのが目に留まった。

「おお! 大西屋さんやないがか!」

 男を認めた才谷は破顔一笑すると同じように駆け寄っていき、二人は西洋風にがっちりと握手を交わした。

 大西屋公兵衛、と名乗った男は、ここ鞆の津で薬種問屋を営んでいるとのことだ。商人らしい人当たりの良さと、港町の男特有の陽気さを備えたこの人物に、楠之助は好感を覚えた。

 才谷から事情を聞いた大西屋は、二つ返事で明光丸クルー達の宿舎斡旋を引き受けてくれた。商売柄顔も広く、こういった困り事への対応には手慣れている様子だった。

 大西屋はすぐさま人を遣り、宿を提供してくれそうな心当たりに打診してくれた。やがて手代の一人が色よい返事を持って戻ると、

「では、ご案内いたしましょう」

 飄々とそう言って、自ら案内を買って出たのだった。

 楠之助らは大西屋に導かれるまま、鞆の津の町を歩んでいった。

「船の事故だったと伺いましたが、よくぞご無事で何よりでございました。まずはごゆるりと……、と申し上げたいのですが、お急ぎの旅路だったのではございませんか?」

 親身にそう心配してくれる大西屋に、楠之助は思わず胸が熱くなる。

「ええ、長崎へと向かう途中での事故でした。すぐにでも出港しなくてはならないのが残念ですが、お心遣い誠にかたじけない」

 歩きながらも会釈する楠之助を押し留め、大西屋は声を弾ませて問いを重ねた。

「ほう、長崎でございますか。この時期に紀伊様の御家中が御船を仕立てて向かわれるということは、英国あたりの商人との取引か何かでございましょうか?」

「いや……、それは……」

 さすがに武器購入の目的をありのままに喋るのは不用意だ。さりげなく覚十郎がぴったりと寄り添って牽制していることもあり、楠之助は曖昧な返事をするしかなかった。

「や、これはとんだご無礼をいたしました。商いをする者の習い性でして、ついついいらぬ詮索をしてしまうのです。どうかご容赦くださいまし」

 そう言って大西屋は愛嬌のある笑顔を向けるのだった。


大西屋は紀州藩の面々に、上陸地点からほど近い真言宗・圓福寺という寺院を宿所として手配した。

そして腰を落ち着ける間もなく、主に楠之助と才谷とが今後の対応を協議することとなった。

 両者は紀州と土佐、それぞれの宿舎からちょうど中間地点に位置する「魚屋萬蔵」方にて改めて面会したが、第一の争点は既に明光丸の船上で提起されていた。

 才谷の主張はこうだ。当該海難事故で我が伊呂波丸は沈没し、帯びていた任務を果たすことができなくなった。この上は然るべき対応が決定するまで、貴艦をこの港に留めてほしい――。

 至極もっともな要望ではあったが、楠之助にとっては頭の痛い問題だ。既に承知のように、このとき明光丸は新たな蒸気艦と洋銃六千丁の購入を目的として長崎へと向かっていた。英国商人とのビジネスでもあり、当然支払いや受領の期日は厳守しなくてはならない。もし、今回の海難事故の始末がつくまで待機するとしたら、とてもそれらには間に合わないだろう。

 楠之助は断腸の思いで、才谷に理解を求めた。

「……故に、此度の衝突事件の始末には土佐と紀州、両藩の御重役にお出ましいただかねばなりますまい。されど、当地にて談判に及ばんとせば如何ほどの日数が要りましょうや? お察しの通り、我らも主命ありて長崎表へと罷り越さんとする身の上、この上はまず長崎へと参り、務めを果たした後にすぐさまとって返して御談に及びたくお願いつかまつります。ここ鞆の津にても、または大坂にても貴藩のご都合よろしき所に参上いたします故、なにとぞ御海容くだされたく……」

 必死に訴える楠之助が皆まで言い終わらないうちに、才谷はそれを押し止めるように穏やかな口調で語りかけた。

「楠之助さん」

 唐突に親しげな呼び方をされ、思わず楠之助の動きが止まる。

「もはや堅苦しい言葉遣いはやめにしませんがか。紀州弁と土佐弁は似たところもありますき。なんちゃあ、分からんことはその都度聞き返せばええですろう?」

 そう言ってまた船上で見せたような、くしゃっ、とした人懐こい笑顔を向けてきた。ざっくばらんな物言いに、楠之助もようやく胸襟を開いて話す気になった。

「……せやな、才谷さん。ほな、楽にいこら。わしかて訛るさかい、堪忍しちゃってよ」

 互いのお国訛りに少し笑いながらも、才谷はすぐに真面目な顔に戻って話を戻した。

「実は、伊呂波丸は京に届けるための急ぎの荷物を積んどりました。わしはその件についての責任者として、たまたま乗り組んどっただけですがじゃ。ですきに、楠之助さんのおっしゃることはよう分かりますけんども、一旦は伊呂波丸の船長やら他のみんなで合議の上、お返事したいと思うちょります。そいでええですろうか?」

 楠之助にとっては是も非もない。才谷の話によると、彼はいわば伊呂波丸にとってオブザーバーのようなもののようだ。一同の意見が取りまとまる頃を見計らっての再訪を約し、楠之助は才谷のもとを辞した。


 同二四日午後一時、土佐藩側の返答を聞きに枡屋清右衛門方へ向かったのは、副長の岡本覚十郎と医官の成瀬国助だった。先方へと到着した二人は才谷と面会して彼らの総意を確認、そしてその内容を楠之助に報告すべく再び圓福寺へと取って返し、海の見える僧房でいま三人が難しい顔を突き合わせているところだった。

「……それでつまり、我が明光丸が長崎へ行って戻ってくるまでの間、土佐の面々が当地で空しく時を過ごすことはいかにも耐え難い、と申されています。そこで両藩の乗り組み員同士でこの事件について議論し、それが完了するまではやはりこの鞆の津に碇泊いただきたいとのことです」

 ドクターの成瀬が楠之助にあらましを伝える。いつもの冷静な口調ながら、さすがに少しもどかしい思いが滲み出ているようだ。

「そいで、それ以上の議論は長崎表で継続したらええって言うちゃあるわ。せやから、才谷さん一人だけでも明光丸に同乗して、長崎まで連れて行けって」

 眉間のしわをより一層深くしながら、覚十郎が成瀬の後を続ける。やはり土佐藩側は当初の要望を譲歩するつもりはないようだ。

「キャップ、才谷氏がかように談判の決着を急ぐのは、彼がもとより航海者ではないためでしょう。ぜひとも当地で双方のクルーが揃っているうちに、その着地点を見届けたいと思っているのではないでしょうか?」

「……いや、それはちゃうど」

 成瀬の意見に反論したのは覚十郎だった。

「キャップもドクターも、才谷がただの伊呂波丸の荷物番やと本気で思うとるんか? あの御仁も自分でそない言うてしらばっくれとったけど、ありゃあ……船乗りやぞ」

 驚いて顔を見合わせた二人は、覚十郎に話を続けるよう眼で促す。

「まず、あの髪や。縮れっ毛にようけ鬢油付けとるさかい分かりにくいけど、日ぃの光に透けた時、赤う見えた。あれは潮焼けや。それも相当年季の入ったやっちゃ。それと夕べ、明光丸に乗り移ってキャップに近付いていった時、あんかい揺れちゃあったデッキの上でも真っ直ぐ歩いていきよったやろ。素人があないな真似できるかいな」

 覚十郎の鋭い観察に、楠之助も成瀬も思わず唸ってしまった。髪の潮焼けまでは気付かなかったが、言われてみればまさしくその通りだ。船上での才谷は誰よりも堂々としており、まるで彼こそが伊呂波丸の船長であるかのようだった。

「よく見ているなあ、覚の字は」

 嘆息と共にしきりに感心している楠之助だったが、一方で冷静さを失わない成瀬が至極もっともな疑問を口にした。

「では、何故彼は正体を隠して乗り組んでいたのでしょう? 何か特別な使命でも帯びていたということでしょうか」

 確かに、覚十郎の予想通りに才谷がもし本当に船乗りであるとしたら、それを偽るべき重大な理由があったはずだ。だが、いま優先すべきことはその詮索ではない。

「とりあえず話を戻そう。土佐の人たちはここ鞆の津で無為に待機することに難色を示しているんだね? では、才谷さんだけではなく、希望する人はすべて明光丸に同乗してもらい、一緒に長崎に入港するのはどうだろう。そして改めてそこで議論を尽くし、補償すべき点は誠意をもって対応するんだ」

 楠之助の意見に覚十郎も成瀬も賛同した。現在考えうる最善の方法ではあるだろう。あとは、この事をまた土佐側に伝えに行かなくてはならない。

「覚の字、次は私がドクターと一緒に行ってくるよ。君は少し休んでてくれ」

 おっかない顔で睨みを利かされたのではまとまる話もまとまらない――。そんな楠之助の心の声が聞こえたかのように、

「……宜う候」

 と、覚十郎は不承不承の生返事で応えるのだった。

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