第五章 龍と柳①
次回の談判に向けて宿舎で書き物をしていた楠之助は、襖の向こうに人が立つ気配に顔を上げた。
「高柳様、お茶が入りましたで。それに、文も届いておりますぞ」
しわがれた声が聞こえ、この家の小間使いをしている老人が盆に載せた茶器や菓子と共に手紙の束を持って入室してきた。すっかり腰が曲がっており、いつも頭巾を深く被っているので表情は窺い知れないが、楠之助に対する老人の態度は気さくながらも主人に接するかのように丁重だ。
「今日の茶菓子は〈カステイラ〉でございますよ。お口に合いますかの」
「ありがとう。私には珍しい菓子です。よかったらご老体もご一緒に」
楠之助が座を勧めると老人は恐縮しつつもそっとにじりより、自分の茶碗を取り出して二人分の茶を注ぎ分けた。楠之助はこうして老人と茶を喫するのを楽しみにしていた。
「先日の文の返書でしょうな。例の英国艦長たらいうお人の」
確かに、見慣れない模様の封筒には英文で差出人と宛先が記されている。
開封してさっと目を通してみると、そこには海外での蒸気船同士の衝突事故の事例がいくつか紹介されており、海難審判についての国際ルールが二十箇条にわたって記されていた。紀州にとっては実に貴重な情報だ。全員で共有すべく、邦訳しておかなくてはなるまい。
「どうですか。ええことが書いてありましたかいの?」
老人がいつになく興味を抱いた様子で楠之助の手元を覗き込んできた。いつもなら決してそんな不躾な真似はしないのに、珍しいこともあるものだと苦笑した瞬間、楠之助ははたと思い当たった。
「君……、しのぶだろう?」
ぎくっ、と動きを止めた老人はやにわに腰をしゃんと伸ばし、頭巾を脱いでつるりと顔をなでると、あどけない娘の顔を現した。
「ばれちゃいましたかあ」
若い娘の声でそう言ってぺろりと舌を出したのは、明光丸で龍馬の情報を伝えた紀伊御庭番のしのぶだった。
「匂いが違うよ。匂いが」
見破ったことを自慢げに言う楠之助だったが、
「やだ、やらしい」
と一蹴されて閉口してしまったが、わざわざ彼女が接触してきたということは新たな情報を携えているに違いない。
しのぶは勧められるまでもなく茶菓子のカステイラを口に入れ、幸せそうに咀嚼しながらもう一通の書簡を差し出した。
「ほれ。ひょうまひゃん、はられふ」
カステイラを頬張ったまま喋るので妙な音に聞こえるが、龍馬からの手紙だということは充分に伝わった。
「……行儀の悪い娘だ。食べるか喋るか、どちらかにしなさい」
しかめ面で手紙を受け取った楠之助は、もどかしく封を解くと書面に目を走らせる。そこには丁寧な文体ながらも、明光丸が鞆の津から長崎に先行したことと、事故責任が土佐側にあると主張していることを、改めて批判する内容が記されていた。
「何故、わざわざこんな手紙を寄越すのだろうか」
いずれも再三にわたって論議され、土佐側とも誠意をもって交渉してきたはずの事柄だ。あえてこのタイミングで書簡にすべきこととも思えない。
「それはもちろん、精神的な揺さぶりをかけるためですよ。それと、そうやって明文化しておくと第三者の目に触れた時に土佐側が被害者なんです! って感じがしますでしょ」
なるほど、しのぶの言うことには一理ある。これも龍馬の巧妙な策の一つということなのか。
「それで、今日は何を教えてくれるんだい?」
楠之助が水を向けると、真面目な顔になったしのぶが語り出した。
「もうお分かりでしょうが、龍馬さんたちはこの海難事故を明光丸の責任として、紀州藩に賠償金を請求する算段を整えています。具体的な金額までは掴めていませんが、おそらく大胆に吹っ掛けてくるでしょう。それに伴って龍馬さんは方々に手紙を送っています。内容を見ると、どうやら命懸けというのも大げさではありません」
さすが忍びの者と言うべきか、しのぶは龍馬の書簡の内容まで把握しているようだ。少し見直す気持ちになった楠之助に、彼女はさらに話を続ける。
「そして、龍馬さんは京の版元に『万国公法』の印刷を大量に発注しています。もちろん、海難事故審判の要項が書いてある訳ではありませんが、国際上の法令を遵守しているという姿勢を、世間に印象付けるのが狙いだと思います。それに、長崎の花街に丸山というところがありますでしょう。そこでこんな俗謡を流行らせています」
船を沈めた その償いは
金を取らずに 国を取る
節をつけてしのぶが歌ったのは、何とも穏やかではない唄だ。
「この歌すごい有名になっちゃって、長崎の人は子どもからお年寄りまでみーんな知ってるくらいです。龍馬さんは伊呂波丸事件を紀州の横暴による土佐の被害、という形で公表してすっかり世論を味方につけたようですね」
それには楠之助も心当たりがあった。食事に出たり、酒を飲みに行ったりした時に、紀州藩の人間だと分かると急に街の人の態度がよそよそしくなり、実に居心地の悪い思いをすると覚十郎がこぼしていたのだ。
長崎という土地までまるごと味方につけてしまう、龍馬の手腕には恐れ入るばかりだ。
「それともう一つ、次の談判に出張ってくる土佐側の代表が決定しました」
楠之助が身を乗り出すのを確かめるように、一呼吸置いてしのぶがその男の名を口にした。
「後藤象二郎さんです。土佐参政の」
「なっ……!」
楠之助は絶句した。常識的に考えて、紀州の代表となる茂田一次郎の役職と同等の、勘定奉行あたりがやってくるものと思っていたのだ。
参政とは、藩主に代わって藩の行政全般を司る、政治的な最高責任者のことだ。これは事実上、土佐藩のトップが乗り出してきたということを意味している。まさかそこまでの大物が出てくるとは……。どうやら龍馬だけではなく、土佐藩そのものが全力で紀州に牙を剥くつもりらしい。
「こうなっては、もう生半可なことでは土佐の主張に対抗することはできないでしょう。明光丸に非がないことを主張するより、現実的な線としては伊呂波丸の積荷の内容を明らかにし、攻撃の手を緩める方が得策です。本当に銃器を積んでいたのだとしたら、必ず売買記録が残っているはずです。つまり、そういった記録が存在せず、しかもお金の動きもないということを証明できれば、無体な賠償請求を退けられる可能性も出てくるでしょう。それに関しては私が現在探索中ですが、次の談判までに間に合うかどうか……」
そこまで言って、しのぶは悔しそうに下唇を噛み締めた。確かに、伊呂波丸が四百挺にも及ぶミニエー銃を購入して積み込んでいたとしたなら、商人との間に大きな金の動きがあったはずだ。それが存在しないことを証明できるのならば、紀州藩にとって決定的な有利材料になるだろう。だが、万事において周到な龍馬のことだ。おそらくそのような証拠も嗅ぎ付けられないよう巧妙に隠蔽しているのだろう。
「私は引き続き、外国商人の動向と銃器の流通について探索を続け、必ず務めを果たします。ただ……、事がこれだけ大きくなってしまった以上、常識的な決着は難しいのかもしれません。キャップさんも、どうかよくよくお心得ください」
随分と意味深な言葉を最後に、しのぶはすっと立ち上がった。頭巾を被り直し、腰をうんと曲げると元の老人の姿に早変わりしていた。
「見事なものだなあ……。あ、これを持っておゆき」
楠之助が感心しつつ、手元にあった自分のカステイラを包んでしのぶに手渡した。老人に化けた彼女は嬉しそうにそれを懐に入れると、ひょこひょことした足取りでゆっくりと部屋を後にするのだった。
慶応三年(一八六七)五月二二日、紀州藩宿舎である黄檗(おうばく)宗・聖福寺において、紀州藩と土佐藩の重役による会談が開かれようとしていた。
両藩を代表する責任者同士の話し合いということもあり、楠之助たち明光丸のクルーも緊張した面持ちで土佐の面々を出迎えるべく待機していた。
やがて山門の方からざっ、ざっ、ざっ、と草履履きの足音が幾重にも連なって鳴り響いてきた。海援隊を中心とする、土佐藩士らのお出ましだ。寺域内のため、ある者は一礼し、またある者は軽く合掌して門を潜っていくが、ただ一人傲然と面を上げたまま、足を緩めることもなく真っ直ぐにこちらへ向かってくる若い男がいた。
土佐参政、後藤象二郎――。
齢二十六にして土佐一国の舵取りを任された稀代の政治家だ。濃い眉と真一文字に口を引き結んだ厳しい表情を浮かべ、迫力ある固太りの体躯からは、ふてぶてしいまでの覇気が発散されている。
無論、その背後には飄々とした様子で、龍馬が付き従っていた。
会談の座敷に通された後藤は、形式的な挨拶の後すぐさま茂田に挑みかかるような調子で口を開いた。
「航路の問題は議論が尽きないところでしょうが、私には大きな疑問がひとつあります。あなたがたは長崎に着いてすぐ、奉行所に事件のあらましを絵図付きで提出していますね。しかも、我が伊呂波丸にはブーフランプが設置されていなかった、と明記した上でだ」
ぎょろりと目を剥いて、まるで睨みつけるかのように問い掛けてくる。意表を突いた切り口だが、茂田はたじろぐことなく悠々と受け答えた。
「ええ、左様に相違ありません。何よりもまずは事故について幕府に報告することが大事と心得、奉行所に報告いたしました」
「ほう。ですが、ブーフランプを設置していなかったという確たる証拠も無しにそういった報告書を提出すれば、あたかも我々だけに非があるような印象を与えるのではないですか? あるいはそれこそが貴公らの狙いなのでは、といらぬ勘繰りをしてしまいますな」
航路の問題を置く、と前置きしておいてブーフランプの件を持ち出してきたことに、楠之助は内心で舌打ちした。やはり土佐側にとっては、一番の弱点となりうる事柄に違いない。
「左様……。確かに、仰せの通りにござりますな。しかし断じてそのような他意をもって報告したわけではござりませぬ」
「では、茂田殿の思い込みと独断でそのように届け出たということですかな。ならば、その報告内容は事実とは言えませんな。しからば長崎奉行への報告を正式に取り下げていただきたい」
えっ? と、楠之助たちは驚愕した。まさかこんな力技で公式記録からブーフランプの件を抹消しようというのか。そしてさらに驚いたことに、
「ごもっともでござるな……。なればブーフランプの件については、私から奉行所に取り下げていただくよう申しましょう」
と、茂田があっさりと引き下がってしまったのだった。
その後の話し合いも、完全に後藤が主導権を握る形となり、茂田はそれらに反論らしい反論もほとんどせず、唯々諾々と従うだけのように見受けられた。
談判の内容を筆記しているドクターの成瀬が、小刻みに手を震わせている。副長の覚十郎は両の手で破れんばかりに袴を握り締め、屈辱に顔を紅潮させている。そして楠之助は、怒りを通り越して言いようのない絶望に打ちひしがれていた。
何なのだ、これは――? 何故茂田はこちらの主張を通そうとしないのか。あれよあれよという間に、後藤の提案によって海難審判そのものは長崎港に停泊中の英国海軍提督に判断を仰ぐこと、もし明光丸側に非があると断じられた場合、五月中に然るべき賠償金を支払うことなどが決定された。
会談は瞬く間に終了してしまった。土佐藩士らが退出するや否や、明光丸のクルーたちは凄まじい勢いで茂田に詰め寄った。
「茂田様! かようなざまで、いかがな御料簡か!」
「左様! 何ゆえ言われるがままで、反論もされなんだのです?」
「臆病風にでも吹かれ申したか!」
口々に茂田への詰問が飛び交い、場は恐慌状態に陥っていた。もみくちゃにされそうな茂田はそれでも威儀を正し、仲間に向き直ると落ち着くよう手で制しながら、ゆっくりと口を開いた。
「おまはんらあ、よう聞いちゃってくれ」
全員が聞く姿勢を見せるのを待ってから、茂田は嚙んで含めるように語りかける。
「皆が此度の事故について、心を砕いて奔走してくれたんはこの茂田がよう分かっとる。おまはんらの態度は船乗りとしても武士としても、実に立派やった。紀州の誇りやとわしは思うとるで。しかしな、これはただの事故のお裁きで済む問題ではなくなってしもうたんや。長崎に着いてすぐ、奉行所に報告書出しに行ったやろ? せやかてな、口を揃えて土佐側に道理がある、ちゅうて全く相手にされへんかったんや。ここには紀州の味方は誰もおれへん。はっきり言うて、もはや幕府の権威なんぞ地に落ちとるんや」
かつて奥祐筆まで務めた茂田の、初めて聞く歯に衣着せぬ幕府批判に一同固唾を飲んだ。
「今や薩摩、そして長州らの雄藩が虎視眈々と日本の主導権を手にしようと画策しとる。そんな薩長を結び付けたんが土佐……、いや、あの坂本龍馬や。こんな事故審判のために、わざわざ参政の後藤を呼び出せるんはあの男しかおれへん。つまり、裏で糸を引いとるんは坂本や」
常にゆったりとした態度を崩したことのない茂田の鋭い舌鋒に、楠之助らは瞠目する思いで聞き入っていた。決して表立っては感情を露わにしてこなかったが、影では懸命に情報収集しつつこの事件の決着のため砕心していたのだ。
「さっきは後藤に対してすべて諾、と返事をしたが、英国海軍の提督には面会せえへん。今外国にはどんな弱みも見せたらあかんし、借りも作ったらあかんのや。それに、土佐そのものも敵に回したら絶対にあかん。紀州の命運は、今まさに分かれ道なんや。おまはんら、後のことは一切、どうかこの茂田に任せてもらえんやろうか」
そう言うと、茂田は何とその場に膝を着き、深々と頭を下げたのだ。
驚いた楠之助たちはもはや茂田を責める気をすっかり失くし、慌ててこの重役を引き起こしにかかった。ここまでのことをされては、もうこれ以上なすべきことなどあろうはずもない。
覚十郎が、成瀬が、そして主だった明光丸の士官らが天を仰いでいる。
自分たちの役目は終わったのだ。楠之助は虚脱したような思いで、さっきまで後藤や龍馬たちがいた座をぼんやりと眺めていた。
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