第一章 Hard a Port ―取り舵一杯―②


 航海は順調に進んでいるかのようだった。

 朝七時に紀州を出港した明光丸は、同日夜十一時にはすでに備中沖に到達していた。この辺りは潮の流れが速く、古来「風待ち」が必要な海域として知られていたが、蒸気機関搭載の船舶は夜間の航行をも可能ならしめていたのだ。

「すごいものだ。蒸気の力とは」

 楠之助が嘆息と共にしみじみとつぶやく。

「せやな。帆の揚げ下ろしだけやったら、こんな夜中にはよう走らんわ」

 覚十郎が、我が意を得たりと即答する。自身の専門である蒸気機関を褒められることが誇らしいのだ。

「ワッチ(見張り)、異常なしか」

 伝声管を通じて見張り要員に現況報告を促し、楠之助は針路を確認する。現在位置は備中海峡の六島付近のはずだ。

「左舷前方、灯火見ゆ! 船種アンノウン!」

 ワッチの報告を受けて、にわかに艦内に緊張が走った。皆一斉に左舷の前方、西側の海域を注視する。ぽつんと、一点の光が真っ暗な海上に浮かんでいるのが認められた。

(漁り火……か?)

 漁船の点す灯かりであることを、まず誰もが疑った。光に集う習性のある魚介を獲物とした、夜間に行われる漁法はよく知られているからだ。しかし一点の灯かりだけを点し、こんな沖合いまで出漁するだろうか。しかも決して船団ではあるまい。だとすれば、一隻だけで何をしているというのか。

 もう一つ考えられることは、明光丸のように夜間でも航行できる蒸気船である可能性だ。だが、光が一点しか点っていないことから、それはまずあり得ないだろうとクルーたちは皆思っていた。

それというのも、夜間航行する船には事故防止のため、どのような灯かりを点すのかが細かく定められていたからだ。

 原則的に、マストに点す白色の「セインランプ」、そして両舷側に設置すべき「ブーフランプ」とがある。ブーフランプの色は右舷が緑、そして左舷が赤だ。

 これら三つのランプが点されていることで、航行している船舶のおおよその高さ、船体幅、そして進行方向を把握することができるのだ。このことによって、夜間航行において最も危険性の高い船舶同士の対向時、互いの航路をいち早く確認して安全なコースをとれるようになる。

 ちなみに、現代の航空機も右の翼に緑色、左の翼には赤色のランプをそれぞれ明滅させながら飛行することが定められている。

 したがって、夜の海で一点の光のみが点っているというのは非常に不自然な状態なのだ。まさしく不明の船「アンノウン」だと言っていい。だが、あるいは漁船のものかと思われたその光に、航海測量を専門とする楠之助は違和感を抱いていた。

――動きが早過ぎる――。

 目測でその針路を観察していた楠之助は、光が異常な速さで海上を移動していることに気が付いていた。もし、このままの針路で光が進んでいくとしたら、明光丸のコースと交差する恐れがある。

「スター・ボード・ファイブ! 光の動きに注意しつつ、卯の舵寄りに針路をとれ!」

「サー、アイ・サー!」

 緊迫した操舵手のアンサーバックと共に、明光丸はやや右方向へ舳先を向けて波を掻き分けていった。

 楠之助がそう命令したのには理由がある。

 行き違う船舶同士が誤って接触、または衝突するという事故事例は洋の東西・古今を問わず枚挙に暇がない。そこで、古来より事故防止のための海上交通のルールが工夫されてきたのだ。

 例えば、互いに進行方向の異なる船同士が、そのままだとどちらかの針路を横切る形で衝突コースに入ってしまう恐れがある場合、右舷(スターボード)側に風を受けている船に優先航行権が発生する。したがって、左舷に風を受けている船に停止やコース変更などの「回避義務」があるものとされてきた。これを「スターボード艇優先の原則」という。風向きによって航行の自由度が大きく制限される帆船ならではのルールではあるが、これは動力船においても継承され、その場合は相手の左舷、すなわち赤いブーフランプを確認できる側の船に回避義務が生じるものとしている。

 また、互いに直進して行き会う船舶同士は、原則的には向かって右方向に転舵してそれぞれ衝突の危険を避けることになっている。つまり、陸上で言うところの「右側通行」が船の運航では標準となっているのだ。このように、あらかじめそれぞれに衝突コースを避けるための決まりごとを遵守することが、海上での安全を確保する鉄則だ。

 楠之助たちが左舷前方にアンノウンの光を発見したということは、当然相手側からは明光丸の左舷、すなわち赤いブーフランプが見えていることになる。つまり、海の上でのルールでは相手側に回避義務が生じることになるのだ。

 楠之助がわずかに右方向へと舳先を向けさせたのは、念のため、よりはっきりと相手にこちらの赤いブーフランプが見えるようにするためだった。万が一、接近したとしてもこの針路であれば両者とも右方向への転舵が容易となり、互いに回避行動がとりやすくなる。

 だが、正体不明の光は依然としてスピードを緩めないまま、彼我の距離がぐんぐん縮まってきた。しかし暗い海の上では、光そのものの大小は判別しづらい。したがって、互いに交差するコースに入ってしまった後には、その間合いを正確に把握することも困難になっていた。

楠之助はいつでも最適な操舵号令をかけられるよう、全神経を研ぎ澄ませて光の動きを注視していた。

その時、伝声管からワッチの絶叫する声が鳴り響いた。

「左舷すぐ! 蒸気船です!」

 闇の中、ようやくその姿を浮かび上がらせたのは紛れもない蒸気船だった。だが、気付いたときには既に互いの距離が近付き過ぎていた。しかも、その間にも蒸気がもたらす両船の推進力はいささかも衰えることがない。

 反射するかのように、楠之助は大音声で操舵号令を放った。

「ハード・ア・スター・ボォード!」

 最大右転舵、面舵いっぱいの指示を受けた操舵手が、舵輪を時計回りに限界まできってゆく。急速に傾いだ船体が軋む音がし、遠心力で振り飛ばされそうになったクルーたちが必死で手近な物に縋りついた。

 だが、あろうことか、対向する蒸気船もほとんど同時に酉の方向へと転舵した。つまり、明光丸が避けたコースと同じ側へと舳先を向けてきたのだ。このままでは、まともに衝突してしまう――!

「キャップ!」

 決断を促す覚十郎の叫びと同時に、楠之助は乾坤一擲の操舵号令を放った。

「ハァド・ア・ポォーオッ!!」

 取り舵いっぱい――。右いっぱいに舳先を転じた直後の、さらに逆方向への危険な急回頭だった。だが、完全な衝突コースに入ってしまった船をかわすには、これ以外の方法はなかった。

 思わず仰け反りそうになるような威圧感を伴って急迫してくるその船に、楠之助は恐怖した。だが、艦長としての責任と誇りは彼に瞬きさえ許さず、ただ前だけを注視せしめていた。

「かわせぇぇぇぇーっ!」

 覚十郎が声を振り絞ったその直後、明光丸は右舷船首の辺りにすさまじい衝撃を受け、クルーの何人かが左斜め後方に向けて吹っ飛ばされた。渾身の回避運動にも関わらず、ついに対向船と衝突してしまったのだ。

 鉄と鉄が食い込んだまま引き裂かれていく、おぞましい悲鳴のような音が耳をつんざき、衝撃で船内の調度や什器類が飛び散った。ガラスの割れる音や金属が散らばる音が鳴り響いた。

 船足を止めた明光丸のデッキに、すぐさま皆が飛び出していく。自らも躍り出た楠之助は、眼下にもうもうと蒸気を噴き上げて停止している一隻の船を認めた。それは明光丸よりもひと回りほど小さな、三本マストの汽帆船だった。

 その船のデッキにもクルーたちが上がっており、恐慌をきたしたように複数の怒声が入り乱れている。

 夜の闇にまぎれて、互いの船体の損傷がどの程度なのかは詳らかではない。だが、相手方の船から漏れ出している蒸気の量を考えると、おそらく機関室に深刻なダメージを受けたのに違いない。最悪の場合、沈没という可能性も考えられる。デッキからその様子を瞬時に見極めた楠之助は、動揺の収まらないクルーたちを一喝するように指令を発した。

「かの船人員の安否を第一優先とする! 一旦後退し、ボートを下ろして内情確認に向かうよう!」

「サー、アイ・サー!」

 楠之助の号令のもと、統制を取り戻したクルーたちは声を揃えて応答し、、きびきびと各自の持ち場で作業についた。

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