第一章 Hard a Port ―取り舵一杯―①

 いつの間にか港へと足が向くのは、ほとんど習性のようなものかもしれない。

 自分でもなかば呆れる思いで、高柳楠之助は波止場の陽光に眼を細めた。

 明治の世を迎え、「致知(むねとも)」といういかめしい名に改めてはいるが、やはり慣れ親しんだ「楠之助(くすのすけ)」のほうが座りがいい。

 陸軍兵学寮・少教授――。

 これがいまの楠之助がもつ肩書きだ。新しい名前と同様にいかめしく、それでいてどこか自分のことのようには思い切れない、なんとも落ち着かない役職ではある。

 仕事としては陸軍の若い下士官を中心に、数学と測量術を教授するのだ。

 入港している大小さまざま、国籍もさまざまな船の数々を眺めながら、心ははるか海上を白波立ててひた走る、船の舳先にでもあるかのような錯覚を覚える。

 そう、自分は骨の髄まで「船乗り」なのだ。楠之助は心からそう思う。

 洋式航海測量の専門家としては、おそらく楠之助が日本におけるパイオニアであると言えるだろう。

 楠之助は紀伊田辺藩に生を受けた。徳川御三家の一角である紀州藩には、田辺藩と新宮藩の主自らが「附家老(つけがろう)」として藩主の補佐役を務める伝統があった。幕政の世では楠之助はこの田辺藩・安藤氏の家臣であり、紀州徳川家の陪臣という立場であった。

 しかし彼は、かのシーボルト直門として名高い蘭学者・伊藤玄朴の門弟として、その私塾「象先堂」で頭角をあらわし、やがて塾頭を務めた。同じ門下には日本初の洋式城郭である、函館五稜郭を設計した武田斐三郎がおり、楠之助は航海測量を専門としていた。

 さらには函館にて航海・操船術を習得し、並行して英語などの語学にも造詣を深めていった。

 当時の紀州藩に関わる人材としては、エリートと言って差し支えないだろう。

 そして、楠之助は紀伊海軍の蒸気艦、「明光丸」の艦長として任命される。

 明光丸――。

 その船の名を思い出すたび、楠之助は複雑な感慨とともに、まさしく怒涛のごとく駆け抜けた「幕末」という不可思議な時代の記憶にしばし浸ってしまうのだ。

 そう、あの時の船出こそがすべての始まりにして、そして終わりへと向かう航海となったのだった――。


 慶応三年(一八六七)四月二三日午前七時、紀伊・塩津の浦を出港した明光丸は、一路長崎へと針路をとっていた。

 蒸気艦といっても、よく知られたペリー提督の黒船のような外輪船ではない。今日の船舶とよく似たスクリュー式の推進装置を備えており、従来の帆船とは桁違いの船足の速さと強さを兼ね備えている。

 明光丸は機関出力も安定し、風向・潮目ともに何の問題もない。快適な航海の滑りだしに、艦長である楠之助は顔にこそ出さないものの、どうしようもなく心が浮き立つのを抑えきれずにいた。

「スター・ボード・テン!」

 高らかに号令をかけると、

「スター・ボード・テン、サー!」

 と、よく通る声で操舵手からのアンサーバックがブリッジに響き渡り、明光丸はあやまたず十度の角度で右方向へと舳先を向けていく。

「ポート・ファイブ!」

「ナッシング・スター・ボード!」

「ステディ・アズ・シー・ゴーズ!」

 楠之助は艦の運動性とクルーの反応を確かめるように、次々と操舵号令を繰り出した。その都度、語尾に「サー」の付く威勢のよいアンサーバックがあり、明光丸は忠実にその舵輪の動きに応えるのだった。

 人の好い艦長はすっかり嬉しくなってしまい、満面の笑みでクルーを称えた。

「お見事! これで英語圏の船に乗り組んでも大丈夫だね?」

 そう言われた操舵手は間髪入れず、

「アイ・サー!」

 と応答してみせ、皆の笑いを誘った。

「なあ、キャップよ」

 手元の帳面をめくりながら、ぎょろりと楠之助に目を向けたのは艦長次席の岡本覚十郎だ。別に機嫌が悪いわけではないが、無愛想でいつも怒ったような顔に見えることから、クルー達からは少し怖がられている。

「えーっと、〈すたーぼーど〉が〈卯の舵〉で、〈ぽーと〉が〈酉の舵〉でよかったんやっけ? ほんでから、なっ、なっしんぐ……なんやったっけ?」

「スター・ボードとかポートとか」

「ああ、それ。意味、何てよ?」

「そうするな、ってこと」

「ほな、〈なっしんぐ・すたーぼーど〉なら〈卯の舵に切るな〉っちゅうこっちゃな?」

 ただでさえ怒ったように見える顔をさらに難しくしながら、覚十郎は帳面に英語での操舵号令とその対訳を書き付けていく。「卯の舵」とは後に言う「面舵」で「右転舵」を意味し、「酉の舵」はその逆方向で「取り舵」のことだ。二人のやり取りにクルーたちも忍び笑いをもらしている。

 覚十郎の正式な職名は「一等器械方」、つまりは複雑な機構を持つ蒸気船のメンテナンスを行う「機関長」といっていいだろう。また、艦長である楠之助に次ぐ指揮命令権を有していることから、明光丸にとっては事実上の「副長」でもあるのだ。

 明光丸はこれまでに江戸・長崎はおろか、上海・香港などの海外へも航海した経験を有している。また、医官の成瀬国助、御舟手方の福田熊楠、勘定奉行支配小普請の岡崎圭助と中谷秀助らが乗り組んでおり、そして運転方として讃岐の塩飽島出身の長尾元右衛門が選ばれている。長尾は元・勝海舟の門下生として幕府海軍の教育を受けており、特別に七人扶持の待遇でスカウトされた有名な乗り手だ。さらに、クルーの一員である乗組員の尾崎十兵衛は海難事故でアメリカに漂着した経験を有しており、英語を解し海外の船務についても明るかった。

 このように、明光丸には個性的かつ優秀なクルーが揃っていた。

 幕末の海軍は、洋式操船といえば主にオランダから招いた教官のもとで訓練を行うのが普通だった。だが楠之助は、今後世界の海で標準になるのは英語だと予測している。それもあって、操舵号令をあえて英語で行うという訓練を組み込んでいるのだ。

 ちなみに、現代においても海上自衛隊以外の商船などでは英語を中心に日本語を混ぜた、独特の操舵号令を使用するのが一般的だ。

「あとはなんや、すてでー・あず…、あず…」

「ステディ・アズ・シー・ゴーズ。その時点での針路で真っ直ぐ。つまり〈宜う候〉だね」

「ほなもう、宜う候(ようそろ)でよろしいやん」

 悪態をつきつつも覚十郎は熱心に帳面へと記録している。何だかんだといいつつも、英語を重要視する楠之助の考えには理解を示しているのだ。

「せやけどキャップよ、〈あい・さー〉っていう返事だけはいただけんなあ……。なんとのう、間延びしとらしてよ」

「そうかなあ。〈承って候〉くらいの丁寧な言い回しなんだけどなあ」

 和気藹々とした艦内の雰囲気ではあるが、むろん彼らは物見遊山に出かけたわけではない。このときの航海で、明光丸は重大な任務を帯びていたのだ。

 当時の幕府は急速に海軍力の増強を図っており、最新の蒸気艦の導入を進めていた。そんな潮流の中、元治元年(一八六四)の第一次長州征討の折に、紀伊藩命によって長崎で購入されたのが明光丸だった。

 全長四十一間(約七十五メートル)、船幅五間(約九メートル)、深さ三間半(約六.四メートル)、機関出力百五十馬力といったスペックを有し、イギリスの造船所にて進水している。元の名を「バハマ号」といい、紀州海軍初の蒸気艦として就役したのだ。

 ちなみに幕府海軍の旗艦であるオランダ製シップ級フリゲート、「開陽丸」は全長約七十三メートル、船幅約十三メートルと記録されており、明光丸はこれに近いサイズの大型艦であったことがよく分かる。もっとも開陽丸の蒸気機関は千五百馬力と、桁違いの出力ではあったのだが。

 そして紀州藩は明光丸に続き、長崎において第二の蒸気艦を導入する。慶応二年(一八六六)、第二次長州征討のさなかに購入した「コロマントル号」がそうだ。

 しかし同艦の購入を巡ってトラブルが発生する。その価格が不当に高いことを指摘する声が藩内から上がったのだ。しかも、コロマントル号購入にあたっての功績によって出世した責任者である青木久七が、その横暴な態度からやがて糾弾されるようになる。やむなくコロマントル号を売却し、あらたに「ニッポール号」への買い替えを行う算段が整えられたが、失脚しつつあった青木がこれを強硬に妨害していた。

 このような波乱含みの情勢下、明光丸はコロマントル号からの買い替えによる、ニッポール号の受領を第一の任務として紀州を出港したのだった。

 そして楠之助ら明光丸のクルーたちはもう一つ、重大な使命を負っていた。

 それは新式の洋銃を長崎において購入し、紀伊国へと持ち帰ることだった。その数、実に六千丁――。途轍もない数だと言っていい。

 むろん、この大規模な銃火器調達計画には理由がある。今回の長州征討で紀州藩兵は最前線に投入され、長州兵と直接干戈を交えることとなった。

 紀州が対峙したのは、長州独特の民兵を中心とした部隊、そう、歴史上つとに有名な「奇兵隊」である。

 徳川御三家の一翼であり、長く西日本の要として君臨してきた紀州は圧倒的な物量と兵員を有していた。だが、結論から言えばほとんどなす術もなく長州の部隊に敗北している。

 いかに大藩といえども、当時の武装・戦術はほぼ三百年間変わることなく受け継がれてきたものであり、いわば骨董品のような軍隊であったのだ。

 対する奇兵隊は近代的な洋式調練をほどこされ、新式の洋銃を装備した軽装歩兵を主力としていた。小隊単位で各個に散開し、火縄銃とは比較にならない連射性能を持つ銃器による波状攻撃を行うというきわめて機動性の高い戦術の前に、古色蒼然たる鎧武者たちは手も足も出ないまま次々と薙ぎ倒されていった。

 しかもこの時、長州征討軍の先鋒総督に任命されていたのが第十四代紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)だった。そして、その名代を務めたのが楠之助にとって直接の主君である、第十八代田辺藩主・安藤直裕だったのだ。

 近代の戦いをまざまざと見せ付けられた紀州は、火急の課題として兵制改革、すなわち洋式軍隊の設立に着手する。

 その一環として、大量の銃火器が必要だったのだ。

 しかし、購入には紀州の国家予算に影響するほどの金子が必要となる。このたびの航海で勘定奉行一行が乗船しているのは、その会計と監査を行う必要があったためだ。

 その責任者として明光丸に乗り組んでいるのが紀州勘定奉行の一人、茂田一次郎だ。同職には複数人が就任しているが、現代における財務大臣相当職と言っていい。

 茂田のキャリアについては少々説明がいるだろう。

 彼は元来、第九代新宮藩主にして、紀州藩附家老という要職にあった水野忠央(ただなか)に近いグループに属しており、幕府の機密文書の作成や管理を任務とする「奥祐筆」という重職を務めていた。いまでいう「政策秘書」のような役割とも言えるが、中には大老や老中が集う会議の場で意見具申を許された者もいたといい、その影響力は国策にまで及ぶ巨大なものだった。

 水野は第十三代将軍・徳川家定の側室として自身の姉妹を送り込むなど、幕府中枢に対して強力なパイプを有していた。やがて病弱な家定の後継者擁立に関して、紀州藩主・徳川慶福を候補として推挙する、いわゆる「南紀派」の重要人物として時の大老・井伊直弼とも浅からぬ関わりを持つ。南紀派は後の第十五代将軍となる一橋慶喜を推す「一橋派」と対立しており、桜田門外の変で井伊が暗殺されたことによってその求心力を失っていった。そして勢力を増していった一橋派に敗北する形で水野は失脚、嫡男に家督を譲って以後は政治の表舞台に登場することはなかった。

 茂田もこれに連座して失脚するが、奥祐筆まで務めたその能力・手腕を惜しまれ、紀州藩勘定奉行として再起する。

 紀州藩兵の洋式軍隊化は水野忠央が中心となって推進していた事業でもあり、明光丸が帯びた長崎での任務は、茂田にとってはかつての上役の事業を引き継ぐという意味合いも持っていたのだ。

 明光丸は、まさしく幕末の混沌をその身に背負ったかのようなクルーが集まった、時代の波濤に乗り出してゆく船だったのだ。

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