伊呂波アンローデッド―伊呂波丸事件異聞―
三條すずしろ
序 章 ―明けない海―
何度も繰り返して見る、同じ夢がある。
それは忘れたころ不意にやってくる発作にも似て、夢だと分かっているのに、目覚めた後もしばらくは起き上がれないほどの憔悴をもたらすのだ。
私は船に乗っている。もはや浮かんでいることすら奇跡のような阿鼻叫喚の暴風雨の中、なす術もなく舷側にしがみつこうとするばかりだ。黒くのたうつ海面からは幾重もの巨大な三角波が灰色の牙となってそそり立ち、あまりにもちっぽけな私の船を、咬み裂くために踊り狂う。
――舵を、舵をとらなくては――。
舳先をあの方角に向けなくては――。だが舵輪ははるか遠く、マストもとうに根元から折れ、蒸気機関もすでに浸水して沈黙している。そう、この船はただもう浮いているというだけで、その運命は完全にこの海の掌中で弄ばれているのだ。
だが、私には分かっている。あと、もう少しで嵐がやむのだ。
あと、もう少しで長い長いこの夜が明けるのだ。
それなのに、光へ向けて漕ぎ出すためのオール一本すら今の私は持ち合わせていない。ひたすらに、この船から振り落とされないことだけを願って船縁にすがりつくことしかできないのだ。
すぐ近くで紫電が空と海を貫いた。数瞬の間、世界が真っ白に照らし出されるような閃光に目が眩む。続けざまにもう一つ、雷光が炸裂する。
その時、一人の男が舳先に仁王立ちしていることに気が付くのだ。
その男は縮れた長い髪を後ろで束ね、長身をすっくと伸ばして腕を組み、明けることのない闇の先をじっと見つめている。
私は、それが誰だか知っているのだ。
――やめろ、死ぬ気なのか――。
そう叫ぶ声は、嵐に掻き消されて届くはずもない。だが私は、なおも声を限りに呼びかけ続ける。この男を往かせてはならない。この船に留めて、共に夜明けを迎えなくてはならない。だが、荒れ狂う海は容赦なく船を苛み、その男に向けて手を差し伸べることすら許そうとはしてくれなかった。
不意に、男が前方を指し示した。私は必死に船縁にしがみつきながらも、思わずその方向に視線を走らせる。闇の向こう側に、微かに淡い靄のようなものが漂っている。
――夜が明ける――。
そう言っているのか。もう一度男に目をやると、うっすらと微笑むかのように穏やかな顔をこちらに振り向け、はるか前方のかそけき光を指差し続けている。
待ってくれ……! まだ、まだ往かないでくれ……!
声にならない声でその男の名を叫ぼうとした瞬間、ふいにすべての雨風がぴたりと動きを止めた。
永遠のように長い夜が、いままさに明けようとしていた。
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