第三章 紅茶と御庭番②
ティーポットの中で踊るリーフの動きが、随分と緩やかになってきた。ゆったりとたゆたうその様子に、楠之助は思わず目を細めて顔を近付けた。透明なギヤマンに茶の色がよく映え、まるで赤い瑪瑙(めのう)を日の光に透かしたかのようだ。
その時、ポットの丸いガラス越しに、逆さまに映るいびつな人影が楠之助の目に飛び込んできた。
反射的に、その人影に向けて腰の短刀を横一文字に抜き放った。考えるより早く身体が反応したため、それが何なのかを認識したのは切っ先が人影を捉える、まさに瞬前だった。
鮮やかな紅茶の色よりなお紅い、艶やかな振袖姿の娘が大きな目をいっぱいに見開いてハンズアップの姿勢でびっくりしたように突っ立っていた。
「…………?」
びっくりしたのは、むしろ楠之助の方だ。何が起こっているのか分からず、とっさには言葉が出てこない。こんな娘がいつからいたのだ? こんな派手な格好で何故今まで気が付かなかった? どこから入ってきた? その前に、そもそも誰なんだ……?
言いたいことは山ほどあるのだが、パクパクと口が動くだけの楠之助に、紅い振袖姿の娘がおそるおそるといった風情で言葉を発した。
「あのう。出過ぎる、のではないでしょうか」
「……え?」
「ほら、紅茶」
そう言って、ティーポットを指先でちょんちょんと指し示す。確かにこのままでは飲み頃を逸し、茶葉から苦味や渋みが出てしまう。……が、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。
「どこから入ってきたんだ? そして、君は誰なんだ?」
ようやく我に返って問い質す楠之助に、娘は悪びれもせずしれっとして答えた。
「どこって……、そこのドアから。二つ目のご質問に関しては、とりあえずその短刀を下ろしていただいてから」
はっとして、楠之助は短刀の切っ先を娘から外し、鞘に納刀した。勢い余って斬り付けてしまわなくて、本当によかった。
「ああ、びっくりしたあ。噂どおり、居合もお上手なんですねえ」
清々したように両肩をぐるぐる回しながら、楽しげに娘が言い放つ。というか噂ってなんだ。こちらのことを知っているのか? 訝しんだ楠之助は慎重に言葉を選びながら質問を重ねた。
「もう一度聞く。君は、いったい何者だ」
そう尋ねられた娘は居住まいを正し、改めて楠之助に向き直り、
「はじめまして。わたしは紀伊御庭番衆、〈しのぶ〉と申します。藩命により、キャプテン高柳にお目もじすべく参上いたしました。以後お見知りおきのほどを」
そう言って、まるで西洋の婦人がするように、ふわりと膝を屈して挨拶してみせた。
御庭番衆……? つまり、忍びの者ということか。御庭番の制度は八代将軍・吉宗の時代に江戸にも導入されたものであり、その起源は紀州に発している。どうやら害意も無く、とりあえず敵ではなさそうなことに楠之助は安堵した。
――が、
「そんなことより紅茶、渋くなっちゃう! 早く注ぎましょうよ!」
と、急にぞんざいな口調になって、白磁の器に張った湯を水盤にあけ、勝手にポットからお茶を注ぎ出した。
「なんて綺麗……」
うっとりと紅茶の色に見惚れる娘を、楠之助は呆気にとられて眺めるばかりだ。
「まだ一杯分ありますけど、このままだとお茶が出過ぎちゃいますよね。もう一つ器を出してください」
言われるがまま、楠之助は白磁の湯のみをもう一つ取り出して差し出した。しのぶと名乗った娘は嬉々として、丁寧に最後の一滴まで注ぎ入れる。どうやら紅茶の淹れ方をよく知っているらしい。
楠之助はとりあえず、もう一脚椅子を引っ張ってきて、しのぶに腰かけるよう目で促した。
勧めにしたがい軽く会釈して着席した彼女と、テーブルを挟んで向き合う形になった楠之助は、ここにきて考えるのをやめることにした。
そもそも落ち着くために紅茶を淹れたのだ。もういっそのこと冷めないうちにティータイムを楽しもう。
「しのぶ、と言ったね。聞きたいことは山ほどあるけど、まずは冷めないうちに頂こう」
そう言って、器のひとつを差し出した。
「わあ、いいんですかあ?」
そう言いながら早くも器を手に取ったしのぶは、
「ああ……。いい香り」
と、恍惚の表情を浮かべて紅茶に口を付けた。
「おいしい! 鮮やかな紅色にコクのある後味……きっとアッサムね。ミルクティーに適したリーフだわ。でも……器は景徳鎮(けいとくちん)の贋物ですね」
楠之助は驚いた。両方大当たりだ。だが、紅茶はよいとして他人から正面きって「贋物」と看破されるのは複雑な気分だ。そうと分かって愛用しているのに。
「随分お目利きさんだねえ」
「忍者ですから」
妙なやりとりをしながらもう一口紅茶を含んだしのぶは、おもむろに楠之助を見やり、表情を改めた。
「キャプテン高柳。わたしは紀州の御庭番として、主に土佐藩とその周辺の諜報を務めとしておりました。今日あなたをお訪ねしたのはほかでもありません。お伝えしなくてはならないことがあります」
才谷梅太郎、という人と接触しましたね? そう問うしのぶに、楠之助は緊迫した面持ちで頷いた。
「あの人の本当の名は、〈坂本龍馬〉。元・土佐勤皇党幹部にして……海援隊隊長」
楠之助は息を呑んだ。
坂本、龍馬――? あの才谷さんが、まさか、あの……。
「厄介な人たちに、当たっちゃいましたよ?」
茶化したような口調とは裏腹に、しのぶの目は笑ってはいなかった。
――坂本龍馬。諱(いみな)は〈なおなり〉、直線のチョクに柔術のジュウと書いて〈直柔〉。
いい名前ですねえ。その名の通り、幼少の頃から柔術を核とする武術の道場で鍛錬しています。流派名は〈小栗流和(やわら)兵法〉。紀州ではさっぱりだけど、土佐ではとても有名なんですよ。
(ほう、小栗流……?)
かなり強い、と思います。極意にあたると思われる〈小栗流和兵法三箇条〉を伝授されており、腕前は免許皆伝といって差し支えないのじゃないかしら。
十九歳の頃に江戸へ剣術修行の目的で自費遊学、あの北辰一刀流の小千葉道場で千葉定吉師範に教えを受けています。ですが、実際には砲術の修得を目的としていたとの情報も入っていますね。
正直言って、ごく最近まで彼の動向にはほとんど注意を払う者などいませんでした。まったく目立たない、ありふれた市井の一人でしかなかったからです。それが一転したのはそう、文久元年(一八六一)の〈土佐勤皇党〉の結成後です。この組織のことはご存知ですよね? 土佐藩の下級士族が中心となって立ち上げた結社で、その首領の武市半平太は龍馬さんの親族でもあるんですよ。白皙の美男子、というのがぴったりな男前なんですけど、ちょっと冷たい感じがしてわたしは好みじゃないですねえ。
(君の好みは関係ないだろう……)
龍馬さんが注目され出したのは、〈脱藩〉という思い切った行動をとってからのことです。
その頃土佐では薩摩藩による勤皇攘夷を目的とした率兵上洛の噂が流れ、これに後れをとることなく王城警護に赴くべきという過激派の主張がさかんになっていました。既に勤皇運動のため脱藩していた〈吉村虎太郎〉らの手引きもあって龍馬さんはまず、かねて交誼のあった長州に身を寄せました。
以後は江戸の千葉道場の誼を通じて越前の〈松平春嶽〉の知遇を得、幕府軍艦奉行並の〈勝安房守〉に紹介され、私淑します。
(なんと……! 海舟先生の直門……?)
そして、開設された神戸海軍操練所で航海・操船術を修得、操練所の解散と時を同じくして亀山社中、いまの海援隊の前身となる商社を組織しています。
亀山社中はこの後、重要な役割を担います。当時、長州に不足していた武器類を、薩摩には兵糧米を互いの藩名義で交換するという荒業の仲介をしたのです。もうお分かりですね。そう、これは長らく対立していた薩摩と長州が和解する決定的な契機となり、ほどなく薩長同盟が成立しました。
その薩長間の物資輸送に使われた船が〈ユニオン号〉です。キャプテン高柳、その名をご存知ではないですか?
しのぶにそう水を向けられた楠之助は、衝撃と共にその船の名を思い起こしていた。
ユニオン号――。
紀州藩が完膚なきまでの敗北を喫した第二次長州征討の折り、長州陣営に颯爽と助太刀に現れた船の名だ。
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