第四章 決戦・長崎談判②

 翌十六日、まず切り込んだのは紀州側だった。

 事故原因の大元の一つと考えられる、ブーフランプの有無についてだ。

 伊呂波丸はメインマストに点灯する、白色のセインランプしか灯していなかったため、明光丸側は接近するまで蒸気船であることが確認できなかった。海上交通のルールとして、これは重大な違反に相当する。現代で言えば、ほぼ無灯火で自動車を運転するようなものだ。

 それに、明光丸から最初に伊呂波丸に乗り移った岡崎・前田の両士官は、そこで海援隊士にブーフランプの有無を尋ね、「この船には設置していない」という回答を直に聞いていたのだ。

 これらの事実を突きつけた紀州側に、伊呂波丸のクルーたちは意外な答えを返してきた。

「これなる佐柳高次は、ヨーロッパへの試験航海の経験があり、しかもあの勝海舟先生のもとで航海術を修めた熟練の船乗りです。それだけではない。我ら海援隊士の多くは旧・海軍操練所にて訓練を受けた者たちです。そんな我々がブーフランプを点灯しないなど、基本以前の決まりごとを守らないわけがない。根拠のない言いがかりはやめていただきたい」

 そう堂々とブーフランプの設置を主張してきたのだ。意表を突かれたのは紀州側だ。まさかそう来るとは思わなかった。それでも伊呂波丸の乗組員に直接確認した旨を申し出ると、

「そのクルーの姓名は? 何という者がブーフランプ無し、と申したのですか?」

 と、畳み掛けてきた。

 無論、危急の折りの事とて人命救助という最優先事項があり、明光丸士官はそのクルーの姓名までは問い質していなかった。

「それでは、証拠とは言い難いですな」

 土佐側の冷徹な物言いにも、紀州側は反論できなかった。証明できない、という意味では航路の主張が食い違ったのと同様、決着をつける材料にはならないからだ。紀州側はこの件には見切りをつけ、もう一つの切り口から攻めることにした。

「古来、航海中の運転は大船と小船、どちらが自在でしょうか?」

 あえて答えを促す形での問いかけに、土佐側はまた迷いのない態度で応答する。

「日本では小船から大船を認めやすく、反対に大船から小船は発見しにくい。したがって、大船が小船を回避するのが道理というものでしょう」

 その主張に、すかさず紀州側が反論した。

「ならばヨーロッパにも、そのような類例がなければおかしいことになります。常識的に考えて大船よりも小船のほうが小回りがきき、回避も容易ではないですか。それにおっしゃる通り、小船が先に大船を発見しやすいのならば回避義務が生じるのは小の側、というのが一般的な法則ではありませんか?」

「我々が言っているのはそういうことではない。日本での蒸気船同士の衝突事故はこれまでに類例がなく、通常の法則で判断できる問題ではありません。それにそもそも、私共は貴艦の右舷側の青燈を確認したため、海上航行の原則に従って針路を変えませんでした。そのまま互いに直進していれば何事もなかったものを、あなたがたが右に舵を切ったがために衝突したのでしょう」

 抑えた口調ながらも、土佐側は逆に航路の問題を再度持ち出して紀州の理論に真っ向から反論してきた。もちろん針路は幾度となく紀州側が図示しているように、双方でその主張が食い違っている。だがこれは、むしろ海援隊士らが、海上交通の原則を熟知しているからこそ言えることではないだろうか。ブーフランプを設置していたと主張し、なおかつ明光丸の右舷側が見える航路を進んでいたと言い張ることで伊呂波丸には回避義務がなくなり、明光丸が不必要な回避運動をとったがために、衝突事故が発生したということになるからだ。

 双方の記録があるだけで物証がないということを逆手にとった、巧妙な論法だ。

 だが、事実と異なる主張には断固として反駁を加えなくてはならない。

「先ほどからしきりに、我々明光丸が伊呂波丸に衝突していったと主張しておられますが、そうではありません。回避のため艦長以下すべてのクルーが全力を尽くしています。その証拠として、伊呂波丸は〈スチュールボール(右舷)〉から〈アクトル(後ろ)〉の方向へ船体が圧壊し、マストや煙突もやはりアクトルに向かって倒れていました。また、明光丸も同様にスチュールボールに損傷が多く、すなわち互いに右舷側を擦るようにして接触した証拠にほかなりません」              

〈スチュールボール〉も、〈アクトル〉もオランダ語である。幕末の海軍および陸軍は、その草創期にはオランダ語が中心的な洋式兵法の言語であったため、敢えてそれらの専門用語を使ったのだ。

 明光丸と伊呂波丸、それぞれの損傷を検証してみると、明光丸が一方的に衝突していった訳ではないことは明白だ。必死の回避運動の結果として、右舷側同士が擦れ合った状況が浮かび上がってくる。

 この正論には、土佐側も一瞬言葉を詰まらせた。伊呂波丸はすでに沈んでその証拠はないものの、健在である明光丸の右舷側をあらためれば事実を確認することができる。

 これにどのような反論をしてくるのか身構えた紀州側だったが、土佐側はこの問題をまったく無視するかのように、間髪入れず次の質問を投げかけてきた。

「では、再度衝突してきたのはどのような理由によるものかお尋ねしたい」

 本題はこちらの方だ、と言わんばかりにぐいっと身を乗り出して、威圧するかのような姿勢を示している。最初の衝突は例え事故だとしても、二度目については意図的なものがあったのではないか? そのような疑念についてどう釈明するのかと追及してくる。だが、紀州側にはこの件についても相応の理由があったのだ。

 あくまでも救命を目的とした接舷を試みた上での接触であり、故意によるものではないことを切々と訴えた。何の利益があってわざわざ追突する必要があるのか。状況から考えても、そうではないことなど自明の理ではないか。どうかその件については熟察いただきたい――。

「貴説、然り」

 そう応えたのは龍馬だった。紀州側の主張を全面的に肯定する姿勢に、皆の注目が集まる。しかし、他の海援隊士らはそれを良しとしなかった。あくまでも明光丸が操船ミスにより、再度衝突したのだという考え方を変える気はないようだ。そして、追い討ちをかけるように次なる疑念を提示してきた。

「衝突後に我々が明光丸に乗り移った時、甲板上には一人も当直士官の姿が見えませんでした。この当直士官の常駐は国際法で定められている通り、必須のことではありませんか。これは重大な違反であり、事故原因の最たるものと考えられます」

 つまり見張りなどの責任者が甲板上にいなかったことを問題として、紀州側の事故責任を追及する論法だ。だが、この質問には艦長である楠之助が回答した。

「明光丸では艦櫓・機械場・航海筆記場の三箇所に当直士官を配置しています。また、舳先の三か所には、水夫とリーダーたる小頭の計四名が常駐していました。衝突事故が発生した直後、私自らが命じて全ての当直士官及びクルーたちには人命救助を優先させました。その作業のために当直士官が持ち場を離れただけで、事故発生の段階で当直がいなかったのではありません」

 理路整然とした回答に、土佐側はやや気勢をそがれたような様子を見せた。衝突時の当直士官不在を糾弾するという意図は、これで頓挫したことになる。しかし、そう思われたのも束の間、すかさず次の指摘が飛んできた。

「衝突時すぐさま腰越らの伊呂波丸士官が貴艦に移乗して船籍を問いましたが、誰一人として答える者はいませんでした。あなたがたの主張されるように、ブーフランプも灯していない国籍不明の船から人が乗り移ってきたのなら、普通は誰何するなり、警告するなりという対応を取るのではないですか?」

 初めは慇懃な口調を崩さなかった土佐側も、ここにきて徐々に難詰するような雰囲気を隠そうとはしなくなってきた。

 確かに、船上はいわば各国の領地と同等の権利が保証されるべきもののため、何人たりとも許可なく乗船することはできない。もし強引に乗り込もうとする者がいれば、状況によっては強制排除されても文句は言えないのだ。

 しかし、これについても紀州側には明確な理由があった。実は移乗してきた伊呂波丸クルーの中に、偶然にも昨年まで明光丸に乗り組んでいた〈傳五郎〉という水夫の姿を見た者がいたのだ。したがって、少なくとも意思疎通が可能な相手であると判断したため、海難事故という緊急事態も相まって誰何するよりも救助を優先させたのだった。

 だが、これを聞いた土佐側からは嘲るような笑い声が湧き起こった。

「傳五郎を見た? いかにも、傳五郎と申す水夫は我らが伊呂波丸に乗り組んでおりました。しかしながら、彼はそのとき足を病んで船内で臥せっていたのですよ。そんな男が、どうして貴艦に這い上がることができるというのです?」

 勝ち誇ったように失笑する土佐の面々に対して、「嘘だ!」と叫びながら紀州の幾人かが立ち上がった。

「あれは確かに傳五郎に間違いなかった! かつての仲間を見誤るものか! 足を病んで臥せっていただと? 嘘もたいがいにしたらどうだ!」

「嘘とは何じゃあ!」

 これまで鬱積していたものが一気に爆発するかのように、双方が立ち上がって激しい罵倒の応酬が始まった。今にも斬り合いになりそうなほど激昂し、もはや談判どころではなくなってしまった。

 それまで拳を握り締めてじっと黙っていた覚十郎が、楠之助のそばに近寄って、喧騒に掻き消されないよう耳打ちをしてきた。

「キャップ、あいつらの仲間がようけ外にひしめいとるみたいやぞ。何かあったら躍り込んでくるつもりで待機しとったんじょ。もしかしたら最初っからそれが狙いやったんかもしれへん。今は絶対喧嘩したらあかん。とにかく連中を止めよら!」

 言うが早いか、覚十郎は仲間の明光丸クルーたちの前に立ちはだかり、大音声で一喝した。

「われらあっ! 控えんかいコラァッ!!」

 普段から恐い副長といえど、まさか仲間から諌められるとは思っていなかった紀州側の面々は意表を突かれて絶句してしまった。すかさず楠之助が割って入り、落ち着いて座に着くよう優しく説き伏せていく。

「おまんら、もう、ほたえなや」

 その後ろではゆらりと立ち上がった龍馬が、伊呂波丸のクルーたちに向けてそれ以上騒がないよう釘を刺していた。こちらはその一言で水を打ったように皆鎮まってしまった。

 睨み合いだけが依然として続く険悪な雰囲気の中、図らずも楠之助と龍馬が同時に振り返り、対峙する形となった。

「どうやら、今日はもう話し合いにならんようですのう」

 敢えて間を外すように、殊更にのんびりとした調子で龍馬が語りかける。

 一触即発の状況がなんとか回避されたことに安堵しつつ、楠之助は腹の底からふつふつと沸き起こる怒りの感情を押し殺していた。

 明らかに土佐側は、こちらを挑発している。無体な理屈を弄して、敢えて紀州側が感情的になるよう誘導しているとしか思えないのだ。その意図がいったいどこにあるのかは分からない。だが、こうとなっては、もはや穏便な論議などこの先決して実現できないだろう。

 殺気立つ海援隊士らを背に自若としてたたずむ龍馬と、楠之助の視線が静かに交錯した。

 ――腹をくくらねば。

 楠之助はぐっと丹田に気を込め、決意を新たにするのだった。

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