四 傘下の影
アルベルトは夢を見ていた。
このごろよく見る夢、父と母がまだ生きていたころの、あたたかく懐かしい夢。
夢に見るのは、まだ幼い頃のことだったり、両親が亡くなる直前のことだったりと、一様ではなかったが、どれも過ぎ去った幸せだった日々の断片のようなものだった。
だが、今日は少し様子が違った。アルベルトは、なにもない真っ白な空間で、父と向かい合っていた。正義感にあふれ、優しかった父。その父は物言わず、ただ、どこか悲しげな表情で、じっとアルベルトの目を見つめていた。
その視線に思わず息が詰まりそうになる。まるで、こちらの罪をすべて見透かしているような眼。責め立てているような眼。父の視線が心に刺さる。痛い。痛い。そんな目で見ないでほしい。
あまりに苦痛で、目をそらそうにも、首が動かない。それどころか、体も全く動かない。目を瞑ることさえできない。
腹の中がどろどろと溶けて、ぐるぐると渦を巻いている。気持ちが悪い。このままこれをすべて吐き出してしまえれば、どんなに楽だろうか。
そんな苦痛に悶えていると、不意に、父が言葉を発した。
――お前の剣は、血にまみれてしまった……
父はアルベルトの剣を手にしていた。そして、剣を抜いた。
剣はその刀身が見えないほどに、赤黒いドロッとした液体にまみれていた。それはまるで、剣から染み出ているようで、ぼたぼたと塊になって滴って、沼のように広がっていく。
金気混じりの生臭い匂いが、鼻をつく。吐き気がこみ上げ、目の前がぐらつく――。
そこで夢から覚めた。
飛び起きたアルベルトは、寝台の近くに置いた自分の剣を確かめた――大丈夫だ。ほっと息をつく。薄暗い部屋の中でもわかるほど、刀身は美しい銀色の光を弾いていた。当然だ。帯剣するようになってから、一日たりとも手入れを怠ったことがないのだから。あの日だって、すぐに剣についた血をふき取ったはずだ。
アルベルトは剣を鞘に戻し、また元の場所に置いた。そして、寝台を下りて、窓板を開けて外の様子を見た。まだ、夜明け前のようだった。空は薄青く、わずかに星が瞬くのが見える。
アルベルトはもう一寝入りしようと、寝台に横になった。だが、目を閉じても、全く寝つける気がしなかった。
ぼうっとしていると、先ほどの夢のことが頭によぎる。そういえば、あの集落を襲撃してから、初めて見る夢だった。
(親父はおれに失望したんだろうな)
夢の中の、父の表情を思い出して、アルベルトはそう思った。
正義の剣で人を切ってはならない――帝国の騎士団に所属していた父が、生前よく口にしていた言葉だ。騎士の剣は悪を正すためにあるのであって、人を切るためにあるのではない――確か、そんな意味だったような気がする。
(だけど、おれの剣はもう……)
正義の剣なんかじゃない。血塗られた剣だ。心の中で、己をあざけ笑う。やつに目をつけられた時点で、こうなることはわかっていたはずだ。生まれ故郷が焼かれ、両親を失ったあの日、誓ったではないか。たとえどんな手を使ったって、共に生き残った妹を守っていこうと。そのためなら、父の教えを捨てたってかまわないと。だから、騎士団に入って、ピューポと契約したのだ。もう後戻りなんてできない。
なのになぜ、いまになって、父の言葉が頭によぎっているのだろうか。なぜ、こんなにも後ろ髪を引かれるような気持ちになっているのだろうか。あこがれだった父、いつか自分も父のような騎士になりたいと、願ったこともあった。だがその夢も、あのとき、きっぱりと捨てたはずだ。なのに、なぜ……。
アルベルトは首を静かに振った。
そう、もう昔夢見た輝かしい道は、そこにはない。取り戻すことだって、きっとできない。おれの目の前にあるのは、血と悪意に満ちた、ひどく悪臭のする暗い道だけなのだと、アルベルトは思った。
部屋の戸を叩く音で、アルベルトは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。身を起こしながら返事をすると、戸が開きハンスが中に入ってきた。
室内だというのに、ハンスは、相も変わらず深々と頭巾をかぶっている。
それを見て、アルベルトは一瞬眉をピクリとさせた。ハンスと対峙するときは、いつも緊張が走る。
「起きていましたか。昨晩はよく眠れましたか?」
口元に笑みを浮かべながら、ハンスはたずねた。
「……まあ、それなりには」
本当はあんな夢を見てしまって、大して寝た心地などしなかったが、なんとなくそう口走っていた。
「それはなによりです」
「……ところで、なんの用だ?」
「ええ、そのことですが、今日、わたしはユーラムを発ちます。どうやらわたしたちの獲物は王都に潜んでいるようなのでね」
「……で、おれはどうすればいい?」
「あなたはわたしの指示があるまで、ここに残ってもらいます。そして指示があり次第、例の場所の後始末をしてください」
「……わかった」
「あと、これは可能性の話ですが、王都の監察官がここ数日の間で動くかもしれません。というのも、昨晩、伝書鳥が王都の方角へ飛んでいったらしいのでね」
アルベルトは、眉間にしわを寄せた。
「随分早いんだな」
「ええ、それはわたしも思いました。まあこの早さということは、さぞかし優秀な精霊使いがいるのでしょうね」
ハンスは肩をすくめながら、皮肉な笑みを浮かべた。
「ま、そういうわけで、例の場所に行く際、王都の手のものに感づかれないよう気をつけてください。もし、彼らと遭遇するようなことがあれば、そのときは始末しなければいけません……もちろん、例の場所を見られた場合も、ね」
一呼吸おいて、アルベルトは短く、わかっている、と答えた。
「ならばよろしい。あと、これは最後になりますが、わたしがいなくなるからといって、羽を伸ばせるなんて思ってはいけませんよ。あとであちらから出向いてくると思いますが、連絡役兼、目付け役として、あなたにはわたしの部下をつけます。あなたがもし怪しい行動をとれば、すぐにわたしに報告が入る、ということです。……くれぐれも、裏切りはなしですよ?」
言いざまに、ハンスはギロリとアルベルトの目を覗き込んだ。
それは、ほんの一瞬のことだったが、その氷のような碧眼は、アルベルトの心臓を凍りつかせたのだった。そして同時に、やはりこの男は、油断のならない男なのだということを、改めて思い知らされるのであった。
「それは、もちろん、わかっている」
ほんの少しこわばる口を、アルベルトはぎこちなく動かした。
それを見ると、ハンスはにやりと微笑んだ。
「では、わたしはこれで失礼します。あとはよろしくお願いしますね」
ハンスが去ったあとも、しばらくの間は体が動かなかった。あの眼の恐怖が脳裏に焼き付いて離れなかった。深く息をして、だんだんと落ち着きを取り戻していくと、今度は冷や汗がどっと出た。
やつの顔を見たのは初めてだった。といってもあの目が強烈すぎて、そのほかの部分はあまり鮮明に覚えていない。それでも、普段決して見せない、頭巾の下の秘密を垣間見れたのは、貴重なことではあった。
「……アル、おはよう」
突然背後からかけられた声に、アルベルトは、ビクリと体が跳ね上げた。だがすぐに、その間の抜けた声がピューポのものだと気づくと、心の中で舌打ちをした。
(おれはなにに怯えているんだ)
こんな取るに足らないような見た目の生き物にさえ怯えている自分が、酷くみじめに思えた。
「ごめん。驚かせちゃったかな……ねえ、大丈夫?」
返事をする気になれなくて黙っていると、ピューポが心配そうに言った。
「……大丈夫だ。聞いている」
「ほんとに? なんか様子がおかしいけど」
「大丈夫だと言っている!」
思わず声を荒げてしまって、また心の中で舌打ちをした。アルベルトは声を落とした。
「大丈夫だから、頼む、少し黙っていてくれ」
「うん、わかったよ」
腑に落ちないように、ピューポがしょんぼりと言った。
部屋が再び静まり返る。心が、ざわつく。
(おれはいつまで……)
やつの言いなりになっていなければならないのだろうか。そこまで考えて、苦虫を噛み潰したように、眉間にしわを寄せた。
やつにとって自分は、ただの都合のいい道具でしかない。一度でも使えないと思われれば、簡単に切り捨てるだろう。そうなれば、こちらの命が危ない。だが、単に自分の命が危ういだけなら、とっくにやつのことを切り殺している。――命より大切なものを人質にとる。やつの常とう手段だ。やつに危害を加えたり、歯向かったりすれば、人質にかけた呪いがそのものの命を奪う。卑怯な手だ。
だがこのままずっと、やつの言いなりになり続けるつもりはない。いまのところ手立てはないが、いつかこの呪縛から抜け出せるときが来たときは、やつの喉元をかき切ってやろう。それまでは、たとえ罪のない人間を、何人も手にかけることになろうとも、命令に従い続けるしかないのだ。
そう思うと、ひどく鬱屈とした気分になる。あとどれだけの人を殺めれば、自分は人を殺すことに慣れてしまうのだろうか、罪の意識に苦しまなくなってしまうのだろうか。――そんな日は絶対に来ない、と半ば願望として思っているが、もしそんな日が来てしまったとしたなら、人としてなにか大切なものを失う。そうなってしまうかもしれないということが、いまのアルベルトにとっては、とても恐ろしいことに思えてならなかったのだった。
ほどなくして、先ほど言っていたハンスの部下がたずねてきた。名は――もちろん偽名だろうが――アイシャといって、ハンスと同じような外套を羽織った、小柄な女だった。体型は外套のせいでよくわからないが、顔はほっそりとしているので、そこまで肉づきはよくなさそうだ。
アイシャは一見すると、ただの非力な女にしか見えないが、その身にまとう雰囲気は、呪術師特有のどこか底知れぬ不気味さを帯びていて、容易に手玉にとれる女ではないということがわかる。
部屋に入ってきたアイシャは、手短に挨拶を済ませ、先ほどハンスに出された指示とほとんど同様のことを言うと、外出はなるべく控えるようにと付け足して、すぐに部屋を出ていった。
それから数日が経って、意外にも早く出陣命令が来た。そしてそれは、向こうが獲物を見つけたということを意味していた。
(さすがというべきか……)
皇帝つきの呪術師の、あまりに鮮やかな手腕に、アルベルトは思わず感心するとともに、背筋がゾクリとするような恐ろしさも感じていた。これが帝国から逃げ出したものの末路なのだ。どんなに遠くに逃げようとも、必ず見つけ出し口を封じる。特にそれが帝国の秘密を握っているものなら、なおのこと手段は選ばない。それが帝国のやり方だ。
アルベルトは、手早く身支度をして、部屋を出た。外ではすでにアイシャがいて、アルベルトの姿を認めると、軽く挨拶をして、歩き始めた。アルベルトも挨拶を返し、そのあとに続いた。
晴れとも曇りともつかぬ天気だった。
アルベルトは、アイシャの背中を追いながら願った。この先で、王都からの監察官に出くわさないことを、これ以上自分の手を汚さずに済むことを……。それはあまり意味のない願いなのかもしれないが、それでも、そう願わずにはいられなかった。
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