五 精霊の舞い
少年の案内で、少年が泊まっている宿場へ向かっている道中、自らの身の内話をしてくれた。少年の名はシェーンといって、ラグダムの商家の息子なのだそうだ。ユーラムへは仕入れのために来ていて、あと数日でラグダムへ戻るというときに、母親が病になり、立往生を食らっていたということらしい。シェーンの父は、医術師を探してあちらこちらを回っているそうだが、どの医者もその病について知っているものはいなかったという。
宿場に着き、シェーンたちの部屋に入ると、あたりの空気が変わった。どんよりと重苦しい空気――ただ単に病人がいるからというわけではない。この感じは、カルヴァの集落で病に侵されたものたちが集められていた集会所で感じた、あの底知れぬ不気味さによく似ている。
中にはシェーンの父親もいて、シェーンは父親と目が合うなり、まずいという顔をした。
「げっ、とうちゃん。帰ってきてたのかよ」
息子の言い草に、げんなりとシェーンの父は口を開いた。
「げっ、とはなんだ。お前こそ、どこほっつき歩いて……って、そこ人のは?」
シェーンの父親は、眉を上げながら、息子からレアンへ目を移した。
「そ、それは……」
盗みをしたことを父親にばれたくないのだろう。シェーンは目をそらして、ずっと口ごもんでいた。仕方のない奴だと、レアンは思った。
「ついさっき、こいつに金をとられてな……」
言葉を継ごうとしたが、それを聞くなり、シェーンの父はものすごい剣幕で立ち上がり、シェーンにきついゲンコツをかました。
「いってぇ。なにすんだよ。とうちゃん!」
シェーンは頭を押さえながら、しゃがみ込んだ。
「おまえ、人様のものを盗むなんて! おれはそんな子に育てた覚えはないぞ!」
「いや、金は返してもらったから、別にいいんだ。おれも不用心だった」
怒気をあらわにしているシェーンの父を遮るように、レアンは言った。
「……そうだよ! よりにもよって、金袋を腰につけてるなんて、取ってくれって言ってるようなもんだよ!」
調子よくシェーンは言い放って、ゲンコツをもう一発もらった。馬鹿なやつだ。
気を取り直して、本題を話すことにした。
「……で、金を取り返したはいいが、母親の病を治すため金をとったと聞いてな」
シェーンの父の顔から、怒気がさっと引き、物憂げな表情になった。
「おまえ、そのために……。だからといって……」
シェーンの父は、シェーンを見やった。シェーンは、ふてくされたように、そっぽを向いた。
「話を続けるが、おれはあんたの奥さんの病に心当たりがあるんだ」
シェーンの父の表情がわずかに明るくなった。
「本当か。どうやったら治せる?」
「ああ。だが確実な治し方は知らないが、もしかしたら、なんとかなるかもしれないという方法なら知っている。とりあえず、奥さんの様子を見せてもらえないか?」
「ああ、そういうことなら、奥へ入ってくれ」
部屋の中には、寝台が二つあり、奥のほうにシェーンの母が横になっていた。
レアンは、軽く深呼吸した。いよいよだ。またあの恐ろしい病を見ることになる。見ているだけでも、得体の知れない不安に襲われる謎の病。レアンは心を落ち着けた。
シェーンの母は、上半身から首元にかけて、びっしりと結晶に覆われていて、体を起こすことはおろか、首を動かすことすらできない状態だった。左手は完全に結晶にむしばまれ、右手はわずかに指先だけが残っている。――まぎれもなく、集落で流行っていた謎の病だった。
「奥さんが病になって、どれくらいが経つ?」
たずねると、シェーンの父は、少し考えるしぐさをしてから口を開いた。
「……うーん、三日くらいは経っていると思うが……」
三日……。早ければそれくらいから重篤な状態になってくるものもいる。シェーンの母の場合は、どちらかといえば、その部類に入るだろう。
呼吸が浅い――これだけ、体を結晶に覆われれば、呼吸するのも簡単ではないだろう。
「なあプリムラはどう思う?」
かたわらのプリムラだけに聞こえるように、レアンは小声で言った。だが、少ししても一向に返事が返ってこなくて、レアンはプリムラに目を向けた。
プリムラは、レアンの服の裾をつかみながら、まるで化け物を見ているかのような怯えた表情で、シェーンの母を見つめている。
「大丈夫か?」
今度はちゃんと聞こえるように、少し大きめの声で言った。すると、我に返ったように、プリムラはぴくりと身を震わせた。
「えっ、ええ、大丈夫よ」
全然大丈夫じゃなさそうだ。だが、これ以上聞いても、大丈夫の一点張りになるだろうから、それ以上聞くのはやめた。
「……黒い、もや」
プリムラはぽそりと言った。
「森で見たものほどではないけれど、姿が見えないくらい、すっぽりと覆われている」
「黒いもや……森で見たあれか。おれには、結晶にしか見えないな」
「ということは、あなたの言う結晶は、領域では黒いもやとして現れるということになるわね……」
「そういえば、大丈夫なのか? 黒いもやに触れたら、精霊は消えるんじゃ……」
プリムラは首を振った。
「いえ、それは大丈夫よ。なぜだがはわからないけれど、このもやにはそういう力は感じないわ。まだ、もやが成長しきっていないからなのかしら……」
「それはわかんねえけど、まあ大丈夫ならいい。したら、儀式やってみるか。まずどうしたらいい?」
「そうね。そこの二人には部屋の隅に下がっててもらいましょうか。そこまで激しく動くわけじゃないけれど、念のためね」
わかったと言って、レアンはシェーンたちのほうに向きなおった。
「とりあえず治せるかどうか試してみるから、二人とも部屋の隅まで下がってもらっててもいいか?」
シェーンの父は、不思議そうな顔をした。
「それはかまわんが、あんた、さっきからなにと話して……?」
「それは……」
レアンは口を開きかけたが、シェーンが遮った。
「なに言ってんだよ。とうちゃん。そこの小さい女の子とだよ!」
シェーンの父は、さらに不思議そうな顔をした。
「おまえ、なに言ってるんだ。小さい女の子なんて、どこにもいないじゃないか」
「いるよぉ! お兄ちゃんの横に、白っぽい髪の女の子が!」
「君、わたしのことが見えるの?」
プリムラがたずねると、シェーンはうなずいた。
「うん。見えるよ! ねえちゃんが見えないなんて、とうちゃん目がおかしいんだよ」
プリムラは静かに首を振った。
「いいえ。見えないのが普通よ。わたしは精霊。精霊を見ることができる人は特別なのよ……」
「ねえちゃん、精霊なの⁉」
プリムラはうなずいた。
「ええ、そうよ」
シェーンは嬉しそうな顔になった。
「すっげぇ。おれ精霊なんて初めて見たよ!」
「おまえ、精霊が見えるのか⁉」
シェーンの父は、驚いて声を上げた。
「どうやらそのようだな。おれも精霊が見えて、契約もしている。だから、精霊の力を借りて、病をどうにかできないかと試してみようと思う」
「……あんた、祭司官なのかい?」
「なんだそれは」
「違うのかい。祭司官ってのは、国府に仕え、精霊の儀式で祈祷をしたり、精霊から知恵を賜り、これから起きる天災を占う人たちのことだよ」
「初めて知ったな。まあ、とりあえず、これから精霊の儀式をしてみようと思う」
そう言って、二人に部屋の隅に下がってもらうと、再びシェーンの母のほうへ向き直った。
「さて、次はどうする?」
「そうね。あなた、お母様の舞いって覚えてる?」
「うーん、なんとなくなら覚えてるけど……」
「やれって言われたらできる?」
レアンは、苦い顔をして即答した。
「それは厳しいな。自信はない」
「わかったわ。じゃあ、わたしの舞いを真似して。それならできるでしょ」
「それくらいなら、なんとかできるかもしれない」
「じゃあ、早速やってみましょう。まず最初にわたしが歌うから、舞いが始まったら続いてね」
わかったと、レアンがうなずいてから、二人はシェーンの母の寝台を間に挟むように配置についた。
レアンは、深く深呼吸をした。
両手を胸に当て、プリムラが息を吸う。
歌が始まる。聞いたことのない言葉、意味も分からない言葉で紡がれた歌。初めて出会った湖で、プリムラが歌っていた歌。美しく、どこか心が浮き立つような、不思議な音色。
――うっとりと、酔いしれる。
左手を胸に当てたまま、プリムラが、右手で宙を撫で上げる。視線が指先を追う。
すかさず、レアンも同じ動きをした。思ったより、すんなりと体が動いた。
プリムラが、また動く。レアンが続く。
まるで、体が動きを知っているかのように、不思議と、次にどう動けばいいのかがわかる。
花の甘い香りが、むわっと広がる。その強い香りに、頭がとろけそうになる。プリムラの歌声が、ぼんやりと聞こえる。
土の匂いや、森の緑の香りが、混ざってくる。低い声。しゃがれた声。甲高い声。透き通った声。様々な歌声が、幾重にも重なる。
プリムラの歌声に誘われ、
しばらくして、
プリムラは、レアンの目を見つめながら、微笑みかけた。――わかっている。この次は――。
レアンは短剣を抜いて、シェーンの母に突きつけた。
目を瞑り、何度か、深く息をする。
すると、体に着いた結晶が、淡く紫色に光り始めた。
それを確かめると、今度は静かに短剣を振り上げて、また下ろして振り上げるということを繰り返した。そうしていくと、紫色の光が、だんだんと緑色の光に変わり始めた。
レアンは短剣を振る手を速めた。緑色の光がどんどん強くなっていく。
光が強くなった結晶がはじけて、光る粉になった。光の粉は、つかの間空中を漂って、消えてなくなった。
ほかの結晶も、次々とはじけていった。その間も、レアンは短剣を振る手を止めなかった。
すべての結晶が消えたとき、大合唱が止んで、レアンも短剣を下ろした。そして、示し合わせたように、一斉に辞儀をすると、地の
糸が切れたように、レアンは、その場に膝をついた。疲れがどっと押し寄せる。さっきまでは、疲れなんて一切感じていなかったのに、儀式が終わった瞬間に一気に来た。母がこれを連日やっていたと思うと、ぞっとする。
顔を上げて、寝台に目をやる。シェーンの母は、穏やかな顔で眠っていた
ほっと息をついた。うまくいったようだ。
呼吸を整えて、シェーンたちに振り返った。二人は、ただ部屋の隅で茫然と固まっていた。
「……うまくいったようです」
そうレアンが微笑みかけると、シェーンの父は涙を浮かべ、シェーンはとびきりの笑顔を浮かべレアンに飛びつき、まだ体に力が入らないレアンは床に押し倒された。
「すっげぇよ、あんちゃん! 地の
「わかった。わかったから、とりあえず降りろ」
興奮するシェーンを、引きはがしながら、レアンは言った。
「あ、ごめん。うれしくって、つい……」
ばつの悪そうな顔をして、シェーンはレアンから離れた。
「なんと、お礼を言ったらいいか……。とにかく、女房を救ってくれて、本当にありがとう。……ぜひ、なにかお礼をさせてほしいのだが、望むことはないか?」
涙をぬぐいながら、シェーンの父は言った。
レアンはうなった。正直勝算のある勝負ではなかったし、元々なにか報酬を望んで精霊の儀式をしたわけでもない。ただ見過ごせなかったからしたまでのことだし、自分の力を試してみたかったというのも、少しあったのだ。だが、それと関係なしに望むことなら一つしかない。
「……おれは、わけあってラグダムへ行きたい。だが、おれは森の外のことは、なにも知らない。ユーラムに来たのだって、今日が初めてだ。あなたは、ラグダムから来た商人だと聞いた。もし本当に望みをかなえてくれるというのなら、おれをラグダムへ連れて行ってほしい」
シェーンの父の目を見て、レアンは言った。
少しの間、シェーンの父は、考える素振りをしたが、すぐにうなずいた。
「よしっ、わかった。すぐに、手配しよう」
「いや、そんなに急いでるわけじゃないんだ。奥さんをもう少し休ませてからでも」
「いや、どのみち近いうちに出るつもりだったんだ。それじゃ、おれはちょっくら商会に行って、隊商を組めないか頼んでくるから、留守番よろしくな」
そうは言っても、シェーンの母のことが気がかりなのは変わらなかったが、シェーンの父は、すぐに飛び出して行ってしまったため、もう流れに身を任せることにした。
それから時間が経ち、日が暮れる頃になって、ようやくシェーンの母は目を覚ました。体調は驚くほどよくなっており、レアンの懸念はどこかへ吹き飛んでしまった。
そして、そのころになって、シェーンの父も帰ってきて、目を覚ました妻と抱擁を交わした。
旅立ちは明日の朝。ちょうどラグダムへ向かう隊商がいるということで、それについていくことになった。少々急すぎるような気もしたが、これを逃すとしばらくは隊商を組めないだろうということだったので、この機を逃すわけにはなかった。
いよいよ、ラグダムへ旅立つ。襲撃者の正体に一歩近づける。胸が高鳴り、心がざわついた。
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