二 地の精霊



 罠の場所に近づき始めたとき、日がすでに傾き始めていた。今の時期は暗くなるのが早い。急がなくては、集落にたどり着く前に、夜になってしまう。

 ひざ丈ほどもない下草を、木の枝で掻き分けながら歩いていたレアンは、足を速める。クローガは、後ろをぴったりついてきている。

 罠は朝のうちに五つ仕掛けておいた。もう半日は経ったので、もしかしたら獲物がかかっているかもしれない。森の中央にある湖から、東のほうにある集落の間に、罠は仕掛けてあり、今はちょうど湖と集落の中間あたりに仕掛けたものへ向かっている。

 その場所には、あとで来てもすぐにわかるように、近くの木に印をつけてある。もうすぐその印が見えてもいいころだ。

 ときおり木々の間から差し込む日の光に、目を細めながら歩いていくと、すぐに印がついた木が見えてきた。

 レアンはさらに足を速め、印がついた木に近づいて、罠の中を見てみたが、なにもかかっていなかった。作動した形跡すらもない。

(……やっぱりだめか)

 このごろ、狩りでの収獲が少なくなっている。いくつか罠を仕掛けても、どれにもなにもかからないことなんてざらで、それが何日も続いたりすることもある。獲物を探して森を歩いていても、半日で一匹でも見つけられたら良いほうだった。

 レアンは、はじめ自分の狩りの腕が落ちただけだと思っていたが、どうやらそうではなかった。レアン以外の狩人たちも、みな同じように、収獲が少なくなってきていたのだ。なかには、何日も獲物を捕らえられず、肩身を狭そうにしているレアンとさほど年が変わらない若者もいた。

 森の民アルシェ七氏族の代表が集まる集会に出た母の話では、レアンたちが暮らすカルヴァ氏族領だけではなく、そこから西方にあるオムリ氏族領、南方にあるケルク氏族領でも、不猟が続いているそうだ。ほかの四氏族の領内では、今のところ特に収獲が減ったということはないという。

 森で獣が減り始め、少し経ったころ、恐ろしい病が、森ではやり始めた。その病は、実に奇妙なもので、はじめは表皮の一部に、小さな紫色の結晶のようなものが生えてくるのだが、それがだんだんと体中に広がっていき、最後にはまさに石のように、体が結晶化してしまうのだ。

 病は、森に生きるすべてのものを侵した。

 狩りの最中に、レアンは、病に侵され、完全に結晶化してしまった小動物を見かけたことがある。結晶が大きくなりすぎて、もとがなにであったのか、全く想像がつかなかったが、結晶が生えている場所が、わずかに盛り上がっているところを見ると、なんとなく小動物であったのだろうということはわかった。小動物の結晶から移ったのだろうか、下に生えている草までもが結晶化し、近くの木はレアンの背丈くらいまでを結晶に侵食されていた。

 結晶に侵された、その場所を見たとき、レアンは言い知れぬ恐怖と不気味さを感じた。そこからは、〈精霊の声〉が全く聞こえてこなかったからだ。かろうじて、まだすべてを侵食されていない木からは、かすかに声が聞こえるが、それもとても弱々しく、耳を澄ましていなければ、気づけないくらいだ。

 だがそんなことよりも、異様だったのは、なんといってもその気配だ。結晶化した場所は、もとの小動物や草木の気配が一切しなくなっていて、その場所だけ切り取られたかのように、森とは明らかに異質で、近づけば吸い込まれてしまいそうな、そんな底知れぬ気配を放っていた。

 そのときレアンは、少し離れたところから、その光景を見ていたが、恐ろしくてそれ以上、近づくことはできなかった。あのとき、もう少し近づいていたら、どうなっていただろうかと考えると、今でもお腹のあたりがぞわぞわする。

 集落でも、一人、また一人と、病にかかる者が現れ、今では集落のほぼ半数の二十人近くが、この病に苦しんでいる。

 病にかかった者は、集会所に集められた。最初のうちは、看病する者が何人かはいたが、その者たちが次々と病を発症していくと、誰も集会所に近づきたがらなかった。

そんな中、母はひとり集会所に通いつめ、看病を続けた。なぜか母は、誰も正体を知らないこの病を知っているようで、精霊の儀式をすればきっとよくなるはずだから、と言って、病人たちの世話のかたわら精霊の舞いを舞った。

 厄払いのために精霊の儀式を行うことはあるが、病を治すために精霊の儀式を行うなど聞いたことがなく、誰もが母のことを疑った。

 一度だけ、森を西に抜け、ウラム川を越えた先にあるユーラムという町の医術師を集落に招いて、病人たちを診てもらったことがあるが、その医術師でさえも、こんな病は初めて見たそうで、もっと大きな町の医術師ならば、なにか治療するすべを知っているかもしれないが、自分ではどうすることできないと言っていた。

 連日にわたる看病のせいか、母は日に日にやつれてきている。特に精霊の儀式は、心身ともに負担が大きいらしく、ふつうは月に一回、多くても数日に一回くらいの頻度でしか行わないのだが、それを母は、毎日一回、多い日は二回も行っているのだ。

 そんな母が心配になったレアンは、一日くらいしっかり休養を取るようにと、何度も説得を試みたのだが、母は頑なに、これが母さんの役目だから、と言って聞かなかった。

 しかし、母の必死な努力が実を結ぶことはなく、病にかかった者たちは、結晶化が進むほどに、水も食べ物も受け付けなくなり、体のいたるところに不調が起きていき、やがて死んでいった。

 犠牲になる者は、日に日に増えていく。結晶は死体をも、むさぼるように広がっていくので、どこか別の場所へ運びたかったのだが、やはり母以外、みな、病が移ることを恐れて、死体に近づきたがらなかったので、母が運ぶしかなかった。

 レアンも、正直なところ、やりたいとはまったく思わなかった。死体を覆う結晶は、あの森で見た空間と、同じ気配を放っているからだ。触れることはおろか、近づくことさえはばかれる。それほどにあの結晶は、レアンにとっても、恐怖の対象だった。

 だがそれでも、それを体の弱った母にさせるなんてできなかった。

 レアンは死人が出るたびに、集落のはずれにある誰も住んでいない小屋まで、死体を運んだ。結晶化した体は、想像以上に重く、担ぎ上げるときに結晶の部分が食い込んで、下手をすると大怪我をしかねないので、一人で運ぶのは荷車を使っても、そうやすやすとこなせることではなかった。

 今朝も、子供が一人亡くなったので、小屋まで運んだ。

 まだ六つにもならない女の子だった。十日ほど前までは、元気に外を走り回っていたのに、一度皮膚に結晶が生えると、あっという間に結晶に侵食され、あっけなく亡くなってしまった。前におぶってやったときは、驚くほど軽かった体が、すっかり重くなってしまったのを、レアンは背中で感じながら、なんとも言えない気持ちで、小屋まで運んでいった。

 そんなことを思い出して、深いため息をついた。だが、落ち込んでもいられない。食料を得られなければ、病にかからずとも、いずれ飢え死にしてしまう。

 レアンは、気を引き締めると、湖のほうにある罠に向かって歩き始めた。


 湖のほうに仕掛けた二つの罠を調べ終えたとき、空はわずかに赤みを帯びていた。

 結局、罠は二つとも、獲物がかかっていなかった。

 急いで集落のほうに戻り、残りの二つの罠を見にいこうと、足を向けたが、クローガが水を飲みたそうに、口をぱくぱくさせたり、舌を出したりしていたので、仕方なく湖に寄っていくことにした。

 湖までは、そこまで遠くはないが、ここでの寄り道は、少々痛手だ。レアンは小走りで、湖に向かった。

 もう少しで、湖が見えてくる、そのときだった。

 突然、森の気配が変わったのを感じて、思わず足が止まった。

 なんだか、視界がぼんやりとする。夢を見ているときのようだ。

 木々が、実を宿しているかのように、青白い光を、いくつもぶら下げている。

 つかの間、呆然と立ち尽くしていると、湖のほうから、何やら楽しげな、そして、美しい歌がかすかに聞こえてきた。

 聞いたことのない、言葉もわからない歌だが、その歌声は、自然と踊りだしたくなるような、そんな不思議な魅力があった。

 もっと近くで聞きたい、そう思うよりも前に、自然と足が湖に向かっていた。

 湖に近づくにつれ、土の匂いと、緑のすうっとした香りが強くなる。

 木々の隙間から、夕日でかすかに橙にだいだい染まる湖面が見えてきた。聞こえてくる歌声も大きくなる。

 湖のすぐ近くの木までたどり着いたレアンは、その木陰にさっと身を隠した。

 そして、一息つき呼吸を整えると、そろそろと、木陰から頭を出して、湖のほうを覗き込んだ。

 するとそこには、レアンの腰のあたりくらいまでしか背丈のない、銀色の短い髪を輝かせる褐色の肌の少女がいた。

 少女は、湖の水際で、歌いながら舞いを踊っている。

 その舞いを、どこかで見たことがある気がした。

(あれは……精霊の舞いだ)

 しばらく、舞いを見ていると、ふと、母が精霊の儀式で踊る舞いに似ていることに気がついた。だが、少女の舞いは、母のものとは、なにかが決定的に違う気がする。

 少女の舞いに、目を凝らす。


 宙を撫で上げるように、少女は手を滑らせていく。

 少女の手が、ふわり、ふわり、と動くたびに、花のほの甘い香りが漂ってきて、鼻孔をくすぐる。

 花の香りに、頭がぽわっとする。

 水が跳ね上がり、少女の衣を濡らしていく。美しい褐色の肌が、薄衣のようになってしまった衣の上から、うっすらと姿を現す。

 普段なら、どこか官能的に気持ちになりそうなその姿を見ても、なぜか全くそんな感じがしない。

 ただ美しいと、そう思う。

 少女の舞いは、母の舞いよりもずっと美しかった。

 いつの間にか、レアンは、木陰から身を乗り出して、少女の舞いを眺めていた。

 ときどき、少女と目が合う。少女の瞳は、強い光を放っていて、不思議と惹きつけられる。

 目が合うたびに、微笑みかけられ、少しどきっとした。

 少女はレアンに見られていることなど、気にしていない様子で、舞い続けた。

 どれくらいの間、その舞いにくぎ付けになっていたのだろう。真上の空に深い青色が見えはじめ、かすかに星が瞬きだしていた。クローガが水を飲み終え、暇そうにしていたが、そのことにも全く気づかなかった。


 わうっ、というクローガの鳴き声で、レアンは、現実に引き戻された。

 クローガが、少女に向かって吠えている。

 少女が、小さく悲鳴を上げて、尻餅をついていた。

 レアンは、慌てて、吠え続けているクローガに駆けより、

「おい! クローガ、なに吠えてるんだ。落ち着け!」

と、にらめつけるようにして一喝した。すると、クローガは、鼻をふんふん言わせながらも、すぐに吠えるのをやめた。

「……まったく」

 ため息をついて、レアンは、少女のほうに振り向き、少女に手を差し伸べた。

「驚かせて悪かったな。大丈夫? 立てるか?」

 少女は、なぜか驚いたように、目をぱちくりさせていたが、すぐに微笑み、

「ありがとう。立てるわ」

と言って、レアンの手を取った。

 少女の手を引っ張り、起こしてやると、その背の低さに改めて驚く。体つきは、同い年くらいの女の子のなのだが、背丈はレアンの腰の高さよりも少し低いくらいだ。

 レアンは、同年代の男の子のなかでも、一番背が低く、下手すれば女の子にさえ背を抜かされてしまうほど、小柄な少年だった。だから、自分よりも背が低い年頃の女の子を見るのは新鮮だった。それにしても背が低すぎるのだが、それほど気にはならなかった。

 顔を見ようと思って、少女を見下ろしたレアンは、視界に刺激的なものが入ってきて、ぱっと顔をそらした。

(……やばい、こいつ)

 目のやりどころに困る。顔を見ようとすると、自然と胸元が目に入る。しかも、あろうことか、少女の衣はぐっしょりと濡れている上に、下着をつけていなく、布一枚しか身に着けていなかったのだ。

「……ちょ、おまえ。その恰好、なんとかならねえの?」

 レアンが顔を赤らめながら、少女に尋ねると、きょとんとした顔で、

「え、なにが?」

というので、レアンは返す言葉がなかった。

(……こいつ、まじで言ってんの? てか、さっきはなんとも思わなかったのに、なんでだ?)

 レアンが沈黙していると、少女は目を細め、

「それよりも、あなた人間よね?」

と尋ねてきた。

 質問の意味がわからなくて、レアンは眉をひそめた。

「は? おれは人間だけど、おまえは違うわけ?」

 聞き返すと、やれやれという感じで、少女が肩をすくめた。

「君、本気で言ってるの? あたしは地の精ノーム。精霊よ」

 少女は、予想外のことを言ってきた。

「え、おまえ精霊だったの⁉ 全然気づかなかった……」

 驚いて声を荒げていると、少女は、あきれたようにため息をついた。

「気づいてなかったのね……。というか、こんなに小さい人間いないでしょ」

 少女が馬鹿にするように言うと、レアンは、うつむきながら口をとがらせた。

「確かに、やけにちいせえなとは思ったけど……。まさか、精霊だとは思わなかったよ。おれ、精霊見たの初めてだし……」

 レアンが小声でぶつぶつと、つぶやいていると、少女はいきなり噴き出すように笑い始めた。

「もうっ、おっかしい。君って、もしかしてお馬鹿さんだったりする? 初めて見たからって、ふつう精霊と人間を見間違えたり――」

 と言いかけて、少女は少しの間、考える素振りをしたが、すぐに首を横に振り、

「――いやいや、ないないない。絶対ないって! もう、ほんとおかしい。君、面白いね」

と言い、その後も腹を抱えて笑い続けた。

「馬鹿とか言うな! てか、さっきから笑いすぎ!」

 レアンは、むっとした顔で言い、空を見上げた。

 空がもうすっかり暗くなり始めているのを見て、はっと我に返った。

「やべぇ。もうこんなに暗くなってる。早く帰らないと……」

 とつぶやくと、レアンは、集落のほうに振り向き、

「……じゃあ、そういうことだから。またな」

と、少女に言って、走り出した。

「――ちょっと待ちなさいよ!」

 という少女の声が後ろからしたのと同時に、はやってきた。


――あ……つい……。くる……し…………い――


 突然、断末魔のような悲鳴が、いくつも重なって、頭の中に響いた。

 それと同時に、体が焼けるような熱さを、全身で感じて、その場に倒れこんだ。

(――なんだ……これ、体が……焼けるように…………熱い)

 熱さに耐えきれず、両腕で体を抱えながら、うめき、転げまわる。

 それでも、体にまとわりつく熱は消えず、レアンは、もがき続けた。

 気が遠くなりそうだ。炎の幻覚も見える。

 もう気絶しそうだ、そう思った瞬間、すっと熱さが消えた。

 息を荒げながら、レアンは、自分の体を見たが、どこにも火傷はない。

 なんだか胸騒ぎがする。

 レアンは慌てて、近くの木によじ登り、周囲を見渡した。

 すると、東の方角の空に、夕日のような光が見えた。集落のほうだ。煙が上がっているのも見える。

 頭が真っ白になった。

「クローガ! おまえはそこにいろ!」

 叫んだが、クローガの姿は見えなかった。

 でも、今はそんなことはどうでもよかった。

 レアンは、さっと木から飛び降り、森に飛び込んでいった。


     *


 遠ざかるレアンの背中を、少女は不思議そうに見つめた。

(……あの子。今、森と共鳴していた? 気のせい……なわけないわね。確かにこの目で見たもの。だとしたら、あの子――何者なの?)

 少女の頭に、疑問はいくつも生まれたが、それらは一旦胸にしまって、今はレアンのあとを追うことにした。

(あの子に聞いてみないと、わからないものね。頭で考えても仕方ないわ)

 少女は、走り出し、森の中へと消えていった。

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