精霊の騎士〈Ⅰ〉災禍の炎

河上 憬柊

第一章 旅のはじまり

一 狩人の少年



 秋風に吹かれ、エザフォスの森は、ぽつ、ぽつ、と赤や黄色に色めき始めているが、まだ多くの木々は、深い緑の葉を残していた。

 風に吹かれて、森がざわめいているのを聞きながら、レアンは、少し背の高い木の、太い枝の上に座り込んでいた。まるで木の一部であるかのように、気配をとけこませた小柄なレアンの体の上に、ときおり小鳥がとまっている。

 目を閉じ、耳を澄まして、森の音を聞く。そうしていると、生き物たちの気配がわかる。今ちょうどレアンのいる木から、十数本くらい先の木の下あたりに、小動物の気配がある。

 気配のするほうに体を向け、矢をつがえる。矢が当たらない距離ではないが、確実に仕留めるために、小動物がこちらに近づいてくるのを待つことにした。

 運がよかった。小動物は、レアンのいる木のほうまで、近づいてきている。

 もう少し待ち、十分に引き寄せたと思ったレアンは、獲物のいる茂みに、ねらいをさだめる。

 そして、茂みから小動物が出てきた瞬間、弓を引いた。

 放たれた矢は、木々の間をすり抜けていき、吸い込まれるように、小動物の体に突き刺さった。突然の衝撃に、小動物が驚いて跳び上がり、出てきた茂みに飛び込んだ。

 それを見ると、レアンはさっと木から飛び降り、茂みに駆けていった。

 茂みを掻きかき分けていくと、地面には、腹から矢をはやしている灰色がかった茶色い毛をした野ウサギが、足をぴくぴくさせながら、転がっていた。

 野ウサギに近づき、しゃがみ込んだレアンは、そっと頭をなでてやると、片手で首をがっしりとつかんだ。

 首をつかまれた野ウサギは、己の運命を悟ったのか、すぐにおとなしくなった。

(……ごめんな)

 心の中でそうつぶやき、もう片方の手を野ウサギのあごにあて、くいっと手前に引くと、野ウサギの首は、簡単にぽきりと折れ、すぐにぴくりとも動かなくなった。

 まだ暖かい野ウサギの体温をその手に感じながら、レアンは腰に携えた猟刀を引き抜き、野ウサギの首にあてがう。そして、そのまま猟刀をぐっと押し込んで、首に傷をつけた。

 後ろ足をつかみ、野ウサギを逆さまに持ち上げる。つけられた傷から、ぽたぽたと血が流れ落ちる。レアンが、絞るように野ウサギの体を軽くしごいてやると、どんどん血が流れ出ていき、すぐに一滴も出てこなくなった。

 ため息交じりに、息をついた。

(おれも手慣れたものだな)


 こうして狩りに出るようになって、もう六年にもなる。

 レアンは今年で十四になるが、父に連れられ、狩りに出るようになったのは、まだ八つになったばかりのころだった。

 狩りに慣れるのに、レアンはとても苦労した。弓の扱いや獲物の探し方など、狩りの技術を身に着けるのも、もちろん大変だったが、何よりも苦労したのは、獲物を殺せるようになることだった。

 物心ついたころからレアンは、生き物の声を聞くことができた。声といっても、言葉が聞こえてくるというわけではなく、思いや気持ちが、なんとなく心の中に伝わってくる、そういった感覚だった。それがレアンを苦しめた。

 狩りでは、獲物を追い、仕留めなければいけない。だが狩りをしている時でも、生き物の声は聞こえてくる。追われ、傷つけられた獲物の、恐怖や苦しみの声を聞いてしまうと、自分がなにか悪いことをしているような、そんな気がして気が沈んだ。

 獲物を見つけるのは、レアンにとっては簡単だった。生き物の声を聞いていれば、獲物がどの辺にいるのかは、だいだいわかるからだ。狩りの名手だった父に教わったおかげで、弓の扱いもすぐに上達した。練習用の的でなら、ほとんど外さない。

 獲物を見つけるのも、弓を射るのも、年の近い子らの中では、だれにも負けなかったが、どうしても、獲物を狩る気にはなれなかった。獲物を見つけても、逃がしてしまうことがたいていで、弓を射ようとしても、手が震え、まともに射ることができない。たとえ射ることができたとしても、獲物にあたることはなかった。

 最初のひと月かふた月の間は、慣れていないだけだろうと、自分に言い聞かせて、狩りに出て、獲物を追い続けたが、いつまでたっても、獲物を狩るのに慣れることができなかった。

 そして、しだいに狩りに出ることに嫌気がさしたレアンは、こっそり狩りの途中で抜け出し、森で遊ぶようになった。といってもなにも収獲がなければ、さすがに怪しまれるので、山菜や木の実、キノコなどを採って帰るようにはしていた。

 レアンが狩りを抜け出していることなど、すぐに父にばれていた。ある日の夕食のあと、父に呼び出され、集落の明かりがぼんやりと見えるところまで、父と出ていったことがある。その時の父の表情は暗くてよく見えなかったが、怒っているように感じたのを覚えている。

 父との間に、しばし沈黙が広がる。木々のざわめきが、不安をかきたてた。

「おまえ、最近、狩りを抜け出し、遊んでいるだろう? なぜだ。狩りがそんなにいやか?」

 沈黙を破って、父が口を開く。父の声に怒気は感じなかったが、それでも、腹の下のあたりが、きゅうっとする。だが、ここでうそを言っても仕方がない。腹をくくって、本当のことを言うことにした。

「……いやだ。おれには、獲物を殺すことなんてできない」

 吐き出すようにつぶやき、レアンはうつむいた。

 父は、なにかを考えているように顎をさすっていたが、すぐに、はっとしたような顔になり、

「おまえ、もしかして〈精霊の声〉が聞こえるのか?」

と穏やかな声で言った。

「〈精霊の声〉?」

 聞いたことのない言葉だったので、レアンは思わず聞き返してしまった。

「生き物の声のことをそう言う。まあ、精霊様の声が聞こえるっていうやつもたまにいる。母さんがそうだ」

 父はあっけらかんとした口調で言った。

(……そうか。あれは〈精霊の声〉というのか……)

「……聞こえるよ。〈精霊の声〉。……でもどうして」

 言っても馬鹿にされるだけだと思って、この話を誰にもしたことがなかった。もちろん父が知っているはずはない。

「やっぱりそうか。そうだと思ったよ。おまえは獲物を探すのも、弓を射るのも、俺に似てうまいのに、どうしたもんかなと、思ってたんだよ。そうか、そうか、やっぱりおまえは、父さんと母さんの子だな」

 うなずきながら、父が嬉しそうに微笑む。

「……じゃあ、父さんも〈精霊の声〉が聞こえるの?」

 遠慮がちにたずねると、父はうなずいた。

「そうだ。じゃなきゃ、あんなふうに獲物は追えないよ。そうか。言ったことなかったか。まあ、母さんはな。〈精霊の舞手〉だから、知ってたと思うが」

 精霊の儀式を行う〈精霊の舞手〉である母が〈精霊の声〉が聞こえるのはなんとなくわかる。だけど、父もそうだということは気づかなかった。でもよく考えてみれば、森の中でいとも簡単に気配を消したり、姿の見えない獲物を見つけたりなんていう、父のとんでもない芸当は、〈精霊の声〉が聞こえでもしないかぎり、到底できはしないことはなんとなくわかる気がした。

 両親も自分と同じく、〈精霊の声〉が聞こえるとわかっても、レアンは、ちっとも気が楽にならなくて、その気持ちを父に言うと、父は真剣なまなざしを浮かべた。

「レアン、よく聞けよ。昔から〈精霊の声〉が聞こえる者は、良い狩人になるという。それは、獲物を見つける能力に長けているからっていう理由ではない。生き物の命を大切に思い、感謝することができるからだ。

 俺たち森の民アルシェは、獣の肉を食わなければ、この森では生きていけない。狩りをしなければ生きていけないのだ。

 だからこそ、必要なだけ狩り、感謝して食べなければならない。それをできるのが良い狩人なんだ。必要以上に獣を狩り、財を蓄えるために狩りをするものは、悪い狩人だ。悪い狩人は森を殺す、良い狩人は森と共に生き、森を生かす。

 確かに獲物を狩るのはつらいかもしれない。でもそれは、命を大切に思っているということだ。命を大切に思えるのなら、それをいただくことに感謝できるはずだ。生きるために狩りをするのなら、なにも悪いことはない。狼も、狐も、野ウサギも、鹿も、この世に生きるすべての生き物も、食って食われてをやって生きているんだ。人が狩りをするのも、当たり前なことなんだ。

 なあに、大丈夫だ。おまえはきっと、良い狩人になれるよ。父さんも若いときは、苦労したけど、今は、ほら、ちゃんと狩人やれてるだろ。大丈夫だ」

 言い終えると、父は笑顔で、がしがしとレアンの頭をなでた。

 父の話をすべて納得できたわけではなかったが、なんとなく気が楽になった気がした。

 それからというもの、狩りには休まずに出るようになり、少しずつだが獲物を狩れるようになった。

 その二年後、父ははやりの病で亡くなった。そのときから、母を支えるために、レアンは必死に狩りに出た。獲物を狩るのにためらっている暇などなく、月日は飛ぶように過ぎていった。そんな毎日を過ごしていくと、いつの間にか、集落の若者の中のだれよりも、狩りが上手になっていた。大人たちにも、決して引けを取らないほどだ。

 そんな今でも、まだ獲物を狩るのに、どこかいとう気持ちがある。でも生きるためには必要だとわかっている。それに、この気持ちを忘れないことは、父が言っていた「良い狩人」であるために必要なのだろうと、レアンは思っている。

 地面に座り込んだレアンは、野ウサギの腹から矢を引き抜いた。

 猟刀を下腹から差し込み腹を開いていると、なにかが背中をちょんちょんと、つついてきたのをレアンは感じた。振り向くとそこには、灰色の毛をした大きな狼が、耳をぴんっと立てて、物欲しそうな瞳で、レアンの顔を覗き込んでいた。

「クローガ、まだだめだ。もう少し待ってろよ」

 レアンが手で払いながら言うと、クローガは、くぅーんと甘えた鳴き声をあげて、その場にぺたっと座り込んだ。

 クローガは大狼たいろうの仔だ。大狼は山にむ狼で、平地に棲む狼よりも、体が大きく、個体によっては牡鹿おじかほどのものもいる。普段は山に棲む獣を食べ、飢えで腹をすかしていないかぎり、めったに平地には降りてこない。

 一年ほど前、森の北のほうのノースウェルデン山脈のふもとで、崖から落ちて怪我をしていたクローガを、レアンは助けたことがある。そのときに、懐かれてしまったので、今は猟犬として狩りのときに連れ歩いている。

 大狼はとても賢い。人の言葉をすぐに理解し、しつけをすれば、細かい指示にもしっかり応えてくれる。だが、大狼を猟犬として飼うものは、ほとんどいない。

 大狼が棲む山は、人がたやすく登れないほどに標高が高く、崖が多い急峻な場所だ。それに大狼は、仔のときから育てなければ、人に慣れることはない。険しい山中で、賢く凶暴な大狼の群れから仔をさらうのは、死人を出さずに成し遂げられることではない。大狼の仔は、売れば一生遊んで暮らせるほどの金になると言われているが、それでも割に合わないほど、大狼の仔を得るのは危険なことで、それを試みる者は誰もいなかった。

 野ウサギの腸をはらわた取り終えたレアンは、立ち上がり、近くの木から大きめの葉を何枚か採って、クローガの前に置いた。そして、その上に今取った腸を乗せた。いつの間にか立ち上がっていたクローガが、目の前に置かれたご馳走を見て、鼻をぴぃぴぃ鳴らしながら、足で地面を踏み鳴らしている。

「よし。クローガ、もう食っていいぞ」

 レアンが声をかけると、待っていましたと言わんばかりに、しっぽを振りながら、むしゃむしゃと、うまそうに食べ始めた。

 クローガには狩りのときに獲物を追わせているので、餌代わりにいつもこうしてご褒美を与えている。もちろん腸だけでは餌としては全然足りないが、足りない分は、クローガが自分で獲っているようだから問題はなさそうだ。食料に余裕のあるときは、獲った獲物をそのまま与えることもあるが、そういうことはめったにない。

 クローガが餌を食べ始めたのを見ると、レアンは背負っていた革袋を下ろして、野ウサギの四肢を軽く縄で縛り、袋に入れた。

 レアンが革袋を背負いなおすころには、クローガは餌を食べ終えたようで、葉の上や口元を、舌でなめていた。まだ物足りないのか、クローガは、レアンが背負っている革袋を、くんくんと嗅ぎはじめた。

「おい、そっちはおまえのじゃないぞ」

 レアンが軽くしかりつけると、クローガは、しばし不満そうにレアンを見つめたが、すぐに素直に引き下がった。

 やれやれと、レアンは息をつき、

「さて、次は罠でも見にいくか」

とつぶやくと、レアンは、一番近くの罠の場所に向かって歩き始めた。

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