第三章 目醒め

一 祖父



(おっさん、恨むからな!)

 心の中で、悪態をつきながら、夜の帳がおりる貴族街を駆けていた。

 背後から、コツコツと、石畳を踏み鳴らす音が幾重にも重なって聞こえてくる。

 貴族街と平民街を隔てる塀を乗り越えたときに、運悪く兵士に見つかってしまったのだ。ちらっと見た感じでは、革製の軽装備をした兵士が数人――だが、足音の数的には、もっといるかもしれない。増員されていても、おかしくはない状況ではある。

 だが、幸いにも足はレアンのほうがはるかに速かった。そうそう簡単には追いつかれることはなさそうだ。とはいえ、道は小路がたまにあるだけで、ほとんど一本道だ。この先、大きな分岐でもなければ、はさみうちにあってもおかしくはない。

 小路に入るというのもありだが、それこそ、はさみうちにあえばたまらないし、行き止まりに当たれば、一巻の終わりだ。

 力を使えば、あるいは……とも思ったが、これ以上揉めごとを大きくするのは、さすがにまずい。

(次会ったら、ぜってぇ一発ぶん殴る)

 乗ってしまった自分も自分だが、もとはと言えば、これはバーンの提案だったのだ。

 昨日、商隊がラグダムに着いたのは、日が傾ききった頃。さすがに貴族街に住むという祖父を訪ねるには遅すぎるということで、どこかで一夜を明かすことになった。

 そこで真っ先に、うちに来ないかと言ってくれたのは、ダグたちだった。だが、一昨日のこともあり、その申し出を受けるかどうか、決めかねていた。ダグたちに危害が及ぶかもしれないことを危惧していたのだ。

 そんなときに声を掛けてくれたのがバーンだった。バーンなら腕も立つし、迷惑をかけてもそれほど気にならない。そう思って、レアンはバーンと行くことにした。

 それでも、ダグたちはレアンのことを気にかけてくれたのだが、レアンにとっては、その気持ちだけで、十分うれしかったのだった。

 翌朝、宿を出たレアンとバーンは、祖父を訪ねるために、貴族街へ続く南門まで出向いた。別にバーンはついてこなくてもよかったのだが、道がわからないだろうからだとか、ガキ一人で行くよりましだろうだとか、色々理由をつけてついてきた。

 そうして二人で門までたどり着いたのは良かったが、今度は別の問題が起きた。

 衛士が、よそ者は通さぬと言ってきたのだ。これには、レアンもバーンも弁明したのだが、衛士は一向に聞き入れてはくれなかった。決して口には出さなかったが、レアンが森の民であることが気に食わない――そういう口ぶりだった。

 これでは埒が明かないので、二人はその場をあとにして、なにか別の策をたてることにした。

 そのときに、バーンが言い出したのが、夜半にこっそり忍びこむという策だった。あまりに作戦なので、とんでもないとレアンは反対したのだが、バーンは、いざとなれば消えられるのだからとか、力を使えばいいだとかと、調子の良いことを言って聞かなかった。それでも、レアンは首を縦には振らなかったが、祖父に会って話をすれば、忍びこんだことも不問にされるかもしれないという、甘い言葉にまんまと丸めこまれてしまったのだ。

 そしていまにいたるわけだが、どうしたものか。結局、兵士の目を欺くために、少々入り組んだ小路に入り、幸いなことにいまのところ、行き止まりには当たっていない。だが、そのせいで、完全にどこにいるのかわからなくなってしまった。

 昼間に下見をしたときには、目的の建物の位置がよくわかったものだが、夜になれば、また街の雰囲気は変わってくる。記憶はあてにならない。

「ねえ! このまま闇雲に走ってるだけじゃ、持たないわ。いったんどこかに隠れて、体勢を立て直したほうがいいんじゃない?」

 真横を走るプリムラが、早口に言う。

「んなこたぁ、わかってるよ!」

 息を切らしながら、レアンは怒鳴った。

 だが、プリムラが言うことももっともだ。このまま逃げ続けるだけでは、体力が持たない。なるべく人けのないところに身をひそめられれば良いのだが。

 そう思っているうちに小路を抜け、大きな通りに出た。一息つくのもほどほどに、あたりをさっと見まわす。

 通りには、大中小、様々な屋敷が軒を連ねていて、どこも高い塀に囲まれている。

 再び走り始め、一軒ずつ屋敷の様子を確認していく。当たり前だが、どの屋敷も人の住む気配がある。パッと見た感じでは、灯りの灯っているところは少ないように見えるので、ほとんどの住人は寝てしまっているのだろう。しかし、小高い塀のせいで、完全に様子をうかがえるわけではないので、確信は持てない。

(一か八か、忍びこんでみるしかないか……)

 ここで迷っていても、仕方がない。いまは、たとえ危険な綱渡りになったとしても、賭けに出るほうが逃げきる希望がある。

 覚悟を決めて、近くの、なるべく人けのなさそうな屋敷の塀を乗り越えようと、ふちに手をかけたときだった。

 少し先の、通りの突き当りのほうに、丸みを帯びた大きな建物の影がうっすらと浮かんで見えるのに気がついた。光がほとんど当たっていなかったからだろう。よく見ると、かなりの存在感がある建物のはずなのに、いまのいままで、その存在に気がつかなかった。

(もしかしたら……)

 隠れ場所としては最適かもしれない。

 レアンはすぐさま踵を返して、その建物のほうへ向かった。

 近づいていくと、少しずつその様相がわかってきた。端がわずかに反り返った三角屋根の、奥行きのある大きな建物。その奥のほうには、屋根を突き破るようにして、筒状の塔が高くそびえ立っている。そして、その頂上には、お椀をひっくり返したような丸い屋根がついていた。

 レアンはその奇怪な建物の大きく重厚な二枚扉の前で、素早くあたりを見まわした。

 左には巨大な大木が一本。右には宿舎だろうか、無数の窓がある、二、三階建てのくらいの大きな建物が立っていて、目の前の建物と渡り廊下でつながっている。

 ということは、この御堂にも見える建物は、さしずめ集会所かなにかなのだろう。ならば、こんな夜更けには人はいないはずだ。実際、人の気配はしない。

 レアンは意を決して、その重厚な扉を、身体を押しつけるようにして開き、素早く体を滑りこませて中に入り、すかさず扉を閉めた。

 扉に耳を当て、耳を澄ます。しばらくして、ドタドタとした雑踏が近づいてきて、また、離れていった。大丈夫だ。うまくいったようだ。

 と、ほっと一息をついたのもつかの間だった。

「そこにいるのは誰だ!」

 雷鳴のように、鋭く響き渡る声が、広い室内に轟いた。

 そのあまりに恐ろしい声に、レアンは思わずビクッと身体を震わし、ヘビににらまれたカエルのように、身を硬く固めた。

 重苦しい、沈黙の空気が流れる。声の主は、ただ黙って、無言の圧力をかけてくる。

 動悸が激しくなり、頭が真っ白になった。

 重圧に耐えかねて、恐る恐る声がしたほうへ振り返ってみると、奥の少し床が高い舞台の上に、眉間に深くしわをよせ、眉を高くつりあげた恐ろしい形相の壮年の男が、大股開きで立ち尽くしていた。

 レアンは、その姿を認めると、さらに身を縮めた。手に持つ灯りが、その表情をさらにいかめしいものにしているのだ。

 その壮年の男は、まるで歴戦の猛者のような貫録で、レアンをにらみつけている。

「何者だと聞いている! 答えんか!」

 恐々として言葉を失っていると、壮年の男は、すでにつりあがった眉を、もうこれ以上はないというくらいにつりあげて、やはり、鋭く響く声で怒鳴った。

 レアンは再び飛びあがった。だが、これ以上怒鳴られるのはごめんだったので、ぎこちなくではあるが、怯えを抑えながら口を開いた。

「おれは、その……人を、探してて……この辺に住んでるっていう、じいちゃんを」

 いまいち答えになっていなかったかもしれない。だが、今度は怒号は飛んでなかった。

「こんな夜半にか?」

 それでも十分に厳しさを残しているが、幾分か穏やかな口調で、壮年の男は訊ねた。

「それは……その……」

 ぐうの音も出ない。だが、あの衛士がどうしても通してくれかったのだから、こうするほかなかったのだ。と言いかけて、言葉を飲んだ。そんなことを言ったところで、この壮年の男は納得しないだろう。

「……見たところ、平民のようだが、こんな時間にどうやって……」

 壮年の男がそう口走ったとき、入り口の扉を叩く、鈍い音が鳴り響いた。

 ほどなくして、若い男のきびきびとした声が、扉の向こうから聞こえてきた。

「夜半遅くに失礼します。どなたかおられるでしょうか?」

 さっきの兵士かもしれない。もしそうならば、完全に八方塞がりだ。

 レアンは息をのんだ。

「少し待っておれ」

 壮年の男は、外にも聞こえるように、大声で言い置くと、レアンのほうへ視線を落とした。

 外の者に突き出すつもりなのだろう。レアンは身がまえた。

 だが、壮年の男は思わぬ行動に出た。

 外へ聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で、こっちへ来い、と手まねきをするのだ。

 そのあまりに意外な行動に、レアンが拍子抜けしたようにぽかんとしていると、壮年の男は、声をひそめながら怒鳴った。

「こっちへ来いと言っているのだ。早くしろ!」

 その声で我に返り、なにがなにやらわからぬまま、壮年の男のもとへ行くと、乱暴に演台の裏にプリムラと一緒に押し込められてしまった。

 軽くひざを折って、壮年の男は演台の中の二人を、きっとにらみつけた。

「おまえにはまだ話がある。ここでおとなしくしておれ」

 それだけ言うと、レアンの返事も待たずに、壮年の男は大股で入口のほうへ歩いていった。


 壮年の男が祭室の扉を開けると、外には若い男が二人、ピシッとした姿勢で並んでいた――見回りの兵士だ。

「お待たせしたな。して、なんの用かね?」

 壮年の男が声をかけると、二人の男たちは、その顔を見て、一瞬驚いたように身じろぎをし、背筋をぴんと伸ばした。

「……エイザ様でございましたか。こんな夜分遅くまで、お勤めご苦労様であります。

 先ほど、南西の塀より、賊が一人侵入してしまいまして、捕らえようと追っていたのですが、お恥かしながら、見失ってしまいまして、もしかしましたら、どこかに潜伏している可能性がありましたので、こうして聞きまわっていたところであります。

 祭事堂のほうでは、なにか変わったことは、ございませんでしたか?」

 喋りきった兵士は、忠犬のようにエイザの返答を待っている。

「いや、特に変わった様子はなかったな。念のため、下使いの者に調べさせるように言っておこう」

「はい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。あと、万が一ということもございますので、戸締りのほう、徹底しますようお願いいたします」

「承知した。伝えておこう。賊探しのほう、存分に精を出すがよい」

「お心遣い感謝いたします。では私どもはこの辺で」

 そう言うと、二人の兵士は短く敬礼し、どこかへ駆けていった。

 扉を閉め、エイザは一息ついた。さて、どうしたものか。


「兵士はもう行った。しばらくは戻ってこまい。出てくるがいい」

 祭室の中ほどまで来て、エイザが声をかけると、レアンはのそのそと演台の外へ出た。

「どうして、兵士におれを突き出さなかったんだ?」

 きょとんとした顔で、エイザの顔を見つめる。

 エイザは、しかめ面のまま、ふんと鼻を鳴らした。

「知れたこと。いまどき精霊様を連れた賊など聞いたことがない。祭司官の長として、おまえの正体をたださねばなるまい。さあ答えてもらおう。さっきのでは答えになっておらんぞ。おまえは何者だ? なぜ精霊様とともにいる?」

 レアンはかすかに身じろぎをした。観念するしかない。

「……おれは森の民、カルヴァ氏族のレアン。こいつ……この地の精ノームは、おれの……」

 言い淀んでいると、プリムラが口をはさんだ。

「レアンは、あたしの主よ」

 プリムラはきっぱりと言いきった。

 それを聞くと、エイザは憎たらし気にレアンをにらみつけた。

「まさかとは思ったが、やはりな。貴様、の息子だな?」

 まったくなんのことかわからず、レアンは首をかしげた。

「それは、どういう……」

「まだわからぬか。我が娘をたぶらかし、奪っていった、あの男の息子かと聞いているのだ!」

 エイザは、語気を強めながら、吐き捨てるように言った。

 だがその言葉で、レアンは、壮年の男の言わんとしていることが、ぼんやりと、そしてのっそりと、頭の中でつながった気がした。

「……もしかして、あんたが……エイザ?」

 自信なさげに、たどたどしく、目の前の男に訊ねる。

 しかめ面のまま、エイザが静かにうなずく。

 つかの間、言葉を失った。こんなことがあるだろうか。偶然逃げ込んだ場所で、探していた祖父と会えるなんて偶然が。

「……じいちゃん」

 感嘆の吐息を漏らしながら、レアンはつぶやいた。――だが、感傷に浸るのもほどほどに、祖父に伝えねばならぬことがあった。

「じいちゃん……おれ、じいちゃんに、伝えることがあって、母さんの、ことなんだけど……」

「よい。その話は、聞いている……」

 語気を失い、いやにしおらしく、祖父はつぶやき、目を落とした。

「……先日、急使が来たのだ」

 母の死を悼むように、ただ、静寂な沈黙が祖父と孫の間に流れる。

 少し、落ち着いてくると、部屋の中の様子がありありと見えてきた。とても広い部屋だった。天井も高く、天頂を捉えられないほどに、すみで塗りたくったような闇が張りついている。

 始めは、集会所だと思っていたが、どうやらここは、祭儀の場であるようだ。奥の、少し小高い舞台のさらに奥に、祭壇のようなものがあり、それらに向かいあうように、横長の長方形の形をした、わずかにふくらみのある茣蓙ござが、中央の通り道の両脇に、等間隔に一列ずつ並んでいる。

「……よく、似ておる」

 不意に、祖父が苦々しげな表情でつぶやいた。

「へ? なにが?」

「あの男……おまえの父親にだ。一度しか、やつの顔を見てないが、いまでもあの顔は忘れんよ。身のほども知らず、愛娘をくれと言ってきた、生意気な顔は。……やつはいまなにをしている?」

「父さんは……死んだよ。もう何年も前に、流行り病で」

 斜め下の、床についた小さな染みを見つめながら、レアンは答えた。

「……そうか。やつめ。娘を守ると、偉そうに言っておきながら、先に逝きよったか。益々憎たらしい男だ」

「父さんのこと、恨んでる?」

「もちろんだ。やつさえいなければ、娘は死ぬことはなかったのだから。それに……」

「それに?」

 聞き返すと、祖父は目をわずかにそらした。

「それに、やつはああ見えて、才があった。精霊様と心をかよわす才が。それがまた、憎いところだ」

「父さんも、おれと同じだったの?」

「そうだと、聞いている。だからこそ、あれがやつに心酔したのだろうし、わしもしぶしぶ婚姻を許したのだ。だが、それも間違いだったのかもしれん……」

 間違い――祖父の口から出た、その言葉が胸の中でわだかまった。

「間違いって、それじゃ――」

 憤慨し、言いかけたプリムラを、レアンは手で制した。

「……でも、じいちゃんが父さんと母さんのことを許してくれなかったら、おれはここにはいなかった。……おれが生まれてきたことも、間違いだったのかな?」

 祖父の顔をまっすぐに見据える。祖父もまた、レアンの顔をしばらく見つめていたが、やがて、申し訳なさそうな表情をして、顔をそらした。

「……すまなかった。どうやら、気がまいっていたようだ。いらぬことを言った。許せ」

「別に、いいよ。もう、気にしてない」

 エイザは、そうかと言って、つかの間黙っていたが、プリムラのほうに目を移して言った。

「そこにおられる地の精ノームのお嬢さんと、契約をしたと言ったが、よもや仇討ちでもしようと考えているわけではあるまいな?」

「……いや、そのつもりだったけど、反対するよね?」

 叱られる――そう思って、目を細め、身構えながら答えたのだが、予想に反して怒号は飛んでこなかった。

「わしの立場から言わせれば、そのようなことを認めることはできん。だが――」

 言って、エイザは、懐かしいものでも見るように、レアンの目を見つめた。

「言っても聞かん……そういう目をしている。そのあたりは母親に似たのだな。やつは、一見従順そうに見えて、その実、一度決めると梃子でも動かなかった。そうやって強情を張っているときの、やつの目にそっくりだ……」

「そう、なのかな」

 少し照れ臭そうに、レアンは微笑んだ。

「ああ……して、これからどうするつもりだ?」

「とりあえず、集落を襲った連中が何者なのかを調べようと思ってる。……手掛かりはあるんだ」

 そう言うと、おもむろに追手が持っていた銀貨を、懐から一枚取り出し、祖父に手渡した。

 なにも言わずに銀貨を受け取ったエイザは、角灯の灯りの中で、銀貨をころころ回しながら、しばらく凝視していたが、やがて首を振った。

「このような硬貨は、わしも見たことがないな。これはどこで?」

「おれを襲ってきた追手の一人が持っていたんだ」

 ふむと、エイザはうなった。

「――それにしても、偉く精巧にできておる。よほどの技術を持った国のものと見える」

「うん。これがどこの国のものかわかれば、だいぶ探しようがあるんだけど、じいちゃんも知らなかったか……」

 レアンが落胆していると、エイザは顎をさすりながら、なにやら考えごとをしだして、やがて決めたように口を開いた。

「……役に立つかはわからぬが、此度のことを調べている者がいるから、会ってはみぬか? やつも情報を欲しがっている故、その銀貨を持って行けば、なにかつかんでいる情報を教えてくれるやもしれん。わしが口を聞かせてやろう。どうだ?」

 レアンは、頼むと、即答した。

「よし、決まりだ。明日さっそく、やつに取り次ごう。

 ……今夜はもう遅い。ここに泊まっていくといい。兵士のほうには、あとでわしのほうから言っておこう」

 そう言うと、エイザは案内すると言って、渡り廊下のほうへ歩き始めた。

「……じいちゃん。いろいろとありがとう」

 レアンが感謝を述べると、エイザは足を止めた。

「娘の忘れ形見だ。これくらいはさせてくれ」

 つぶやくように言って、エイザは再び歩き始めた。

 レアンも、そのあとに続いた。

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