六 すべてを喰らうもの
それから、レアンは昏々と眠り続けた。一切の夢を見ることがないほどの、深い、深い眠りに。
目を覚ましたのは、そこから何日か経った後の、昼下がりだった。
新鮮な木の葉を分厚く積み上げた、ふかふかとした寝床の中で、レアンは、その重い目蓋を、ゆっくりと開いた。
久しく光を浴びていなかったがために、薄く細い光の中でも、ひどくまぶしい。
目を細めながら、光に目を慣らしていくと、最初の目に映ったのは、はるか高くから垂れさがる、青々と茂った枝々だった。
さわさわと、枝葉をこすらせるのどかな風が、香ばしい草の香りと、甘くさわやかな花の香りを運んでくるのが、妙に心地よい。
真横を見ると、苔むした焦げ茶の太い幹。太さはレアンの背丈よりもある。もう一方には、短い丈の
(……ここは、どこだ? いや、どこかで……)
そう思ったが、まだぼんやりしてうまく働かない頭では、すぐに思い浮かべることはできなかった。
のっそりと、重い上半身を起こす。
すると、それに気がついた何人かの小人――
その匆々たる様子に、レアンは思わず、身を後ろに引いた。だが同時に、ぼやけていた頭が少しずつ動き始め、自分がいま、精霊樹のもとにいるということに、ようやっと気づくことができた。
そこにいたのは
レアンは老婆を見つけると、ほっと安心した。トリシィだった。無事だったのだ。
傍らにいる青年には見覚えがない――だが、もしかすると、彼が、フィーの言っていた
そんなことを思っていると、すぐ近くで、
「レアン……よかった。目が覚めたのね」
と声をかけられ、すかさず、レアンはそのほうへ目を落とした。
寝床のすぐ下に、プリムラがいた。こんなにも近くにいたというのに、まわりに気を取られていたせいで、いまのいままで、まったく気がつかなかった。
少し気になることがあった。プリムラの口調である。言葉使いはいつも通りだが、どこか遠いところへ話しているような、そういうよそよそしさがある……ような気がする。いや、気のせいかもしれない。しかし、ぬぐいきれない違和感があることも確かだった。
レアンが押し黙っていると、心配そうな面持ちで、プリムラはレアンの顔を覗き込んだ。
「大……丈夫?」
その声に、はっと我に返った。
「大丈夫だ」
答えると、プリムラは、
「そう」
とそっけなく返して、うつむいた。
「……おれ、何日くらい寝てた?」
訊ねると、プリムラは少し首をひねってから、また、レアンのほうを振り仰いだ。
「二三日くらい……かしら? ごめんなさい、曖昧で……」
言うと、プリムラはまたうつむく。
「いや、いい。わかった」
プリムラのぎこちない返事に、思わずレアンも、気のない返事をしてしまった。
頭を垂れていた
その中の一人――レアンの正面にいた老人が、すくっと立ちあがった。アントスだった。
アントスは、レアンの前まで来ると、片膝をつき、両手こぶしを顔の前に合わせ、深々と頭をさげた。
「偉大なる我らが王よ。よくぞ、お目覚めになられました。某は、名をアントスと申します。僭越ながら、ここら一帯の
かしこまった口調で、アントスにつらつらと述べられたが、レアンは、どう答えたらよいかわからず困惑した。
おどおどと目を泳がせていると、心の中に声が響いた。
――しばし器を借りてもよいか? この者と少し話がしたい。
あの老人――オルフの声だった。
「あ、ああ」
断わる理由はない。アントスだって、用があるのはオルフのほうだろう。レアンは、流されるようにうなずいた。
途端、意識がすうっと抜け、身体の力が抜けていく……
つかの間うなだれてから、わずかに身じろぎをすると、また、すっと背筋を伸ばした。
オルフは大儀そうに立ちあがり、鋭く光る緑の眼光をアントスにそそいだ。
「……そうか。ご苦労であったな。アントスよ、面をあげよ」
短く「はっ!」と言って、アントスが顔をあげる。
「この度は、我が娘の契約者を、器としてお選びいただき、光栄至極でございます。……して、なにゆえ、お目覚めになられたのでしょうか?」
礼意を述べながら、アントスはオルフの顔色をうかがった。
オルフは、宙を撫でるように見まわしてから、再び視線を落として、言った。
「……古のものが目覚め、森を巣食っておる」
「古のもの……」
その音を確かめるように、アントスは小さく復唱する。
「そなたも見たはずだ。あの冷たく光る忌々しい結晶たちを」
オルフは厳しく眉をよせた。
だが、その言葉を聞いても、アントスはいまいちピンと来ていないようで、はて、と首をひねった。ほかの地の精たちも、一様に首をかしげている。
オルフは、訝しむように眉をひそめた。
「……馬鹿な。あれだけ、広範囲に広がっているというのに、気づかぬはずが……」
(……いや、ありえない話じゃない)
レアンはシェーンの母――アリーの前で、精霊の舞の儀式をしたときのことを思い出していた。あのとき、プリムラが見たという黒いもや、自分の目にはただの結晶にしか見えなかったそれ――そして、先ほど見た結晶の森、晴れた黒い霧、いびつにゆがんだ木々――これが答えだ。あの結晶は、領域では黒いもやとして発現するのだ。
だとすれば、
「なんだと⁉ 黒いもやだと……まさか、領域まで侵そうというのか……」
語尾に、わずかに恐れの感情が混じる。
黒いもや、という言葉に、ようやく地の精たちがざわめきだした。アントスは、唇を噛みしめ、悲痛な表情を浮かべた。
「あれには……」
絞り出すように、アントスは言葉を発した。
「多くの仲間をやられました……」
オルフは、しばらく痛みに耐えるように沈黙していたが、やがて口を開いた。
「それは……そうだろうな。あれには、見境などないからな」
「あれは、いったいなんなのでしょう?」
すがるような眼で、アントスがオルフを見あげる。
オルフは、少し困ったような顔をしてうつむき、それからため息をついた。
「……そうか、時はあれに関する記憶を風化させてしまったか」
しみじみとして言って、オルフは言葉を継いだ。
「我らはあれのことを、すべてを喰らうものと呼んでいる。その名の通りあれには見境がなく、どんな生き物であろうが、どんな物体であろうが関係なく、自分以外のすべてのものを侵食し、自らと同質のものに作り変えてしまう。
そんな恐ろしいものが、この世界に現れたのは、はるか古の時代のこと。それは、はるか空の果てから降ってきた。それは森を焼き、水を涸らし、生き物を殺した。だがもっと恐ろしいことが起きたのは、それから再び森が蘇り、生き物たちが戻ってくるほどに、時が経ってからのことだった。
それは突如として、木々や草花、地面や生き物、ありとあらゆるものを結晶化させ始めた。この由々しき事態をいち早く察知した我ら王は、すぐさま器を得て、事態の収拾に努めた。だが、我らの力だけでは、あれの増殖力には及ばなかった。あれは我らの力の根源すらも喰いつくすために、我らの力が弱まったためだ。そこで――」
オルフは、大きく頭を振って、地の精たちを見まわす。
「我らはそれぞれ自らの眷属である精霊を創ったのだ」
「精霊を創ったですって⁉」
と思わず大声をあげてしまったのは、
突然の発言に、周囲の注目が一斉にクライグに集まる。
クライグは、少し恥ずかしそうに咳ばらいをし、
「……失礼。あまりに驚いてしまったもので」
と言った。
オルフの視線が、ぬらりとクライグのほうへ移る。
「驚くのも無理はない。なにせ、人間には気の遠くなるほど昔の話だからな」
オルフは視線を正面に戻した。
「まあともあれ、精霊と我ら王の協力の甲斐あって、すべてを喰らうものは、地中深くに封印され、長い眠りについた、というわけだ」
オルフが話し終えると、あたりがしんとした。それぞれに思うことがあるのだろう。
「精霊とはいったい……」
そう小さくつぶやいたクライグの言葉を、オルフは耳ざとく聞いていた。
「精霊というのは、いま話した通り、元々すべてを喰らうものを封じるために創られたものだ。精霊はやつらの結晶を糧とし、我らの力の根源――この星の生命力とでも言おうか――を生み出す。そして、精霊の住む領域は、精霊と精霊の生み出す力を、やつらの魔の手から守るために、我らが隔離した別次元の空間だ」
自問のつもりで口にした言葉に、まさか答えてもらえると思っていなかったクライグは、少々あっけ取られながら、その話を聞いていた。
「……それにしても」
次に口を開いたのはアントスだった。
「なぜいまごろになって、封印が解けたのでしょうか?」
オルフは指で顎をさすりながら、低くうなった。
「それを、我も考えていた。本来ならそう簡単には解けぬようになっているはずだ。まあ、しっかりと守っていてくれていればの話だが」
「守って……ということは、守っている存在がいたというわけですか?」
アントスが問いかける。
すると、オルフは目を見開き、つかの間言葉を失った。そして、落胆したように伏し目がちにつぶやいた。
「そうか……その伝承までも、忘却の彼方へ行ってしまったということか」
時の流れというものは、恐ろしいものだ。どれだけ緻密に積み上げられたものであっても、膨大な時がそれを風化させてしまうのだ。それはときに、そうなってしまったほうが、かえって良いこともあるのだろうが、今度の場合は、深刻な問題の種となっている可能性は大いにある。
気を取り直して、オルフは口を開いた。
「……封印を守っていたのは、そなたら精霊と、人間だ」
それを聞いて、一同がざわつく。
(……やはりこれが、問題の種であったか)
オルフは再び落胆した。だが、そうとなれば、その話もせねばなるまい。
「封印は完全なものではない。あれは封印と言っても、やつらの力を奪い続けることで、増殖を抑え込んでいるというだけに過ぎない。――そして、その役目を担っているのが、人間と精霊というわけだ」
「ちょっと待ってください。その仕組みはわかりましたが、それならば、なぜ人間が絡んでくるのです? その、すべてを喰らうものを抑え込む力があるのは精霊だけなのでは?」
クライグがオルフに食らいつく。それはレアンも気になっていたことだ。
オルフは一瞬の迷いもなく答えた。
「なに、簡単なことだ。精霊は領域にあって、人はやつらと同様、こちら側――精霊を前にしてこの表現は相応しくはないか――にあるからだ」
簡単なことと言われても、クライグにはなんのことやらよくわからなかった。
その顔色を見取って、オルフは言葉を継いだ。
「領域というのは、先ほども説明した通り、精霊と我らの力の根源を守るために、この世界から隔離した領域。ゆえに精霊も、そしてやつらも、互いに干渉することは容易ではない。もちろん容易ではないというだけで、不可能ではないのだが、やつらの増殖を抑えるには力不足だ。そこで必要になってくるのは、領域とこちら側とのつながりだ。そして、そのつながりを作り出すのが精霊の儀式なのだ」
「それで人が必要になるということですね。ですが、なぜ人である必要が?」
「意思があり、知性があって、広くこの世界に分布している生き物である必要があったからだ。そんな生き物は、人間以外存在しないだろう?」
クライグはうなずいた。
「まあ確かに、そんな生き物は人間くらいでしょうね。それにしても――」
クライグは考え事でもするように、唇に手を当てた。
「精霊の儀式が封印の要なのだとしたら、なぜ封印が解けたのでしょうか。わたしたち人間が精霊の儀式を怠ったか、それとも……」
その先は口にできなかった。
私たちの力が及ばなかったとしか言いようがない。なんて、情けないというか、認めがたくて、とてもじゃないが口に出すことはできなかった。
だが、飲み込んだ言葉は、また違った形でオルフの口から放たれた。
「封印は解けているわけではない。そうさなあ、封印の力が弱まっているというほうが正しいだろうな。人間が精霊の儀式を怠るなんて思っておらん。だが――精霊の儀式の効力が弱まっているというのは十分に考えられる。なにか心当たりはないか? 我は器なくしては自我を持てぬ存在。ゆえに人の世でなにが起こっているのか、具体的には把握できぬのだ」
「心当たりと言いますと――」
アントスがうつむき加減につぶやく。
「我らを見られる人間、我らの声が届く人間が随分と減りましたなあ。昔はもっと人と精霊は近い存在だったのですが。それもこれも、人が精霊を戦に利用するようになってからかもしれませんな」
アントスはちらりとクライグのほうを見た。
「先の内戦で人も精霊も多く命を落としたと聞きます。そのせいで人と精霊の間に深い溝ができたのも事実ですし、実際精霊と交流できる人間は減っています……ですが、本当にそれだけなのでしょうか? それが原因なのであれば、他国でも精霊を武器にするなどできないほどに、人と精霊は、もっと別たれた関係になっていると思います。少なくとも、隣国のフラナスベルクではこの国とは比べ物にならないほどに、人と精霊は近い関係にありました。その国は、広大な国土を持つ軍事国家です」
オルフは困ったように微笑み、顎をさすった。
「人と精霊の関係がそのようになっていたとはな。ふむ、まあ原因に関しては、ここで議論するのは止そう。少し調べてみる必要がありそうだ。それに……いや、いまは止そう」
オルフはあからさまに言葉を濁した。それから、ぱっと表情を改めて言った。
「それよりもいまは、やつらを再び封印することを考えなければな」
「精霊の儀式をするということでしょうか?」
「いや、事態はすでにその段階にはない。我が直接手を下す他ないだろう」
アントスがありがたそうに手を合わせた。
「おお、なんともありがたきお言葉。しかしながら、我らの不手際で王の手を煩わせてしまうとは、なんとお詫びいたしたら良いか、言葉もありません」
それについてはクライグも同感だった。人間だって不手際をしでかしてきたのだ。
にんまりとあたたかな笑みをオルフは浮かべた。
「よいよい、そなたらを責めるつもりはない。もとより完全な存在などこの世にはないのだ。それに、これは我の役目でもあるのだ……だが、おまえたちにも力を貸してもらうぞ」
アントスは深くうなずいた。
「王の命じることのならば、我らはいかなることでも致しましょう」
ゆっくりと、オルフは視線をクライグのほうに移した。
「……わたしたちも、協力は惜しみません」
クライグが言うと、オルフは安心したように笑った。
「うむ、助かる。詳しいことはあとで話そう。それよりも――」
オルフはレアンの心の中に語りかける。
――そなたと二人で話したいことがある。
――おれもあんたに聞きたいことがある。
――ならば早速……。
――ちょっと待て。場所を変えたい。
――ここなら誰にも話を聞かれることはないぞ。
――頼む。
――わかった。
――それと、そろそろ身体を返せ。身体を使われるのは、まだ慣れん。
――いやいや、すまんな。器を得たのは久々での、そこまで気が回らなんだ。急に感覚が戻る。無理に動いてはならんよ。
瞬間、煙が立つように、オルフはレアンの身体から抜けていった。力なく、地面に膝をつく。
入れ替わりに、レアンは身体が重くなっていくのを感じた。心ノ臓の鼓動を感じ、血の流れを全身に感じる。――ああ、戻った。
不意に立ちあがろうとしてふらついた。それを支えようとしたプリムラと、手が触れた。
「も、申し訳ありません。つい……」
弾かれるように、プリムラは手をどかした。体勢を立て直して、レアンは言った。
「おれだ。気にするな。少し外す。一人にしてくれ」
レアンはひとりで森の奥へ去っていく。プリムラは、なにも言わなかった。
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