五 地の王




 突然の地鳴りと突風に、アルベルトは慌てて振り返った。

 そして、我が目を疑った――自らの手で、確かに焼き払ったはずの焼け野原が、奥のほうから、みるみると蘇えっていくのだ。それも、焼きはらう前よりも、さらに生き生きと伸びやかな具合に。

 自分の身体が、大きく揺さぶられていることも忘れ、アルベルトはその様を茫然と眺めていた。

 地鳴りがおさまっても、アルベルトは、蘇えった森の奥から、目を離すことができなかった。森の奥に、得体の知れない大きな気配を感じていたからだ。

「……ぼくたち、とんでもないものを目覚めさせちゃったかもしれない……」

 背後で、声をひそめながら、ピューポがつぶやく。

 だが、アルベルトはそれには返答しなかった。いや、できなかった。そのような心の余裕は、彼の心の中から、すでになくなっていたのだ。

(これはなんだ? なにが起こっているのだ⁉)

 アイシャはなにをしている? 火の手に巻き込まないように、また邪魔が入らないよう監視するために、離れたところで待機しているはずだ。それなのに現にこうして、邪魔になり得るものが現れている。となれば、すでにやられてしまっているということなのだろうか。

 額に、つうっと汗が流れ落ちる。それを素早くぬぐい、アルベルトは、長剣をしっかりと正面に構えた。

 大きな気配は、ゆっくりと、こちらに近づいてきている。

 姿は見えない。だが、その存在を確かに感じることができる。

 一歩、また一歩進むたびに、森が、木々がざわめく。まるで主を出迎える家臣らのように。そして、薬草のような、苦々とした新緑の香りが、むうっと濃くなっていく。

 アルベルトは、半ば石像にでもなってしまったかの如く身を固め、なおも長剣を構えたまま、じっと立ち尽くしている。単に恐怖とも言えない緊張感が、全身を、強く引きしめているのだ。

 ざわめく森の音の中に、ざくっ、ざくっという、茂みを掻き分けるような音がし始めたのをとらえると、いよいよ強い緊張が走った。

 その音は、徐々に、徐々に近づいてきて、ついに、木陰からその姿を現した。

 ――先ほどの少年だった。小柄な体躯がゆらりと動く。

 もっと恐ろしいものが現れると踏んでいたアルベルトは、思わず拍子抜けしてしまって、一瞬、気が緩んだ。

 だが、すぐにまた、ぎゅっと気を引き締めた。少年の目を見てしまったからだ。

 深い、深い緑色に輝く瞳が、まっすぐ、アルベルトを貫いていた。淡く光っているようにさえ見えるその瞳からは、なんの感情も読めてこない。かといって、空虚な感じがするわけでもなく、ただ複雑な色を見せているだけだった。

 少年は、迷いのない落ち着いた足取りで、アルベルトに向かって歩いてくる。その様は、先ほど対峙していたときの健気で青臭い少年の印象とは、まったく異なっていた。姿かたちこそ、ただの小柄な少年だが、中には寡黙な老人が潜んでいるというような、そういった種類の落ち着きと余裕が、いまの少年にはあった。

 少年が地面を踏むたび、その地面が、草と花で色鮮やかに生い茂る。まったくもって異様で、そして、神秘的な光景だった。

 少年はある程度の距離まで来ると、ぴたりと足を止めた。

「なにゆえ――」

 耳に聞こえたのは、聞き覚えのない音の言葉だった。だが、心の中に直接語りかけるといった具合に言葉は反響し、自然と直感的にそういう意味なのだと理解することができた。

「なにゆえ、この森を、を焼こうとするか?」

 少年は、落ち着いた口調でそう訊ねた。だがその語気には、わずかながら怒気がこもっているようにも思われた。

「……愚問だな。この森を巣食っている精霊石を消し去るためだ」

 我の身、という言葉に引っ掛かりを感じながらも、アルベルトは答えた。だが答えた後で、言葉が伝わるかどうかが気にかかった。向こうの言葉が直感的にわかるとはいえ、相手は異国人なのである。

 だがその懸念も無駄に終わった。少年はアルベルトの後ろに広がる精霊石の森を一瞬見て、またアルベルトを見返した。

「あれを精霊石と呼んでいるのか……」

 それはほとんど独り言のようだった。

「まあ良い、だが、森はまだ生きているのだぞ?」

 今度はアルベルトへ向けられた言葉のようだ。

「ああなってしまえば、こうするしかない。仕方がないだろう」

 アルベルトは毅然と答えた。

「焼かずとも、おさめる方法はある」

 少年はきっぱりと言いきった。

 だが、そんな方法などあるはずがないと、アルベルトは思った。いままで、幾度となく精霊石に侵された村や土地を見てきた。そのいずれもが、焼かれるなり、やむなく土地を捨てるなりとしてきたのである。それ以外の処置がなされたことなど聞いたことはない。

「……そんな方法なんてあるはずがない」

 わずかに声を震わせながら、アルベルトは言った。

「ある」

 少年はまた、はっきりと言った。

 アルベルトはなんだがはねつけられたような気分になった。無知であることを言い渡された気もして、怒りも湧いてきた。そして、ふと気になった。ここまで自信を持って言える少年は何者なのだろうかと。

「おまえは何者だ?」

 アルベルトが訊ねると、少年は、ふむと微笑んだ。

「こういうときは、聞いたほうが先に名乗るというのが筋というものだろうが、よかろう……我は地の王オルフ、大地を統べる者よ」

 威厳に満ちたその口調で、少年――オルフは、名乗りをあげた。

 王という言葉が、頭の中でさまよった。なにを言っているのか、まったく理解できなかった。頭がそれ拒んでいた。アルベルトは言葉を失った。

「……人の子よ。そなたに告ぐ。これ以上、この森に危害を加えることをやめ、直ちにこの森を去れ。さもなくば、地の眷属でもある人間であろうとも、容赦はせぬぞ」

 静かだが、強い語気を込めて、オルフは言った。

「……それは、できない」

 受けた命令を、ここで放棄することはできない。ここで退けば、あとでどういう目に合うかということは、骨身に沁みてわかっているのだ。逃げるという選択肢はない。

 アルベルトは身構えた。戦わなければならない。そう直感した。

 それを見て、オルフは少し残念そうな顔をした。

「そうか……ならばやむえんな」

 そう言って、オルフは手のひらで中空を下から上へと扇いだ。

 すると、オルフの周りから、無数の岩柱が次々と生えあがってきた。岩柱は腕のように細長く、先がこぶしのように膨らんでいる。

 今度は手のひらを振りおろした。

 その合図とともに、岩柱がうねり、入り乱れながら、次々とアルベルトに向かって降りそそいだ。

 アルベルトはそれを、後ろに下がりつつ、左右に動きながらかわしたが、無数に降りそそぐ岩のこぶしのすべてをかわしきることができず、右肩に一発、左脇腹に一発の打撃を喰らった。

 息をすると、打たれたところがつきりと痛む。肋骨を何本かやったかもしれない。肩のほうは幸いにも、折れたり、外れたりはしていないようだ。それでも、動かすたびに、芯に響く鈍い痛みがあった。

 だが、ひるんでもいられなかった。すぐに次の攻撃が来るはずだ。

 アルベルトは最大限の力を込めて、オルフに向けて炎を放った。

 激しく踊る炎が、猛威を振るってオルフに吹きつける。だが手ごたえはない。

 炎が消え去ると、そこには半球状の土壁があった。ちょうど人一人が入れるくらいの大きさ。表面は焦げついて煤まみれだが、まったく形は崩れていなく、きれいな半球を保っていた。

 その様に一瞬見とれてしまったときに隙ができた。束になったツルが一瞬のうちに全身に絡みつき、組み伏せられてしまった。さらに、先を刃物のようにとがらせた岩柱が、何本か伸びてきて、紙一重のところで突きつけられた。

 捕縛される最中、後ろで、ひゃあという情けない声がかすかに聞こえた。声色から察するに、ピューポもまた捕まったのだろう。

 アルベルトの眼前に影が落ちる――オルフに見下ろされていたのだ。

 アルベルトは歯を食いしばった。力の差がありすぎる。地の王と名乗ったのは伊達ではなかったのだ。

「さて、これでおぬしとの力の差は、明らかになったわけだが、これで手を引いてくれるかな? こちらとしても無用な殺生は避けたいのだが」

 穏やかな響きが頭上に降り注ぐ。

「…………」

 答えることはできなかった。手を引くことはできない。逃げることもできない。板挟みだった。

 沈黙を貫いていると、オルフはふいっとその場を離れ、ピューポの前で中腰になり、まじまじとピューポのこと見始めた。

 興味深そうな表情で、ひとしきりピューポのことを観察すると、オルフは、感嘆のため息をついた。

「ほう、なるほど、これはまったくもって、うまくできておるな。……だが、本物とは言えんな。肉体が領域に存在していない。知らぬ間に、人間が精霊を作ろうとしていたとはな、驚きだ」

 言って、オルフは再びアルベルトの前に戻った。

「して、そろそろ降参してはくれないかね。さっきも言ったが、こちらも無駄な殺しはしたくはない。黙っていたって、なにも変わらないのだぞ」

「…………」

 アルベルトはなおも沈黙を続けた。

 いくらもがいたところで、簡単に解けるような拘束ではない。それに、たとえ逃れられたとしてもあとがなかった。

 あきらめかけた、そのときだった。どこからか口笛の高い音が鳴り響いた。

 それはアイシャからの伝令だった。

 口笛は、高く間延びして響き、最後に複雑な音程を刻んだ。

 それが意味するところは、アルベルトにとって意外なことだった。

 ――戦略的撤退。

 ここで増殖していた精霊石は、帝国からひそかに持ち出された特別なものだった。それゆえに他国の手に渡らないように、抹消するのが役目だった。――それを放棄してまでも、撤退させるというの考えられなかった。

 どういう風の吹き回しだろうかとも思ったが、深く考えるのはやめた。いまの状況を見れば、好都合なのだ。

「……わかった。あなたの言う通り、ここは手を引くことにしよう。それで、この場は見逃してくれるのだな?」

 アルベルトが訊ねると、オルフは安堵したように微笑んだ。

「無論だ。賢明な判断に感謝する」

 そう言って、オルフは指を鳴らした。

 すると、瞬く間に全身に絡んだツルがほどけて、自由の身になった。ピューポもまた、拘束を解かれたようである。

 そしてすぐさま、身を整えて、まだ多く精霊石が広がる森とは反対の、蘇えった森のほうへ、ピューポを連れ立って入っていった。

 途中、追い打ちをかけられまいかと、何度も後ろを振り返ったが、何度見ても、オルフはこちらの姿をただ眺めているだけで、ついに姿が見えなくなるまで、まったくそういうそぶりは見せなかった。

 しばらくして、アイシャと合流し、アルベルトはそこでやっと、生きた心地がした。


      *


 アルベルトが森の奥に去っていく様子を、レアンは、自らの身体のすぐ後ろから、俯瞰するように眺めていた。

 先ほど、背中を押されたような感覚がしてからずっと、体の自由が奪われ、魂が浮遊したような状態にあった。

 去っていくアルベルトを引きとめようと、何度も声をあげたが、それが音となって届くことはなく、ただむなしく心の中で反響するだけだった。

 叫び続けていると、不意にあたりの景色が、真っ白になった。

 なにが起こったのかと、あたりをきょろきょろしていると、正面に、老木のような老人がいることに気がついた。

 木の幹のように肌がひび割れ、宝玉にも似た、まるで作り物のような目をはめた老人は、レアンを見ると、にっこりと微笑んだ。

「すまんのう。ちと、そなたの身体を使わせてもらった。なにぶん、器がなければ、ああいうことはできんのでな。……我は、地の王オルフだ。先ほどの話は聞いていたであろう?」

 そう言われて、レアンは、そういえば、大地を統べる者だとかなんとかだったなと、先ほどのやり取りを思い返してみた。そして、重要なことに気がついた。そこにいる、オルフと名乗る老人こそ、あの男を逃がした張本人だということに。

 烈火のごとく怒り狂って、レアンは、オルフに詰め寄った。

 全体的に樹木を思わせるその老人は、しかし、レアンの剣幕にはまったく動じなかった。

「なんであの男を逃がした! あの男は、おれの集落を襲って、母さん殺したんだぞ! この森を焼き払ったんだぞ!」

 レアンは、つかみかかりそうな勢いで、オルフを怒鳴りつけた。

 オルフの顔から、微笑みがさっと消えた。冷たい緑色の瞳が、レアンの顔を捉えている。

「人間は地の眷属であり、と、精霊と、世界の維持のために、必要不可欠だ。たった一人の命とはいえ、粗末にはできん」

「どういう意味だ?」

「それは、またいずれ話そう。それよりも、そなたは故郷と、母のために、復讐がしたいのだろう? それならば、我の力など使わず、自分の手で復讐をしたほうがよかろう。そのほうが、そなたの本意に沿うと思うのだが……」

 そう言われると、冷や水をかけられたように、怒りがさっと引いた。確かに、オルフの言うとおりである。あの場で、あの男がやられていれば、自分の手で復讐をしたとは言えないのである。

「確かに、その通りだ。すまない」

 レアンが落ち着きを取り戻したのを見ると、オルフは笑みを取り戻した。

「よいよい。……して、次はに侵された森をどうにかせねばならんのだが……」

 オルフは、言いながら、と言うときだけ、明らかに忌々し気に顔をゆがめ、吐き出すように言った。

 それから、不意に振り返った。

「……今回はここまでのようだな。初めてにしては、よく持ったほうだ」

 言った途端、オルフの姿が、ぼんやりと薄れて消えた。と同時に、真っ白だった風景が、波紋を打つように、現実の風景に移り変わった。

 失われていた体感覚が蘇ってきて、ずっしりと重い倦怠感に襲われた。

 レアンはたまらず、崩れるように地面に膝をついた。ひどいめまいがする。鉛のように頭が重たい。

 そのまま、地面に突っ伏すように、レアンは気絶した。

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