四 傀儡
レアンがアルサムの館を訪れた、その日の夜のことだった。夜の深い闇に包まれた貴族街の中で、ひときわまぶしく、朱く煌々と輝く館があった。
アルサムは、館の中の騒がしさで、目を覚ました。
怪訝そうに目をこすりながら、あたりを見まわす。やけに、窓の外が明るい気がする。それだけではなく、かすかに、焦げ臭いにおいもしている……
――それが、煙の匂いなのだと気づいた瞬間、アルサムの意識は、一気に明瞭になった。
勢いよく寝台から飛び起き、隣の執務室へ出る。
するとそこには、薄ら笑みを浮かべる、あの女の姿があった。片手に持つ手燭の、ゆらゆらとした光が、女の顔に不気味な影を映し出している。
アルサムの姿に気づくと、女は薄っすらとアルサムに微笑みかけた。
「あら、起きてしまいましたか」
妙に落ち着き払った口調で、女がつぶやく。
「これは何事だ! 何が起きている⁉」
アルサムは早口でたずねた。
「私が、下の階に火を放ちました。もうじきここにも、火の手が回ってくるでしょう」
なおも変わらぬ女の口調に、アルサムの怒りが爆発した。
「……何だと? 貴様ッ‼ 裏切ったのか!」
アルサムの怒号に、全く動じていないかのように、女の余裕な表情は崩れない。
そのことが、アルサムの怒りをさらに駆り立てた。
(なめた真似を……)
ただでは済まさぬ! そう思ったときには、机の上の短剣を手にしていた。そして、それを女に向けて投げつけようとしたときだった。
突然、目の前に黒い影が現れ、それを見た途端に、全身が金縛りにあったように硬直した。
現れた影の正体は、一つ目のコウモリのような生き物だった。その不気味な生き物は、たった一つしかない大きな瞳で、アルサムの視線をじっと捉えて放さなかった。アルサムもまた、その瞳から逃れることができなかった。全身に走る筋肉のこわばりが、眼球を動かすことはおろか、瞬きをすることさえ、許してはくれなかったのだ。
女が、ゆっくりとした足取りで、アルサムへ近づいていく。その手には、小刀が握られている。
(……殺される)
そう思った瞬間、冷や汗がどっと出た。心ノ臓が飛び出そうなくらい、鼓動が激しくなる。
しかし、逃げ出そうにも、身体は主の言うことを聞いてはくれない。声を上げようにも、顎も、口も、声帯も、固く閉ざされている。
そうこうしているうちに、女はアルサムの背後に回り、首に腕を回すようにして小刀を首筋に押し当てた。
まだ切られてもいないというのに、刀身が当たる皮膚が、ピリピリと痛む。
「気分はどう?」
女の吐息が、耳に当たる。寒気がする。
「…………」
「ああ、そうか。口が動かないのね」
気づいて、女は一つ目コウモリに目配せをすると、指で宙を切った。すると、いままで石のようにかっちり固まっていた口が、顎が外れてしまいそうな勢いで開いた。
だがつかの間、言葉が出なかった。口の拘束は解けたが、他はまだぴったりと動かない。下手に喋れば、すぐに殺されてしまうだろう。
「……どうして、こんなことを」
「もう、潮時が来てしまったからですよ。帝国から厄介な呪術師もやってきていますし、何よりも、もっと厄介なものが現れてしまったのでね」
「何だと言うのだ。その厄介なものとは」
「あなたには関係のないことです……さて、もうあまり時間はありませんし、覚悟はできましたか?」
廊下へ続く扉の隙間から、少しずつ煙が漏れてきている。ごうごうと、炎が巻き上がる音が、かすかに聞こえる。火の手がすぐそこまで迫ってきていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。私は、おまえのことを、誰にも話したりはしない。だから、命だけは、見逃してくれないだろうか」
すがりつくような声で、アルサムは必死に嘆願した。
それを聞いて女は、短くクスリと笑い、それから静かに言った。
「無駄ですよ。彼らは、あなたに息がある限り、あなたの意志に関係なく、必要な情報を、必要なだけ聞き出すことができるのですから。それに用がなくなれば、どうせあなたは始末される。あなたの人生は、私と出会って、取引に乗ってしまった時点で、もう終わっていたのです」
「……欲におぼれた結果がこれか」
アルサムは絶望に打ちひしがれた。動かないはずの首が、がくりと落ちたような気がした。
「さあ、もう悠長にお話ししている時間はありません。申し訳ないですが、もうお別れの時間です」
女はそう言うと、小型を持つ手に力を込めた。
「ちょ、ま……」
アルサムの制止の言葉を聞き届けることもなく、女はアルサムの首を深く切り裂いた。
アルサムは、勢いよく鮮血を吹き出しながら、糸が切れた人形のように倒れこんだ。大量に飛び散った血が、あたりの床を、赤く染めていく。
「さようなら、アルサム殿。あなたは、実に扱いやすい人間でした。感謝していますよ」
女は、まだ息があり、身体を、ぴくり、ぴくりと震わせているアルサムを一瞥すると、そう一言つぶやき、その場をあとにした。
*
女はアルサムの館を去ったあと、隣国のクレオナートへ続く街道を歩いていた。
あたりはすっかり白んできていて、朝日が遥か彼方の地平線を、くっきりと映し出している。
そこは小高い丘の、林の中を走る道だった。赤や黄色に色づいた木の葉が、カサカサと、葉を鳴らしている。
しばらく、女は何事もないように、ただ歩いていたが、ふと何かに気がついたように道をそれ、林の中へ入った。
林の中を進んでいると、ほんのわずかだが、何者かがあとをつけてきているような足音が聞こえた。足音の感じからして、数は四、五人。姿は見えない。かなり注意深く忍び寄ってきているようだ。普通の人なら、小動物か、風の音だろうとしか思えないような微音しかしない。
だが女には、それが人の気配だと、しっかりわかった。彼らがこの辺りで接触してくることは、ある程度想定していたからだ。
女は追ってくる者たちに気を止めず、林の中を歩き続け、やがて、急に足を止めると、微笑みながら口を開いた。
「もういいですよ。隠れていないで、出てきてください」
女が声を掛けると、あたりの木陰から黒装束の人影が、数人一斉に現れて、一定の間隔を保ちながら、女を取り囲むような形になった。
「やれやれ、気づかれていましたか。恐ろしく勘の鋭い女人だ。私たち、これでもそれなりに腕利きの密偵なのですがね」
そう言いながら、女の背後の藪から現れたのはハンスだった。
「いえいえ、あなた方の腕は、私も買っているのですよ。ただ、こちらも用があるというのに、なかなか接触してこないので、どうしたものかなと気がかりだったものですから」
女は振り返りもせずに答えた。
ハンスはそれを聞くと、ほう、と面白そうに微笑んだ。
「帝国から秘密を持ち逃げした逃亡犯が、私たちに用があると? なかなか面白いことを言うじゃないですか……まあいいでしょう。ですが、その前に、そんな奇特な逃亡犯の面を拝ませてもらいましょうか」
ハンスは、ゆっくりと女の方へ、近づいていく。
女は、束の間黙っていたが、不意にハンスのほうへ振り返った。
女の顔がはっきり見えてくると、ハンスは一瞬動揺して、まだ女のもとに辿り着かないうちに、足が止まってしまった。
動揺を隠すように、ハンスは短く鼻で笑った。
「……その姿。何の冗談ですか」
「冗談? 何のことかしら?」
女は、明らかに質問の意図を理解している素振りで、とぼけるように首をひねった。
「とぼけるのもいい加減にしてください。その姿は、数年前に結晶ノ病で亡くなった、帝都の研究員の物ですよね?」
「あら、そうだったかしら? でもこの子、たいして重役でもない、ただの研究員だったはずだけれど、よく覚えているのね」
ハンスは得意げに笑った。
「私は物覚えがいいんですよ。良すぎるくらいにね。それにしても、死人に化けるなんて、いくら知り合いのいない異国だからといって、油断しすぎなのでは?」
そうハンスは言いながらも、女の見事すぎるまでの化け姿に、内心驚いていた。普通、どんなにうまく他人に化けたとしても、見る人が見れば、まるでただ薄皮をまとっているかのように、内側の人間が透けて見えてくるものだ。ましてや、卓越した呪術師ならば一目見て気づけないはずはないのだ。それなのにこの女の場合は、顔を見て、死人に化けているのだと気づくまで、化けていることにすら気づけないほどの完璧な化け方だった。いや、顔を見た後でさえも、本人と見間違ってしまうほどだ。
だが、一つの違和感はあった。それは、女の内に垣間見える呪術師特有の底知れぬ雰囲気だ。
この女が姿を借りている、研究員だった女は、見た目こそよく人目を惹くほどの美貌の持ち主であったが、それ以外はそこらの人と何ら変わりがなかった。そんな女の姿をした者が、あたかも経験を積んできた呪術師のような雰囲気を醸し出しているのが、なんともうまく噛み合わないのだ。
(……それにしても)
これほどの力の持ち主が、なぜいまのいままで、自分の目に留まらなかったのだろうか。それが不思議でならなかった。
(だが、あの男なら、あるいは……)
いや、ありえない。確かに呪術師としての実力は、あの男のほうが遥かに上だ。だがしかし、呪術師としての奴は、とうの昔にもう死んでいるはずだ。いまさら目の前に現れるなんてことは、あってはならない。
そんなハンスの内心の動揺など、お構いなしに、女は言葉を返した。
「油断なんてしてないわ。……だって私、死人にしか化けられないんですもの。仕方ないでしょ。でも、こういうのが、あなたたちの好みなんでしょう?」
見せつけるように、女は胸に手を当てた。
ハンスはそれには目もくれず、冷ややかな笑みを浮かべた。
「何をふざけたことを。死人にしか化けられないなんて、そんなのは聞いたことがありません」
すねたように、女は口をすぼめた。
「見た目のことは何も言ってくれないのね。……まあいいけど。でも私が言っていることは、本当よ。どうせ何を言っても信じてはくれないでしょうけれど。
さて、無駄話もあれだし、そろそろ本題に入ってもいいかしら」
深々とかぶった頭巾の裏で、ハンスは眉をひそめた。
「勝手に話を進めないでください」
だが女は、かまわずに言葉を継いだ。
「ものは相談なのだけどね。このままここで、私のこと、見逃してくれないかしら?」
予想の遥か斜め上を行く女の要求に、ハンスは思わず、吹き出してしまいそうになった。
「馬鹿なことを言わないでください。私は、皇帝からの命で、あなたを連れ戻すように言われているのですよ。そんなことできるわけがないでしょう」
「もちろん。ただでとは言いません」
女は懐に手を入れて、何かを取り出して見せた。
「これが何だか。わかるかしら?」
それは、拳ほどの大きさの、暗緑色の宝石だった。
馬鹿にされているのかと思って、ハンスは鼻で笑った。
「何って。精霊石でしょう? それが何だというのです」
女が静かにうなずく。
「そう、これは精霊石……でも、ただの精霊石じゃない。これはね。
この言葉で、ハンスは女の企みが少し読めてきた。
(……なるほど。それを交渉材料にしようというわけか)
精霊石の中でも、精霊を贄として精製されたものは、特別な価値がある。人工精霊を生み出す際の、核として用いられるからだ。
だがこの精霊石を生成するには、実に多くの精霊を犠牲にしなければならなく、その数を確保するというのは、そう容易いことではない。そのため、現在帝国の研究所が所有しているのは、主に帝国とのかかわりの深い、二つの精霊――
女が交渉材料に出した
「確かに、それは大変貴重なものではありますね。でも、それだけなら、別にあなたを見逃す必要なんてありません。精霊石と共に、あなたを連れ帰るまでです」
女は肩をすくめた。
「何も、これだけで見逃してもらおうなんて気はないわ。これはほんの前払い。ゆくゆくは、すべての精霊石を帝国に差し出すつもりよ。どう? 悪い話ではないでしょう? それに、もしこの提案に乗ってくれるというなら、良い情報を一つ教えてあげる。それでもまだ信用できないと言うなら、私に首輪を着けてくれてもいいわよ。これだけ条件を付ければ、あとはあなたの口で、どうとでも丸め込めるんじゃない?」
女の言うことは一理ある。メルビス帝国では、呪術師が非常に強い権力を持つ。貴人はみな、謀略や暗殺から逃れるために、それぞれにお抱えの呪術師を持つ。そして、その呪術師の能力の優劣が、そのまま出世にもつながると言われている。
それは皇帝とて変わらない。皇帝もまた、呪術師の助力助言によって、いまの地位を手にしているからだ。そのため、たとえ皇帝といえども、呪術師の言葉を早々簡単には無下にはできない。
もし女の提案が実現するならば、それは帝国にとって、またとない利益につながる。そして、それを進言したのが自分となれば、さらに高い地位を得られるだろう。
(……うまいことを言うものだ。だが――)
女の言うことを、疑いもせずに鵜呑みするほど、ハンスも甘くなない。すぐに見敗れたとはいえ、一度はこちらの目を欺いた女だ。こちらに都合の良いこと言っておきながら、腹の内では、何を考えているか、わかったものではない。もっと確実に、女を利用する方法が必要だ。
「いいでしょう。あなたの提案に乗らせてもらいます。ただし、いくつか条件を追加しましょう。一つは、精霊石を一つ精製するたびに、逐一報告し、こちらが送る使者に差し出すこと。そして、もう一つ、定期的にそちらの状況を報告すること」
一つずつ指を立てながら、ハンスは説明した。
「わかったわ。それで手を打ちましょう」
さして迷った様子もなく、女はあっさりと承諾した。
「ああそれと、虚偽の報告、精霊石の隠匿などをしようとしても無駄ですよ。これから施す
それを聞いても、女は少しも動揺した様子もなく、くすりと笑った。
「あら、用心深いのね」
「当然です」
「そんなに心配しなくたって、逃げたりしないのに。だって、お互いの利害は一致しているのだから」
「
「本当よ。まあいいけど。さて――」
言いながら、女は上衣を少し緩めて、指で首元を大きく開いた。
「――その呪印とやら、早く付けてくれない?」
女は、挑発的にハンスを見つめた。
それにはかまわずに、ハンスは女に歩み寄り、慣れた手つきで、女の首筋に呪印を刻み付けた。
乱れた衣を直し、女が
「これは、どういうことです? まさか、賄賂ですか?」
女は笑いながら、首を横に振った。
「いえいえ、それはあなたたちが放った刺客が持っていたものです。あなたたちが取り逃がした少年が持っていたので、回収しておきました。不用心ですよ」
苦々しげにハンスは口をゆがめた。
「そうですね。もっと徹底的に気を付けさねば」
「そうそう、良い情報を教えてあげるって言ったじゃない?」
「ええ」
そういえばそんなことを言っていたな、と思いながら、ハンスは静かにうなずいた。
「例の
「ええ、それがどうしたのです」
「早く撤退させたほうがいいわよ。じゃないと最悪、あの
「何を言い出すかと思えば、そんな馬鹿な。あれは――」
「あなたたちが取り逃がした森の民の坊やが、いまあの場所へ向かっている――」
女はハンスの言葉を遮った。
「あの坊やはね。王の器。それも、いまにも目覚めてしまいそうなくらい、熟したね」
ハンスは眉根を寄せた。まるで聞き覚えのない言葉だ。
「王の器? 何ですそれは?」
「王――彼らは自らのことを、そう呼称している。人間風に言うなら、彼らは、神、天災、万物の源、そしてこの大地そのものともいえる。要するに、そういう偉大なものの一つが、あの坊やを器にして、目覚めようとしているというわけ。そし――」
そこまで言いかけて、女は口を閉ざし、顔から笑みが消えた。
ハンスの肩越しに、遠く――林の奥よりも、さらに遠くを眺めているように、目をわずかに細めている……その様子をハンスが確認した、そのときだった。
ざわざわと、波のような音立てながら、何かが、とてつもない速さでせまってくるのを、ハンスは背中で感じた。
それは突風だった。振り向く間もなく、ハンスは一瞬の風に身体を大きくあおられ、風は、草木を波立たせながら、先へ、先へと速度を変えず流れていく。
風になびいた外套が落ち着きを取り戻す前に、今度は地面が、大きく揺れ始めた。立っていられないほどの大きな地震ではないが、まるで巨人が大きな槌で地面の底を叩きあげているような、全身に響く揺れだった。それはまるで、腹の底でうごめく、静かな怒りのようだ。その怒りの中に、ハンスは圧倒的な力の存在を感じ、揺れが収まるまで、ただ体を揺さぶられ続けることしかできなかった。
そう長い時間も経たないうちに、地震はぴたりと収まった。
林の中に、元の静けさが、少しずつ戻っていく。
だが、ハンスの中には、恐怖とも高揚とも言えぬ胸のざわめきが、まだ残っていた。
女はまだ、険しい顔つきで、遠くの一点を静かに見つめていたが、鼻で笑うように微笑み、また余裕そうな元の笑みを取り戻した。
「……そう。怒りね。我が身を穢されて、怒っているのね」
ハンスがいることを忘れているかのように、女は静かにつぶやいた。
「……それにしても嫌なものね。噂をすればなんとやら、とは言うけれど、本当に目覚めてしまうなんてね」
深くため息をつき、女は思い出したように、鋭い眼光をハンスに飛ばした。
「あなたも感じたでしょう? あれが王の力。といっても、さっきのは、ほんの目覚めの武者震い程度。本気を出せば、あんなものではないわ」
女の言葉で、ハンスは徐々に現実感を取り戻していった。
「ええ。正直私もなめていました。でも、本当に、そのような存在の仕業なのでしょうか。さっきのはただの偶然じゃ……」
いささか願望を含めて、ハンスはそう言った。あれほどの力を持った存在が実在しているということを、まだ認めたくなかったのだ。
「まあ気持ちはわからなくはないですが、これはまぎれもない事実です。私は彼らに一度会ったことがあります。間違いないでしょう。
なんにせよ。彼らは必ず帝国の敵になる。彼らは精霊石を、我が身を穢すものとして憎んでいますから。人工精霊だって、彼らからすればただの異物でしかない」
ハンスは静かに唸った。
「そんなものに、どう太刀打ちするというのです?」
女はにやりと、口角を吊りあげた。
「そのために私は、各種精霊の精霊石を集めているの。精霊石は彼らにしてみれば、その身を病ませる癌。より強力な精霊石をもってすれば、彼らの力を確実に奪うことができる」
「……なるほど。それで利害は一致している、ということですか」
ハンスは納得したようにうなずいた。
「そう。やっとわかってくれたかしら?」
「まあ、あなたの目的がまだはっきりはしませんけどね」
「あら、欲しがりね。じゃあ少しだけ教えてあげる」
女は、怪しい笑みを浮かべて、上目遣いでハンスを見つめた。
「私はね。王の力が欲しいの。この世を統べる王の力をね」
「そんな世迷いごと……」
「あら、案外そうでもないのよ。精霊石の本質は、奪い取りこむことにある。ま、相手は王ですから、そう易々とは奪わせてはくれないだろうけど、理論上は可能はず。
ねえ。良かったらだけど、一緒に世界の王になってみない? あなた、頭が切れそうだし、なにぶん私一人では、簡単には成し遂げられない計画なので、なるべく心強い協力者がいたほうが私も安心なのですが」
女の壮大すぎる野望に、ハンスはつい吹き出すように笑ってしまった。
「それこそ、世迷いごとでしょう……まあ、今後のあなたの行動次第では、検討してもいいでしょう」
「いい返事を待ってるわ。ところで、もう行ってもいいかしら?」
「ええ、かまいませんよ」
「ありがとう……ああ、そうそう。最後に一つだけ。私がこの国で関わった研究施設の連中は処分しておいたから、あとで確認したければすればいいわ。でも、なるべくこの国からは早く出ることね。王と遭遇することがあれば、厄介ですし」
承知しました、というハンスの返事を聞き届けると、女はハンスの真横を通り過ぎるようにして、また元の林道のほうへと戻っていった。
女は元の道へたどり着くと、東の地平線へ目をやった。遠く、はるか遠くを見つめながら、言い残すように女はつぶやいた。
「……オルフ。残念だけれど、私はまだあなたに会うわけにはいかないわ。でも大丈夫。きっとまた会えるわ。そのときも私とあなたは敵同士。楽しみにしてるわ」
女は向き直り、足早に歩き始めた。女の首筋には、細く黒い線で描かれた、記号のようなものが、びっしりと重なり合うように、刻みつけられていた。
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