三 覚醒



 レアンはあっという間にラグダムの市街を抜け、ユーラムの方面に続くグラム街道に出ていた。

 日は傾きつつあり、あたりがやけにぼんやりと白んでいる。ときどき、青白い光がぱちっ、ぱちっと飛んでいることから、知らぬ間にに入っていたのだ、ということはわかった。

 どうやら、昼間の領域はやたらに明るいようだった。

「ばあちゃんは無事なのか?」

 前を向いて走りながら、レアンは後ろに続くフィーに訊ねる。

「うん! ぼくとしるふのおねえちゃんのちからで、ちゃんとうけとめたからね!」

 誇らしげに、フィーが言った。

 ひとまずレアンは胸をなでおろした。フィーの言っている「しるふのおねえちゃん」というのは、先ほどの話に出てきた、風の精シルフを連れた男の連れといったところだろう。その男が何者なのか、多少気がかかりではあったのだが、フィーの話はところどころ大事なところが抜けていることが多く、またフィー自身が状況をあまり理解できてないようで、その正体はとうとうわからなかった。まあなんにせよ、その男には感謝しなければならない。おかげで、トリシィが無事でいてくれたのだから。

 領域の景色は、実際に見てきた景色とは若干異なっていた。

 まず木が多い。このあたりは、もとはただの平野で、田畑が続いているはずだ。だがいまはその面影はどこにもなく、森とも林とも言えぬほどの密集具合で、気がまばらに生えているだけだった。また地面の起伏も、なんとなくではあるが、少し多くなったような気もする。

 そしてまた、奇妙なことがあった。足もとに見える地面だ。足の裏には確かに、石畳で舗装された街道の硬く冷たい感触があるのだが、目に見えているのは、すねほどの丈の草原くさはらだったのである。そこには道の影など、どこにもなかった。

 そこでふと、ごく自然な流れとして思い浮かんだのは、この風景はもしかすると、この土地の原風景なのではという、漠然とした想念だった。確かにこの風景には、身を焦がすほどに探し求めた仇敵への気持ちを、つかの間鈍らせてしまうような、どこか懐かしさがあった。

 だがレアンは足を止めなかった。それどころか、さらに足を速めるのだった。あの男の凶行を止めなければならない。許すわけにはいかない。逃がすわけにはいかなかった。

 空が、幕でもはりかえるかのように、いきなり暗くなった。領域での夜は突然やってきた。

 ほどなくして、大粒の雨が降り始め、地面がぬちゃぬちゃとぬかるみ始めた。ぬかるんだ地面が、足取りを重くした。雨粒は、こちらではこぶし大の光の球に見えた。光の球は、ゆっくりと上から下へと落ちていき、顔や体にあたると、わずかに跳ね返ってははじけ、細かい光の粒となって、風にさらわれていく。

 どれだけ走ったのか、まったく見当はつかなかったが、いつの間にかウラム河の岸辺にたどり着いていた。知らず知らずのうちに、ユーラムを通り過ぎてしまっていたのだ。

 ウラム河は、雨のせいで水かさが増し、ごうごうとけたたましい音をたてている。だが見た目には、淡く光る美しい流れにしか見えなかった。とても、危険そうな流れの川には見えない。

 まずは橋を渡りたかった。だが、こちら側にいるせいで、レアンの目には、タリム大橋の姿は映っていない。

 足の感覚を頼りに、岸辺から足をのばして、橋の床版を探す。

 慎重に、宙を足で叩いていくと、あるところで、こつこつと硬い木の感触がした。

 恐る恐る、その、橋のあるはずの場所へ足を踏み出していく。不思議な感覚だった。透明な板の下に、河の流れがある。相変わらず、美しい流れではあったが、急流がもたらす轟音と、落ちればひとたまりもないほどの濁流であることを踏まえると、神秘的なものに魅入られる高揚感と、死の淵を渡るような恐怖心が同居するような心地がした。

 緊張の糸を張りつめながら、ときどきわずかに揺れるタリム大橋を、一歩ずつ着実に歩んでいくと、やっとの思いで対岸までたどり着けた。そこまで長く空けていたわけではないが、森の民の森にはいると、久しぶりに故郷に帰ってきた心地がして、一瞬の安心感があった。

 レアンはフィーに目配せをした。

「ここからは案内を頼む」

「うん。わかったよぅ。でも……」

 うなずいてから、フィーはためらったように口ごもんだ。

「ほんとに、あのおっかないひとのとこにいくの?」

 フィーが心配そうに、レアンの顔を見つめる。

「ああ。もちろんだ。そのために、ここまで旅をしてきたんだ」

 レアンはフィーに微笑みかけた。

「でも、ほんとにおっかないんだよ。ひがね、いきなりぼうっとなってね。それで、それで……」

 それでもなお心配するフィーに、今度はプリムラが肩に手をかけた。フィーがプリムラのほうを振りむく。

「大丈夫。わたしが守る。ね?」

 プリムラは、レアンを見あげた。

「ああ。危険な戦いになるとは思うけど、よろしく頼む」

 幾分申し訳なさそうに、レアンはプリムラのほうを見た。

 その視線を跳ね飛ばすように、プリムラは笑い返した。

「馬鹿ね。危険なんて承知の上で、君と契約したのよ。いまさら申し訳なさそうにしないでよね。わたしだって命が懸かっているんだから、死ぬ気で支えるわよ」

 勝気なその笑顔を見て、レアンもまた笑った。

 二人のやり取りをフィーは不思議そうに見つめていたが、やがて、あきらめたように息をついた。

「わかったよぅ。どうしてもいくっていうんだね。でも、ほんとうにきをつけてね。これでおわかれなんて、ぼくいやだよ」

 泣き出してしまいそうな調子のフィーに、

「ええ」

「ああ」

 と二人は力強く返事をした。

「先へ進もう――」

 レアンは行く先へと向き直って、フィーに言った。

 フィーは、うんと返事をして、レアンの前へ進み出た。

 それからの道は、見慣れた領域内の風景だった。だがいよいよもって、変に胸が高鳴ってきた。とうとうここまで来た。日にちにすれば長くはなかったが、随分と長くかかったような気がする。

 やつと戦うにはまだまだ未熟で、やり残したことしかなかった。だが、こうしてめぐり合わせてしまったからには、挑まずにはいられなかったのだ。

 これはいわば義戦なのだ――これ以上なにも奪わせたりはしないという、強い意志を秘めた大義に基づく。だがその裏には、およそ大義とは呼べぬ、醜い憎悪と怒りが潜んでいた。そして、そのさらに奥には、密かに怯える自分と、戦いを厭う自分が、小さくたたずんでいるのだった。だが、そんな自分の存在など、いまのレアンの眼中には入っていなかった。ただ、抱いた大義のために、強く、目指す場所まで駆けていくだけだった。

 気づけば雨は小降りになり、やがてぴったりと止んだ。湿気をたっぷりと含んだ空気が湯気となり、淡白い光となって身体をなでる。

「もうすぐだよ。あっちのほう――」

 フィーは立ち止まり、さらに奥のほうを指さした。

 レアンはその先を、心したように見据えた。

「……わかった。案内ありがとう」

 フィーに焦点を合わせて言った。

「じゃあ、ここで別れよう。……ばあちゃんによろしくな」

「……うん。わかったよ」

 しょんぼりとフィーがうつむく。

 フィーの目線の高さに合わせるように、レアンは前かがみになった。それから、フィーの頭をぽんとなで、優しく微笑みかけた。安心させてやりたくて、努めて笑顔を作ったつもりだが、うまくできたかはわからなかった。

「大丈夫だ。絶対戻ってくる」

 確証のない嘘だ。どう考えても無事に帰れる保証なんてない。だがそれを気取られぬように、いかにも確信があるというふうに言った。

「うん! ぜったいだよ!」

 少しは元気を取り戻したようだ。

 フィーが去っていくと、レアンは立ち上がり、再びフィーが指さしたほうを見た。

「いよいよだな」

 レアンが感慨深げに言う。

「ええ」

 プリムラが短く答えた。

 先に進んでいくと、二つのぼんやりとした人影が見えてきた。途端、あたりの景色が急に明瞭になった。空が白んでいる。

 すぐに二人の姿をはっきりと捉えることができた。二人の奥に恐ろしい光景が広がっていた。それはまさに結晶の森だった。すべてが作りもののように、無機質な感じがした。

 二人のほうへ焦点を戻す。一人は小柄な女で、黒装束に身を包んでいる。見覚えはない。もう一人は――間違いなく、集落を襲ったあの男だった。

 レアンは男だけをまっすぐとにらみつけた。自分でも、どんな顔をしているかわからないほどに、顔の力が入っていた。

 男は、初めこそいきなり現れたレアンの姿に驚いたような表情をしていたが、いまはもう、澄ましたように涼しい顔をしている。それがレアンにはいけ好かなかった。

 黒装束の女が身じろぎをする。

 それを男が軽く手をあげて制した。それから、なにかを言うと、一人歩み出てきた。遅れて、赤いトカゲのような生き物が、小さな羽を必死にはばたかせ、あとに続く。

 二人の間に、もはや言葉は必要なかった。

 男が剣を抜き、レアンもまた短剣を抜いた。

 短剣を正面に構え、男と対峙する。初めて男に挑みかかったときとは、比べ物にならない緊張感がそこにはあった。

 張りつめた空気の中で、レアンは男の動きに全神経を集中させた。

 男は余裕そうに、しかし油断のない感じで、剣を下に構えている。

 二人の距離は、じりじりとつまっていった。

 最初に動いたのはレアンだった。

 レアンは素早く踏み込み、男の懐に入ろうとした。

 だが、男もほぼ同時に踏み出してきて、あっという間に長剣の間合いに入った。

 横一閃の斬撃が飛んでくる。後ろに飛ぶように、レアンは斬撃をかわした。

 かわしざまに、男の周りの地面に意識を集中し、取り囲むように一斉に草をのばした。

 だが男はいたって冷静だった。身体を大きく回しながら剣を振り、草が伸び切る前にその茎を刈り取って、後ろに飛びのいた。

 途端、さっきまで男がいた地面から、大きな火柱があがった。レアンが出した草はことごとく火柱に飲み込まれた。

 一瞬火柱にあっけ取られていると、火柱の中から火の球が飛び出てきた。火の球は、火柱の炎を吸収し、大きさも、速さも、どんどんと増して飛んでくる。

 防がねば――そう思った瞬間、目の前に身体の何倍もある土壁が、せりあがるように現れた。プリムラだ。

 火球が土壁に衝突して、爆音とともにあたりに土煙が広がる。レアンは、土壁の脇から飛び出し、気配を頼りに男に向かって煙の中を全力疾走した。

 男の姿を見つけた。レアンは跳びかかるように、短剣を思いっきり振りかざした。

 男はレアンの姿を発見するのが遅れたせいで、中途半端な構えで、レアンの斬撃を受け止める。だがそのせいで、男の剣は簡単に振り落とされ、男は後ろによろめいた。

 隙ができた。レアンはさらに攻撃を仕掛けるため、前へ踏み込んでいく。

 だがそのとき、正面に炎の壁が現れた。レアンは、踏み込む勢いを殺しきれず、もろにその壁に突っ込んでしまった。

 うめきをあげながら、レアンははじかれるように、後ろに飛んで、前のめりに地面ひざをついた。炎の壁はすぐに消え、身体にも燃え移らなかったが、それが大きな隙になった。

 男がぬらっと現れた。男を見あげる間もなく、レアンは後頭部に鈍い衝撃を受けて、倒れた。

(また駄目だったか……)

 悔しさに歯を食いしばりながら、遠のく意識の中でそう思った。

「……命を無駄にするな」

 高いところから、男の声が聞こえる。お前がそれを言うのか。レアンは立ち上がろうと、身体に力を込めたが、まったく力が入らなかった。そして、そのまま落ちるように気を失った。




――……つい…………あ……つい……あつい――

 次に目を覚ましたのは、そんな断末魔が、頭の中でガンガンとなり始めてからだった。

 地面にうつぶせに倒れていた。頭の後ろに鈍い痛みを感じる。わずかに吐き気もした。突っ伏したまま、横目であたりを見まわすと、傍らにプリムラが寄り添うように座っていた。

 レアンが目を覚ましたのに気がつくと、プリムラはレアンを見て、一瞬ほっとしたように顔をほころばせたが、すぐに険しく顔を引きしめた。

「よかった目を覚ましたのね。命拾いしたわね」

 早口に言って、プリムラはまた、顔をあげた。

「……ひどい有り様よ。彼ら、どういうつもりなのかしら?」

 プリムラは茫然としている。頭だけを動かして、レアンもプリムラが見ているほうを見た。

 プリムラの言う通り、それはひどい有り様だった。

 一面が焼け野原になっていた。木々は焼け焦げ、途中でおれていたり、根元から倒れていたりする。真っ黒く炭化した幹から、ぷすぷすと煙が細くたなびいている。地面は、灰と炭とが混ざって、一面まだらな鈍色に染まっている。

 遠くに男の姿が見える。男の向かう先に、結晶の森がある。その瞬間、結晶の森に火の手があがった。

 途端、レアンは先ほどの断末魔とともに、炎に包まれたような激しい熱さに襲われた。思わず体を丸めて、激しく喘いだ。

 プリムラがなにかを言っている。だが、レアンの耳にはその声は届いていなかった。

 頭がぐらぐらする。かすむ目で結晶の森のほうを見る。

 視界が揺れている。黒いもやが晴れ、ぐにゃにゃと、いびつに歪んだ木々が見える――違う、これはではない。目をしばたかせると、現実の森が見えてくる。炎にまかれ、結晶がとけるように消えていく。

 それらの光景が、交互に、また重なり合うように、ぐわんぐわんと視界を行ったり来たりした。

(あいつは――)

 森を救おうとしているのか。確かにやつは結晶化した森を焼け野原にしてしまった。だが、結晶が消えてなくなったのもまた確かだ。とはいえ――

 このやり方は解せない。さっきから頭に鳴り響くこの断末魔、全身で感じるこの焼けるような感覚は、確実に森が発しているものなのだ。

 ならば、このままやりたいようにさせるわけにはいかない。そう、森は生きているのだ。たとえ、あんな姿になってしまったとしても。

 森は――大地は、命のよりどころなのだ。結晶という病を取り除くためとはいえ、焼き尽くしてしまえば、そのよりどころを失ってしまうのだ。

 全身を襲う感覚に耐えながら、レアンは、渾身の力を込めて起きあがった。そして、大きく息を吸って叫んだ。

「やめろ――――ッ」

 叫び声が大きくこだまする。そのとき、レアンはふっと、大きな手に背中を押される感覚を感じ、意識が前に押し出されるような感じがした。そして代わりに、とても大きな、身体の中に入り込んでくるのを全身で感じた。

 その瞬間、レアンは身体の制御を失った。意識が宙を舞い、自らの背中を見下ろしていた。

 レアンの身体を中心として、風が四方八方に広がり、大地が大きく揺れ始める。

 風が地面をなでると、草が大いに茂り、色とりどりの花が咲き乱れた。風が木々に吹きつけると、木々はのびのびと枝葉を広げた。風が焼けた野原を渡ると、灰の下から草花が芽吹き、焼け焦げた木々はぐいぐいと伸びあがり枝葉をはやした。

 風が渡ると、草木は歓喜し、焼けただれた森はよみがえったのだ。

 は、静かに立ちあがり、大きく尊大な足取りで男のもとへ歩いていく。

 その背中に、プリムラは声をかけることができなかった。レアンが急に、遠く、畏れ多い存在になってしまった気がして、気安く声をかけることができなかったのだ。

 まるで老練の騎士たるまなざしで、は、静かに、そして、その奥にわずかに怒りをひそめながら、男のいるほうをにらみつけていた。

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