五 契約
(……やっぱり、領域の中に入れるのね)
レアンの手を引きながら、少女は、改めて驚いた。領域の中では、時の流れやものの理がまったく異なる。いま、こうして一緒に走っていられるということが、レアンが領域にいるというなによりの証拠だった。
少女はちらりと、レアンに目をやった。
(呆けているわね……)
無理もない。母親を目の前で殺された上に、自分まで殺されかけたのだから……。つかんでいる腕に、力がこもっていない。無理やり足を動かしているのだろう。
「なんで……おれを助けた」
細く低い声で、レアンが言った。
「……お母様に、あなたのことを頼まれたからよ」
少し間をおいて、振り返らずに、少女は答えた。
「母さん……そうか。母さんは、死んだんだ……」
その声は、ほとんど吐息のようなものだった。
そのまま、しばらく走っていると、レアンが急に足をとめた。あまりに突然のことで、少女は前につんのめって、転びそうになった。
なにごとかと振り返ると、あわてた様子で、レアンは体をまさぐったり、あたりの地面を見まわしていた。なにかを探しているようだ。
「どうしたの?」
努めて優しい口調で、少女はたずねた。レアンは、ひどく青ざめた顔をしている。
「母さんの短剣がないんだ! まさか、集落に……!」
引き返そうとするレアンを、少女は服をつかんで必死に止めた。レアンが、恐ろしい形相でにらんでくる。
「安心して。あなたの短剣なら、ほら、ここに……」
そう言いながら、懐にしまっていた短剣を差し出した。先ほど、レアンが蹴り飛ばされたときに落としたのを、鞘と一緒に拾っておいたのだった。
それを見ると、レアンは、もぎ取るように短剣を奪い、地面に膝をつきながらそれを抱きしめた。
母の形見を胸に抱き、肩を震わせるその姿を見ていると、少女はひどくいたたまれない気持ちになった。
そっとレアンの肩に手を触れた。
「それ、お母様の形見でしょう。大事にしなさい」
「ああ……短剣、拾ってくれて、ありがとう……。取り乱したりして悪かった」
レアンが顔を上げると、少女は苦笑した。
「いいのよ……そんなこと。少しは、落ち着いた?」
こくりとうなずいて、レアンは立ち上がった。
「なあ、いまはどこに向かっているんだ?」
「父様の――このあたりの
そうは言ったが、正直なところ、本当に追ってくるとは思っていなかった。あの青年は、こちらの姿が見えていないようだったからだ。だからこそレアンを救い出すことができたのだ。そして、あの
「……彼ら?」
レアンが首を傾げた。
「ええ。あの青年と、
「あいつ、何者なんだろうな……」
「さあ。わたしは人の世のことはよくわからないから……でも、彼らが集落を襲ったのは、間違いないと思う」
「あいつ……!」
ぎりっと、奥歯を噛みしめた。
「先を、急ぎましょう」
レアンは、無言でうなずいた。
*
少女のあとについて、輝く森の中を進んでいると、所々黒くよどんでいる場所があるのに、レアンは気がついた。こうも明るいと、かえってその暗がりは目立って見える。
あれは最近になって、あちこちで現れ始めたもので、
もう一度、黒い
(あの感じどこかで……)
そう思ったが、はっきりとはわからなかった。
そうこうしているうちに、少し開けた草地に出た。中央には大樹が一本生えていて、草地を覆うように、その枝をのびのびと広げている。その大樹もまた、青白い光を放ち、輝く木の実を宿しているが、ほかとは違った、どこか神聖なスッとした強い精気を、あたり一帯に振りまいていた。
(森の中に、こんな場所があったなんて……)
知らなかった。生まれてからずっとこの森で暮らしてきたが、こんなに大きな木を見たことがない。それにここはどこなのだろう。そんなに長く移動した気はしないが、この風景は、たとえ木が光っていなかったとしても、全く見たことのないものだった。
そんなレアンの心の声が聞こえたかのように、少女は口を開いた。
「ここは、人間の足だと、丸一日以上歩いてもたどり着けないところよ。いまは見えないけれど、すぐ近くに大きな山脈があるわ」
「山脈……まさか、ノースウェルデン山脈か⁉」
「人間たちは、そう呼んでいるようね」
「いつのまに、そんなところまで……」
なんとなく、北に進んでいるのはわかっていた。だが、まさかそんなところまで来ているとは思わなかった。そのことが不思議で、少女にたずねようとしたがやめた。
突然、少女が大樹に向かって、片膝をついて、深々と頭を下げ始めたからだ。
大樹の根元を見た。すると、銀色の毛むくじゃらがひょこっと出てくるのが見えた。出てきたのは、褐色の肌に立派なひげを蓄えた老人だった。そして、やはり背は低い――
「父様。ただいま戻りました」
少女は、短くはっきりと言った。
「よいよい。顔を上げよ」
少女が顔を上げたのを見ると、老人はレアンに目を移した。
「ここに人間が来ようとはな……。わしはここいらの
「おれはカルヴァ氏族のレアンだ」
その名を聞くと、アントスは納得したような顔になった。
「カルヴァ……なるほど、それは災難じゃったな。やつらは、ひとところに集まって山火事を起こすこともあるからの」
アントスはレアンの身なりを見ながら言った。
「父様。そのことなのですが、ただの災難ということではないのです」
「なんだ。話してみよ」
少女は、はいとうなずくと、これまでの経緯を話し始めた。途中、耳をふさぎたくなるような話もあったが、少女はかまわずに語り続けた。
話を聞き終えると、アントスは低くうなりながら、立派なあご髭をさすった。
「……なるほど、先ほど聞こえた森の悲鳴はそういうことだったか。それにしても、まだ精霊の力で、そんなことをしているとは……なんと愚かな」
そしてそのまま、アントスは黙ってしまった。少女もなにも言わない。
(あいつのあれは、精霊の力……ならばおれにもあの力があれば……)
母の仇を討てるかもしれない。そこまで考えてひらめいた。だったらいまここで頼んでみればいい。目の前には、精霊が二人もいるのだから。
意を決して、レアンは口を開いた。
「なあ、一つお願いがあるんだが」
「ふむ。なにかな?」
面白がるように、アントスが目をギラっとさせる。
「おれに精霊の力を貸してほしい」
それを聞くと、アントスは厳しい表情になった。
「精霊と契約をしたいと? なにゆえ力を求める?」
「そんなの母さん仇を討つために決まっている」
レアンは即答した。
「ならば力を貸すことはできんな」
「なんでだよ!」
「わが一族では、争いのためには契約はさせんと決めている」
なにも言い返す言葉がなく、レアンは口をつぐんだ。向こうにその気がなければ、こちらにはどうすることもできない。そうあきらめかけたとき、少女が口を開いた。
「わたし、契約してもいいわよ」
想定外の言葉に、アントスとレアンは少女のほうを見た。
「おまえなにを言い出すんだ!」
「いいのか?」
少女は眉を上げて微笑んだ。
「だってきみ、精霊の力がなくても、また戦うつもりでしょ?」
「ああ、もちろんだ」
「なら、あなたを守るために、わたしは契約するわ」
「なぜそこまでして、人の子に肩入れするのだ?」
厳しい表情のまま、アントスがたずねると、少女はまっすぐ父の目を見つめた。
「……わたしは、この子の母親の呼びかけに応えられなかったことをずっと悔いていました。だから、最後の願いくらいは叶えてあげたい。そう思ったのです」
「それは別に、おまえの責ではないであろう」
「確かに今回のことは、誰が悪いわけでもないですし、わたしが償うことでもないです。ですから、これはわたしの勝手です。わたしがしたいと思うからする、ただそれだけのことです」
アントスは口調を強めた。
「おまえの勝手で、争いを起こすつもりか。また、人も精霊もたくさん死ぬことになるぞ」
少女は静かに首を振った。
「そんなことにはならないし、わたしがさせません」
父と娘は、つかの間にらみ合ったが、やがてアントスはため息をついた。
「……言っても引かぬ、という感じだな。わしが契約に立ち会おう」
「ありがとうございます」
「……じゃが、少年よ。
「それは、どういう……」
「そのうちわかる」
それ以上、アントスはそのことについて、なにも言わなかった。
契約の儀式に必要だからと、アントスに母の短剣を預けると、レアンと少女は大樹の前で向かい合った。
「なあ、おまえ。後悔はしないのか?」
「後悔なんて過去のことにするものよ。この先の後悔なんて、わたしは知らない」
「そう言うもんか?」
「きみこそ、わたしの命を背負う覚悟はできてる? 精霊との契約は、領域にいるわたしと、人の世にいるあなたを同調させるということ。すなわち、わたしとあなたは運命共同体、どちらかが死ねば、もう片方も死ぬということよ」
挑みかかるように少女が笑う。
「上等だ。でも、おまえ早死にするかもな」
レアンも、同じように笑い返した。
「勘違いしないで。別にあなたと心中するつもりはないわ。全力で守りきって見せるわ」
そろそろ始めるぞと言って、二人の前にアントスが鞘をつけたままの短剣をかかげる。そして、そのままなにかの言葉を、小声で口ずさんだ。
その瞬間、二人を中心に、ふわっと広がっていくように、その場の気配が変わった。青白かった光が、黄色がかったあたたかな光になった。どこか懐かしいような、そんな感じがする。
少女が手を差し出す。わけもわからず、その手を取ったが、それだけで次にどうすればいいのかがわかった――舞うのだ。考えるより前に、体が動いていた。不思議な感覚だ。舞いなんて、一度もやったことがないのに、自然と体が動く。
レアンがぐるっと外側に回る。少女も同じく回って、二人の位置が入れかわかった。振りほどけないように、少女の手を強く握る。ぬくもりと共に想いが流れてくるような感じがした。
低く跳ねた。少女もまた、同じく跳ねる。意思が一つになる、心が一つになる、体が一つになる、とても心地が良い。
今度はもっと高く跳んでみた。体が軽い。羽根になったみたいだ。
花の香りが体を包む。甘い、甘い香り。頭がとろける、体がとろける、気持ちがよい。
その香りに酔いしれながら、大樹の周りを、三度ほど踊りまわると、アントスの前で、ぴたりと足が止まった。
「さあ、互いの名をかわすのだ」
短剣が二人の手の上に重なる。二人は目を合わせた。
「おれはレアン」
「わたしはプリムラ。よろしくね。レアン」
「ああ、よろしくな。プリムラ……」
ここで空気がはじけた。周囲の気配が元に戻り、光が青白くなった。
まだ頭がぼんやりする。頭を覚ますように振っていると、プリムラがくすくすと笑った。
「ねえ。いつまで手握ってるの? もう離していいわよ」
この言葉で、一気に頭がはっきりした。慌てて手を放す。
「わっ、悪い……」
「悪いってことはないけれど……まあ、ほっとしたわ。わたしたち、相性は悪くなさそうよ」
「そうなのか?」
少し不満そうに、アントスが鼻を鳴らす。
「少々
そう言うと、アントスが短剣を差し出してきたので、レアンはそれを受け取った。
「よい短剣だな。大切にするといい」
うなずいて、短剣をまじまじと見た。植物の弦を模した護拳がついていて、鍔には木の根のような模様が入っている。そして、鞘には木の全体像を示すような複雑な模様が彫り込まれていて、上部には大小さまざまな玉が六つもはめ込まれていた。
幼いころからいつも見ていたので、さして気にもしていなかったが、こうしてみてみると、かなり上等なものなのだということがわかる。母はこれを母の父からもらったといっていたが、祖父は財のある者なのだろう。
二人は挨拶を済ませると、森のほうへ足を向けた。そのとき、ぽつり、ぽつりと水滴が顔にあたった。
「雨か。
安堵したように、アントスがつぶやいた。
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