四 炎の中で



 焼け焦げて真っ黒になった地面を見て、青年は軽く舌打ちをした。

(……逃げられたか)

 確実に仕留めたと思った。爆発で粉々になった土のかたまりが、あちらこちらに飛び散っている。

地の精ノームの力か……)

 そうでなければ、あれは防げないだろう。だがそれでも……さっきの炎を防いだとはにわかには信じられなかった。

 普段でさえ手を焼いているこの力が、今日はさらに言うことを聞かない。どうしても力が入りすぎて、思ったよりも大きな炎が出てしまうのだ。

 人を焼くつもりの力加減だった。そうだとしても、こんなときに放った炎を防ぐとは、あの少年――いや、地の精ノームはたいしたものだ、と思わず感心してしまった。

「さっきのやつを追うぞ。どっちに行ったかわかるか」

 顔を見られたとなると、逃がすわけにはいかない。声をかけると、赤い鱗にコウモリのような翼を二枚背中にはやした、トカゲのような生き物――火の精サラマンダーが、青年の肩のあたりでぴくりとうごめいた。

「どっちに行ったかはわかる。だけど追うことはできないよ。アル……」

 子供のような口ぶりで、火の精サラマンダーはつぶやいた。

「なんだと?」

 怪訝けげんそうに青年は眉を寄せて、火の精サラマンダーのほうに顔を向けた。

 その表情に、一瞬おびえるようにビクッと体を震わせたが、火の精サラマンダーは答えた。

「彼らは精霊たちが住まう領域へ逃げていったからだよ」

「精霊たちが住まう領域だと? だったらなぜ少年のほうはそこへ逃げられる?」

「それは……ぼくにもわからない」

「おまえなら追えるのか?」

 青年がたずねると、悲しそうに火の精サラマンダーはうつむいた。

「いじわるなこと言わないでよね、アル。ぼくにも無理だよ。だってぼくは、本物じゃないから……」

 そうか、と言うと、青年はそのまま黙り込んでしまった。

 青年が連れているこの火の精サラマンダーは、人の手によって生み出された精霊――人工精霊である。人工精霊は、精霊を見ることができない者でも、その姿を視認し、力を利用するために開発されたものだ。

 この火の精サラマンダーは、個体ごとに割り当てられた記号文字をそのまま発音して、名をピューポという。ピューポは人語を流ちょうに話し、感情もとても豊かだ。そして、その力は小さな村なら簡単に火の海にできてしまうほどのものだ。そのため、数多く生み出された人工精霊の中でも最高傑作だと称されていて、それほどに本物の精霊に近いものだった。

 だが、その強大すぎる力がゆえに、人々に恐れられ、ピューポが生まれて数年の間、最初の数人を除いて、誰もピューポのあるじに志願する者がいなかった。ピューポの炎は最悪の場合、己の主すらも焼き尽くす。人工精霊との契約は、本物の精霊との契約ほど強固なものではないからだ。

 そして不幸なことに、最初のころに契約を試みたものは、そのことごとくがピューポの炎によって焼け死んだ。運よく契約できた者も、その力を行使するさなかで、同じく焼け死んだ。

 普通の人工精霊ならこうはならなかった。せいぜい軽い火傷をするくらいだ。これはピューポの力の強さゆえに起きた事故だった。それがピューポが人々に恐れられるゆえんだ。

 そんな悲惨な事故の数年後、ピューポに臆することなく、主に志願してきたのが、この青年――アルベルトだった。

  アルベルトは何事もなくピューポと契約することができた。だがその力を満足に使えるようになるまでは、実に一年ほどの月日を要した。その間の修練はとても過酷なものであった。幾度となく負傷し、死にかけたこともあった。そうした修練を経て、力を使いこなすコツをつかんだのだ。

 ピューポの炎は、強めようと思わなくても十分に強い。だから、力を込めてしまうと制御できないほどの炎が出てしまうのだ。重要なのは、いかに力を込めるかということではなく、いかに力を込めないかということなのである。そのことに気づいてからは、ピューポの炎で怪我をすることは少なくなった。

 だがいくらコツをつかんだといっても、戦いの中ではどうしても力が入ってしまうものである。そのため戦闘中にひやりとしたことが何度もある。そういった意味では、まだこの力を完全に使いこなせるとは言えなかった。戦闘中いかに冷静さを保てるか、という大きな課題が残っているのだ。

 そのピューポでさえ、精霊の領域とやらには入れないとは……所詮まがい物はまがい物なのだと、アルベルトは思った。

 うつぶせに横たわっている女の亡骸に、アルベルトは目を落とした。まだ三十代かそこらに見える女だった。

 近くにひざまずき、女の体を抱え起こしてやった。まだわずかに体温が残っているようで、胸の下あたりから、下腹部のあたりまでななめに走っている傷口から血が滴っている。少しやつれているが、なかなかの美人顔だった。

(この女は……)

 あの少年の母親だったのだろう。そう思うと、ひどく複雑な気持ちになった。

 女の体を整然と仰向けに寝かせて、開き切った目を閉じてやると、アルベルトは深く息をついた。

(……さて)

 これからどうしたものか、ピューポでも追えないとなると……と思案しているときだった。背後にいやな気配がして、すぐにそのほうへ振り返った。向こう側から、ひざ下までを覆う漆黒の外套がいとうをまとった長身の男が、炎のないところを器用に選びながら歩いてくる。外套についている頭巾を深々とかぶっていて、顔はよく見えなかったが、かすかに見える口もとはどこか涼しげな感じがした。

 いやなやつが来たものだと、その男を見て、アルベルトは思ったが、努めて表情に出さないようにした。

 その男――ハンスは、アルベルトと共にこの国へ訪れた密偵の一人で、一応アルベルトの上官でもある。もっともハンスという名は偽名である。素顔も外套や幻術でいつも隠しているので、一度も見たことがない。それは彼が、皇帝直属の呪術師――闇の精霊使いであるがゆえのことだった。呪術を使う者は、自らも他者からの呪いを受けぬように、己の素性を直属の上官以外には話さない――本名、生まれた日、場所、家族の名すらも……

 首を左右に振って、ハンスは炎を見た。

「それにしても、ひどい有り様ですねえ。どうしたのです? あなたらしくない」

「わからない。なぜか今日は力をうまく制御できなくてな」

 アルベルトがありのままに話すと、ハンスの口角がかすかにつり上がった。

「へえ。力が制御できない……ですか」

 口角がさらにつり上がる。

「まあ無理もないでしょう。ここには大量の精霊石があったようですからね」

 精霊石――精霊の力を強めることができる結晶、人の体を侵す忌々しいもの。そんなものがここにもあったのか、とアルベルトは眉をひそめた。

「でも、力が制御できないほど精霊石の力を得ていたわりには、村を取り囲んでいた炎の壁が、一部ほころんでいたようですが――」

「…………」

「――まさか、わざと、ではないですよね?」

「なにが言いたい?」

 アルベルトが低くそう言うと、ハンスは肩をすくめた。

「いえ、あなたのことですから、村人を逃がそうと、逃げ道を作ったのでは、と思ったのです。おかげで何人かは逃げ出せたようですしね」

「…………」

「おや? 図星ですか? まったく、困った人ですねえ……まあ、今回は不問としましょう。逃げられた者には、まだ使い道がありますしね。それに、おかげで面白いものが見れましたしね」

「面白いものだと?」

 アルベルトは眉をぎゅっと寄せた。

「ええ。必死に逃げ出していく人の中、一人、いや一人と一体、中へと入っていった少年と精霊のことですよ」

 さっきの少年と地の精ノームのことか、とアルベルトは思った。

「いやあ、あれは実に滑稽でした。飛んで火にいる夏の虫、とはよく言ったものですね。まあ、季節は秋ですけど」

 ハンスは喜々として語った。

 いやな言い方をするものだと、アルベルトが思ったときだった。それまでのニタニタとした口もとの表情が消え、ハンスは急に真顔になった。

「ところで、あなた。その愚かな虫どもを取り逃がしましたね」

 そっちが本題か、とアルベルトはほぞを噛んだ。

「ああ、とどめを刺し損ねた」

「手抜かりをしたのですか?」

「いや、本気でやった。最後の最後で地の精ノームに邪魔された」

地の精ノームですか……すると、その少年は精霊使いだったのですねえ」

「いや、そんな感じはしなかったが」

「ふうん。で、追わなかったのですか?」

「追わなかったわけじゃない。追えなかったんだ」

「と、言いますと?」

「精霊の領域とやらに逃げ込んだそうだ」

「まさか、そんなことが……」

「……本当だ」

 しばらく沈黙して、ハンスは鼻で笑った。

「まあ、信じることにしましょう。でもこの話が本当だとすると、あなたとそこの偽物では、どうしようもないのはうなずけます」

 再びニタニタと微笑むハンスの顔を、ピューポはきっとにらみつけた。アルベルトも歯を食いしばって怒りをこらえている。

 そんな様子など目に入っていないかのように、変わらぬ口調で、ハンスは言葉を継いだ。

「しかし、精霊の領域へ逃げ込むとは……その少年、何者なのでしょうね?」

「それはわからないが、あなたなら、追えるだろうか?」

「このわたしに、あなたの尻拭いをしろと? そりゃ、不可能ではないですがね。わたしが連れている闇の精シェイドは本物ですから。ですが、いま闇の精シェイドを使いにやってしまったら、わたしたちが撤退するとき困ります。ですから、少年は放っておきます。森を抜けたら、刺客を放ちましょう」

 そう言うと、ハンスは踵を返した。

「さて、これ以上の長居は無用ですから、そろそろ撤退しましょう。アルベルト君、炎の壁を消してください」

 ああ、と言ってアルベルトは右手を上げて、さっと宙をつかむようにこぶしを握った。

 その様子を横目でちらっと確認すると、ハンスはくすっと微笑んで歩き始めた。アルベルトもそのあとについていこうと、歩き始めたときだ。急になにかを思い出したようにハンスが足を止めた。

「あ、そうそう。今回のことですが、次は……わかっていますよね?」

 顔だけをわずかにこちらに向けながら、ハンスは言った。

「……わかっている」

 言ってから、アルベルトは目を細めた。

 それを聞くと、ハンスはまた歩き始めた。

 集落の入り口にさしかかると、アルベルトは足を止めて、集落へ向き直った。しばらく、炎に崩れ行く光景を、遠い目で眺めていたが、おもむろに剣を地面に突き立てると、深々と頭を下げた。

 ひとしきり、そうやって頭を下げ続けていたが、やがて頭を上げて、また森のほうへ体を向けた。

 雲が出てきているのか、煙のせいなのか、星のない夜だった。どっぷりとした闇が森の奥のほうまで広がっている。

 先ほど手にかけてしまった女の顔が頭をよぎった。

(……これでおれも立派な悪人だな)

 いや、そんなものじゃないな。自分は村ひとつを消してしまったのだから……そう思って足もとを見た。

 轟々と燃え盛る集落の光に照らされ、影が長々と森の中へとのびている。やがて、その影は、森の深い闇へと溶けていった。

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