四 炎の中で
焼け焦げて真っ黒になった地面を見て、青年は軽く舌打ちをした。
(……逃げられたか)
確実に仕留めたと思った。爆発で粉々になった土のかたまりが、あちらこちらに飛び散っている。
(
そうでなければ、あれは防げないだろう。だがそれでも……さっきの炎を防いだとはにわかには信じられなかった。
普段でさえ手を焼いているこの力が、今日はさらに言うことを聞かない。どうしても力が入りすぎて、思ったよりも大きな炎が出てしまうのだ。
人を焼くつもりの力加減だった。そうだとしても、こんなときに放った炎を防ぐとは、あの少年――いや、
「さっきのやつを追うぞ。どっちに行ったかわかるか」
顔を見られたとなると、逃がすわけにはいかない。声をかけると、赤い鱗にコウモリのような翼を二枚背中にはやした、トカゲのような生き物――
「どっちに行ったかはわかる。だけど追うことはできないよ。アル……」
子供のような口ぶりで、
「なんだと?」
その表情に、一瞬おびえるようにビクッと体を震わせたが、
「彼らは精霊たちが住まう領域へ逃げていったからだよ」
「精霊たちが住まう領域だと? だったらなぜ少年のほうはそこへ逃げられる?」
「それは……ぼくにもわからない」
「おまえなら追えるのか?」
青年がたずねると、悲しそうに
「いじわるなこと言わないでよね、アル。ぼくにも無理だよ。だってぼくは、本物じゃないから……」
そうか、と言うと、青年はそのまま黙り込んでしまった。
青年が連れているこの
この
だが、その強大すぎる力がゆえに、人々に恐れられ、ピューポが生まれて数年の間、最初の数人を除いて、誰もピューポの
そして不幸なことに、最初のころに契約を試みたものは、そのことごとくがピューポの炎によって焼け死んだ。運よく契約できた者も、その力を行使するさなかで、同じく焼け死んだ。
普通の人工精霊ならこうはならなかった。せいぜい軽い火傷をするくらいだ。これはピューポの力の強さゆえに起きた事故だった。それがピューポが人々に恐れられるゆえんだ。
そんな悲惨な事故の数年後、ピューポに臆することなく、主に志願してきたのが、この青年――アルベルトだった。
アルベルトは何事もなくピューポと契約することができた。だがその力を満足に使えるようになるまでは、実に一年ほどの月日を要した。その間の修練はとても過酷なものであった。幾度となく負傷し、死にかけたこともあった。そうした修練を経て、力を使いこなすコツをつかんだのだ。
ピューポの炎は、強めようと思わなくても十分に強い。だから、力を込めてしまうと制御できないほどの炎が出てしまうのだ。重要なのは、いかに力を込めるかということではなく、いかに力を込めないかということなのである。そのことに気づいてからは、ピューポの炎で怪我をすることは少なくなった。
だがいくらコツをつかんだといっても、戦いの中ではどうしても力が入ってしまうものである。そのため戦闘中にひやりとしたことが何度もある。そういった意味では、まだこの力を完全に使いこなせるとは言えなかった。戦闘中いかに冷静さを保てるか、という大きな課題が残っているのだ。
そのピューポでさえ、精霊の領域とやらには入れないとは……所詮まがい物はまがい物なのだと、アルベルトは思った。
うつぶせに横たわっている女の亡骸に、アルベルトは目を落とした。まだ三十代かそこらに見える女だった。
近くにひざまずき、女の体を抱え起こしてやった。まだわずかに体温が残っているようで、胸の下あたりから、下腹部のあたりまでななめに走っている傷口から血が滴っている。少しやつれているが、なかなかの美人顔だった。
(この女は……)
あの少年の母親だったのだろう。そう思うと、ひどく複雑な気持ちになった。
女の体を整然と仰向けに寝かせて、開き切った目を閉じてやると、アルベルトは深く息をついた。
(……さて)
これからどうしたものか、ピューポでも追えないとなると……と思案しているときだった。背後にいやな気配がして、すぐにそのほうへ振り返った。向こう側から、ひざ下までを覆う漆黒の
いやなやつが来たものだと、その男を見て、アルベルトは思ったが、努めて表情に出さないようにした。
その男――ハンスは、アルベルトと共にこの国へ訪れた密偵の一人で、一応アルベルトの上官でもある。もっともハンスという名は偽名である。素顔も外套や幻術でいつも隠しているので、一度も見たことがない。それは彼が、皇帝直属の呪術師――闇の精霊使いであるがゆえのことだった。呪術を使う者は、自らも他者からの呪いを受けぬように、己の素性を直属の上官以外には話さない――本名、生まれた日、場所、家族の名すらも……
首を左右に振って、ハンスは炎を見た。
「それにしても、ひどい有り様ですねえ。どうしたのです? あなたらしくない」
「わからない。なぜか今日は力をうまく制御できなくてな」
アルベルトがありのままに話すと、ハンスの口角がかすかにつり上がった。
「へえ。力が制御できない……ですか」
口角がさらにつり上がる。
「まあ無理もないでしょう。ここには大量の精霊石があったようですからね」
精霊石――精霊の力を強めることができる結晶、人の体を侵す忌々しいもの。そんなものがここにもあったのか、とアルベルトは眉をひそめた。
「でも、力が制御できないほど精霊石の力を得ていたわりには、村を取り囲んでいた炎の壁が、一部ほころんでいたようですが――」
「…………」
「――まさか、わざと、ではないですよね?」
「なにが言いたい?」
アルベルトが低くそう言うと、ハンスは肩をすくめた。
「いえ、あなたのことですから、村人を逃がそうと、わざと逃げ道を作ったのでは、と思ったのです。おかげで何人かは逃げ出せたようですしね」
「…………」
「おや? 図星ですか? まったく、困った人ですねえ……まあ、今回は不問としましょう。逃げられた者には、まだ使い道がありますしね。それに、おかげで面白いものが見れましたしね」
「面白いものだと?」
アルベルトは眉をぎゅっと寄せた。
「ええ。必死に逃げ出していく人の中、一人、いや一人と一体、中へと入っていった少年と精霊のことですよ」
さっきの少年と
「いやあ、あれは実に滑稽でした。飛んで火にいる夏の虫、とはよく言ったものですね。まあ、季節は秋ですけど」
ハンスは喜々として語った。
いやな言い方をするものだと、アルベルトが思ったときだった。それまでのニタニタとした口もとの表情が消え、ハンスは急に真顔になった。
「ところで、あなた。その愚かな虫どもを取り逃がしましたね」
そっちが本題か、とアルベルトは
「ああ、とどめを刺し損ねた」
「手抜かりをしたのですか?」
「いや、本気でやった。最後の最後で
「
「いや、そんな感じはしなかったが」
「ふうん。で、追わなかったのですか?」
「追わなかったわけじゃない。追えなかったんだ」
「と、言いますと?」
「精霊の領域とやらに逃げ込んだそうだ」
「まさか、そんなことが……」
「……本当だ」
しばらく沈黙して、ハンスは鼻で笑った。
「まあ、信じることにしましょう。でもこの話が本当だとすると、あなたとそこの偽物では、どうしようもないのはうなずけます」
再びニタニタと微笑むハンスの顔を、ピューポはきっとにらみつけた。アルベルトも歯を食いしばって怒りをこらえている。
そんな様子など目に入っていないかのように、変わらぬ口調で、ハンスは言葉を継いだ。
「しかし、精霊の領域へ逃げ込むとは……その少年、何者なのでしょうね?」
「それはわからないが、あなたなら、追えるだろうか?」
「このわたしに、あなたの尻拭いをしろと? そりゃ、不可能ではないですがね。わたしが連れている
そう言うと、ハンスは踵を返した。
「さて、これ以上の長居は無用ですから、そろそろ撤退しましょう。アルベルト君、炎の壁を消してください」
ああ、と言ってアルベルトは右手を上げて、さっと宙をつかむようにこぶしを握った。
その様子を横目でちらっと確認すると、ハンスはくすっと微笑んで歩き始めた。アルベルトもそのあとについていこうと、歩き始めたときだ。急になにかを思い出したようにハンスが足を止めた。
「あ、そうそう。今回のことですが、次は……わかっていますよね?」
顔だけをわずかにこちらに向けながら、ハンスは言った。
「……わかっている」
言ってから、アルベルトは目を細めた。
それを聞くと、ハンスはまた歩き始めた。
集落の入り口にさしかかると、アルベルトは足を止めて、集落へ向き直った。しばらく、炎に崩れ行く光景を、遠い目で眺めていたが、おもむろに剣を地面に突き立てると、深々と頭を下げた。
ひとしきり、そうやって頭を下げ続けていたが、やがて頭を上げて、また森のほうへ体を向けた。
雲が出てきているのか、煙のせいなのか、星のない夜だった。どっぷりとした闇が森の奥のほうまで広がっている。
先ほど手にかけてしまった女の顔が頭をよぎった。
(……これでおれも立派な悪人だな)
いや、そんなものじゃないな。自分は村ひとつを消してしまったのだから……そう思って足もとを見た。
轟々と燃え盛る集落の光に照らされ、影が長々と森の中へとのびている。やがて、その影は、森の深い闇へと溶けていった。
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