三 襲撃



 集落へ向かって、レアンは全速力で森を駆けていた。

 どれくらいの間、走り続けたのだろう。もう、かなり長く走り続けているのに、なぜかまったく息が切れない。足が疲れているような感じもしない。

 あたりがやけに明るい。木が光っているのだ。その光は、さっき湖の近くで見た、青白い光に似ている気がする。なぜ木が光を放っているのか、そんなことはどうでもよかったが、好都合だった。これなら暗くなった森の中でも、すいすいと走っていける。

 木が放つ光を頼りにして、木々の間をすり抜けるように進んでいく。木をかわすのに必死で、まわりを見ている余裕なんてなかった。

 集落に近づくほどに、不安と焦りが募っていく。

 ただの杞憂きゆうであってくれと、何度も心の中でそう願ったが、そのたびに、そんなわけがないと、否定する自分がいる。それほどにさっき感じたあれは、なにか大変なことが起きていることを物語っていたのだ。

 あんな風に、生々しい言葉として〈精霊の声〉が聞こえたのは初めてだった。それに、あの焼けるような感覚……まるで森と同化してしまったようだった。

 理屈じゃない。直感が、本能が、ただごとではないと言っているのだ。

 木が焦げたいやな臭いがしてきた。

 集落までもう目と鼻の先だ。やはり集落のあたりが燃えているのだ。

 かすかに煙も漂ってくる。青白い光とは異なる赤みがかった光が、煙の先に見える……火だ! 火がついている!

 煙をたどって、集落の入り口までたどり着いたレアンは、あまりの光景に、しばし茫然と立ち尽くしてしまった。

 レアンの背丈をはるかに超える炎が、集落を取り囲むように、轟々と燃え盛っている。それはまるで壁のようだった。

 かなり離れているつもりでも、熱風が頬をなでてくる。

 足がすくんだ。炎が激しすぎて、集落の中の様子がまったく見えない。

 なにがあったのだろうか。みなはもう逃げ出したのだろうか。母は? 母は無事なのだろうか。そんな思いが頭の中を駆けめぐった。

(とりあえず、中に入ってみよう!)

 だが、どうやって中に入ろう……この炎では中に入るどころか、近づくことさえできそうにない。どこか火の手が弱いところがあれば良いのだが……。

(……なんにせよ)

 ここで立ち尽くしている場合じゃない。どこか中に入れそうなところを探してみよう。そう思って、レアンは、自分を奮い立たせるようにうなずいた。

 そのときだった。「やっと追いついた!」という声が後ろからして、振り返った。

 声の主は、先ほど湖で会った地の精ノームの少女だった。

「もうっ、いきなり森の中へ入っていったと思ったら、へ入っていくんだもの。驚いたわよ。あそこは精霊しか入れないはずなのに……君、本当に人間よね?」

 少女はまくしたてるように話した。その様子を、レアンはむっとした顔で見ていた。

「さっきも言っただろ。人間だって。いまはそれどころじゃないんだ。用があるならあとにしてくれよ」

 吐き捨てるように、レアンは言った。

「そんなことわかっているわよ。で、これからどうするの?」

「母さんを探す。まだ集落の中にいるかもしれないんだ。どこか入れそうな場所を見つけたい」

「わかったわ。わたしも一緒に行ってもいい?」

 なぜそんなことを、と一瞬思ったが、特に断る理由もなかったので、勝手にしろ、とだけ言った。

 少女と共に、集落の北側にさしかかったときだった。炎の中から、何人か人が出てくるのが見えた。

 人影たちは草むらに座り込んだ。

 急いで近づいてみると、背中が丸まった白髪の小柄な老人が、うずくまってせき込んでいた。そのかたわらで中肉中背の中年の女が、老人の背中をさすっている。

「大丈夫ですか⁉」

 レアンが声をかけると、二人はレアンのほうを見た。長老のオルバとその娘クラナだった。

 オルバは、亡霊でも見たかのような顔で、レアンを見つめている。オルバを支えながら逃げてきたと思われるクラナは、額に汗をいっぱい浮かべて疲れ切った顔をしている。

「おお、レアンか。おまえは無事じゃったか……」

「なにがあったの? ほかの人は?」

「みながどうなったかは、わしにもわからぬ……

 家々がいきなり燃え出したのじゃ。集落の外に逃げようにも、炎のせいで出られんでな。やっとの思いで――」

 と言いながらオルバが集落のほうを指した。

 オルバが示すほうを見ると、一部炎の壁がぽっかりと消えているところがあった。その幅はちょうど人二人が通れるくらいだった。

「――そこの逃げ道を見つけたのじゃ」

 ここから中に入れる。わずかに希望が生まれたような気がした。

「おれ、母さんを探しに中に入るよ」

 唐突なレアンの言葉にオルバは眉を上げた。クラナもぎょっとしたような顔になった。

「それはやめたほうがいい。中は危険じゃ。それに中に入っても、コリーナが無事かはわからぬのだぞ」

「そうよ。行かせられないわ」

「わかってる。それでも、行かせてほしい」

 つぶやくように言って、レアンはまっすぐにオルバを見つめた。真剣なそのまなざしを見て、オルバは息をついた。

「……コリーナは、おぬしの唯一の肉親じゃからな……仕方がない。行ってくるがよい」

「そうね。仕方ないわね。でも約束してちょうだい。必ず生きて帰ってくるのよ」

 その言葉を聞いて、レアンは微笑んだ。

「ありがとう。オルバさん。クラナさん。大丈夫、必ず母さんを連れて戻ってくるよ」

 そう言って立ち上がったときだ。炎の中から一人の女が出てきた。一瞬、母かと期待した。だが違った。すらりとした長身のその女は、友人ツィンの母ミアだった。

「あのミアおばさん、中で母を見かけませんでしたか?」

 こちらに歩いてくるミアにレアンはたずねた。

 ミアは静かに首を振った。

「いえ、わたしは見かけなかったわ。コリーナさん今日も集会所に行っていたから、まだ集会所にいるかもしれないけれど……」

 言いかけて、ミアは虚ろな目になった。

「あそこが一番炎の勢いがすごかったから、あそこにいたのなら、もう……」

 血の気が引いていくのを感じた。

 ミアにオルバたちのことを頼むと、レアンはすぐにその場をあとにした。

 集落の中はすさまじい光景が広がっていた。目に見える範囲の建物が、すべて激しく炎を噴き上げている。家を支える柱が焼け落ちて、崩れかけている建物もある。

 道に火の手はのびていなかったが、ときおり建物から噴き出る炎が行く手をふさいだ。

 慎重に炎をよけながら、集落の中心にある集会所まで足を進めた。

 やっとの思いでたどり着いたレアンは、しかしまた茫然と立ち尽くした。

「ひどい有り様ね……」

 かたわらにいた少女が、ぼそっとつぶやいた。

「ああ……」

 レアンもつぶやいた。

 本当にひどい有り様だ。壁も柱も、なにもかもが焼け崩れ、屋根だけがかすかに炎の中でその姿を見せている。

 もしこの中に母がいるとしたならもう……考えかけて、振り払うように首を振った。

(いやまだだ)

 まだ家のほうにいるかもしれない。少女に声をかけて、家のほうへ走り出した。

 レアンの家は集落の東の端にある。母と二人で暮らす慎ましい家だ。

 エザフォスは四方を山脈に囲まれている。そのため夏は焼けつくように暑く、冬は凍てつくほどに寒い。雪は多くは降らないが、山から滑り降りてくる風が非常に冷たいのだ。

 そんな寒さをしのぐために、森の民たちは、ファルという長方形の大きな家を、壁でいくつかに仕切って、そこを数家族で分け合って暮らしている。この集落には十数軒のファルが密集するように建っている。

 そんなところに火を放たれたのだから、これだけ火が燃え広がっているのも当然だった。だが、さっきオルバが言っていたことが少し気にかかった。突然、家が燃え出す……そんなことがどうして起こりえようか。誰かが火を放ったにしても、なにか変な感じがする。

 そんなことを考えていると、目の前から誰かが走ってくるのが見えた。人影はなにかを大切そうに抱えている。

 人影との距離が縮まっていき、その姿がはっきり見えると、レアンはほっと胸をなでおろした。

 母だった。母はレアンの姿を認めると、驚いた表情になり立ち止まった。薄桃色の母の衣は、すすでひどく汚れている。大切そうに抱えていたのは、儀式用の短剣だった。

「母さん! よかった。無事だったんだね!」

 母に近づいて、レアンは声をかけた。

「レアン……どうしてここに……」

 ささやくように母が言った。

「どうしてって、集落のほうが燃えているのが見えて、母さんが心配になったからに決まってるじゃん」

「そう……。母さんは集会所のほうが心配で、いまから向かおうと思っていたのだけれど……」

「あそこは……」

 脳裏に先ほどの光景が浮かぶ。レアンは苦い表情になった。

「もう無理だよ……なにもかも焼け崩れちゃった……」

 それを聞くと、母は涙を浮かべて、がっくりとうつむいた。

「そう……なのね。わたしは、ついに彼らを救うことはできなかったのね……」

 母は声を震わせながらつぶやいたが、レアンはなにも言ってあげることができなかった。

「ちょっとお二人さん。申し訳ないのだけど、ここで立ち話をしている場合じゃないわ。急いで脱出しましょう! これは火の精サラマンダーの炎……まだ油断はできないわ」

 しびれを切らしたように、少女が言った。

火の精サラマンダーだって⁉ なんでそんな……」

 そんなことよりも空気を読めよなというふうに、レアンはきっと少女をにらみつけたが、母はきょとんとした顔であたりを見まわしていた。

「いま、女の子の声がしなかった?」

「なに言ってんだよ。母さん。地の精ノームだよ。ほら、そこにいるじゃん」

 あきれたように言って、少女を指さすと、母は少女のほうに目をやったが、その目はどこか虚空を捉えているようで、焦点が合っていなかった。

「そこに……精霊様がいるの?」

 レアンがうなずくと、母は深くうつむいて、なにかをぼそっとつぶやいたが、なにを言ったのかよく聞こえなかった。母の顔はよく見えなかったが、なんとなく暗い表情をしているような気がした。

 すぐに母は顔を上げた。その表情に曇りがなかったわけではないが、決意に満ちた顔をしていた。

「さあ、精霊様の言う通り、ここは危険だから避難しましょう。出口まで案内してちょうだい」

「わかった」

 出口へ向かって走っているとき、背後で母と少女が話しているのが聞こえた。

「やはり、この火事は火の精サラマンダーの仕業なのですね」

「あなた気づいていたのね」

「はい。ただの火事にしては、様子がおかしいので、もしかしたら、とは思っていました」

「そう……。でもあなた、精霊の気配がわかるのね。もしかして、最近何度もわたしたちに呼びかけていたのは、あなたかしら?」

「呼びかける……精霊の儀式のことでございましょうか」

「ええ、おそらくそうよ」

「でしたら、精霊様をお呼びしていたのは、わたくしでございます」

「やはりそうだったのね。あなたには謝らなければいけない。あなたの呼びかけに応じることができなくて、ごめんなさい。あとで話すけれど、こちらも動ける状況ではなかったのよ」

「謝ることなんてありませんわ。わたくしが未熟なのがいけないのです。それに、まだこうして精霊様とお話ができることに、わたくしは感謝すらしているのですから……」

 母の言葉を最後に二人の声は途絶えた。

 出口が見えてきて、レアンは少し安堵していたが、母と少女は違った。

 二人の足が止まったので、レアンも慌てて足を止めた。

「誰か……来る!」

 少女の視線の先から、見たことのない装いの背の高い青年が、ゆっくりとこちらに歩いてきているのが見える。青年は腰に長剣を携えていて、肩にはなにやら赤い色をしたものがこんもりと乗っている。

(集落の人間じゃない……!)

 そうレアンが思ったのと、母が短剣からさやを抜き捨て、かばうようにレアンの前に出たのが、ほぼ同時だった。

 母は青年をにらみつけた。

「あなた、この集落の人じゃないわね。何者⁉」

 青年は返事もせずに、なおも変わらぬ足取りでこちらに歩いてくる。

 青年が腰の剣に手をかけた。

 ぴんっと糸が張ったような緊迫した空気が、母と青年の間に流れる。

「レアン、母さんがおとりになるから、あなたはすきを見て逃げなさい」

 振り返りもせずに、母がささやいた。

「なに言ってんだよ。母さん! そんなことできないよ」

 母はかまわず続けた。

「精霊様、どうかレアンを頼みます」

 そう言うと、母は少女の返答も待たずに、青年へ切りかかっていった。

 青年は剣を抜き放って、母の短剣をいとも簡単に止めた。

 小柄で力も強くない母の体は、すぐに押し返されて、何度も地面に倒された。それでも母は何度も起き上がって、青年に向かっていった。

 もう見ていられなかった。金属と金属がこすれあう音が、キーン、キーンと鳴り響く。

 短剣がはじかれるたびに、母の体は大きくふらついた。もういつ切られてもおかしくはない。

 だが妙だ。青年はどう見ても相当な手練れなのに、それにしては動きがやけに鈍い。

(手加減している?)

 そう思ったとき、いきなり手を引かれた。

「おいっ、なにすんだよ!」

 驚いて振り返ると、少女が手首をつかんでいた。

「なにって、逃げるからに決まってるでしょ」

「逃げるって? 母さんを置いて逃げられるかよ!」

「馬鹿なこと言わないでよ! 彼はまだ力の半分も使っていないのよ。彼が精霊の力を使ったらみんなまとめておだぶつよ! あなたのお母さまには申し訳ないけど、いまは逃げるしかないの!」

 でも! とレアンが声を荒げたときだった。

 鋭くキーンという音がした。母の手から短剣がはじき飛ばされたのだ。

 短剣はヒュンヒュンと風切り音を立てながら、宙を舞いカランとレアンの足もとに落ちた。

 青年の剣が母に振り下ろされる。身が引き裂かれるような思いを感じた。

「やめろーっ!」

 張り裂けるほどに大きい声で叫んだ。

 だがそれもむなしく、青年の剣は母に振り下ろされた。母の体は、力なく地面に倒れた。

(母さんが…………殺された……)

 息が苦しくなった。目の前がかすんで見える。母を支えるために、いままで必死に生きてきた。でも、その母はもう……。もう、なにもかもがどうでもいいような気がしてきた。自分の命さえも。だが――

(あいつだけは……)

 許せない。たとえむざむざ殺されに行くようなことだとしても……殺してやる!

 悲しみを押しのけて、目の前の憎いやつへの怒りが、全身から沸々と込み上がってくる。怒りで身が震えた。

 足元の短剣拾い上げて、ぎりっと青年をにらみつけた。

 そんなレアンを、青年は眉ひとつ動かさずに見ている――むかつく野郎だ……

 短剣をかまえた。青年は剣を下ろして、余裕なかまえをしている。

(くそっ、余裕ぶりやがって!)

 ぷつりと糸が切れたように、レアンは青年に跳びかかって、渾身の力で短剣を振り下ろした。

 青年は剣を振り上げて、軽々と斬撃を受けとめた。そしてそのまま剣に体重を乗せて、レアンを押し飛ばした。

 レアンの体が宙を舞う。身をよじって一回転すると、ふわりと地面に下りた。

 今度は低い体勢のまま青年の足元に飛び込み、すくい上げるように薙いだ。

 だがこれも軽々ととめられた。短剣がはじかれて、よろついたところに、すかさず次の斬撃がせまってくる。

 素早く飛び上がって、これを間一髪かわした。青年の頭上ががら空きなのが見えた。いまだ、そう思った。――だが甘かった。

 青年の足が、レアンのみぞおちめがけて飛んできて、そのまま深くめり込んだ。うめく間もなくレアンの体は吹っ飛んで、背中から地面に打ちつけられた。

 背と腹に受けた衝撃で息ができない。うずくまりながら、激しくうめきあえいだ。

 青年は剣をかかげた。剣先にどこからか炎が集まっていき、またたく間に大きな火の玉になった。

(……あれが精霊の力か)

 剣が振り下ろされ、火の玉がこちらに向かって飛んでくる。

(これで終わりかよ。くそが……)

 レアンは目をつむった。

 次の瞬間、大きな爆発音とともに、無数の土くれが顔や体にあたって、はっと目を開いた。

(……生きてる?)

 あたりに土煙が立ちこめている。

 なにが起こったんだ、そう思ったとき、少女が耳もとでささやいた。

「大丈夫? 走れそう?」

 正直なところ体はきつかったが、レアンは無言でうなずいた。

 ふらつきながら立ち上がると、少女に手を引かれるままに走った。

 土煙はあたり一帯に広がっていた。

 そのおかげで、途中青年のかたわらを横切っても、見向きもされなかった。

 なにかの視線を感じる。そう思ったが、その正体はわからなかった。

 あっという間に炎の境目を走り抜け、森の中へ入った。

 木々が自らも光を放ちながら、青白く光る木の実を垂らしている。その様はまるでレアンたちを歓迎しているようにさえ見えた。

 これからどうなるのか。そんな思いがちらりと頭をよぎったが、いまはそんなことはどうでもいいことに思えた。

 少女は振り返りもせずに、森の奥へと走っていく。考えるのはやめて、いまは少女に身をまかせよう。レアンはそう思った。

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