第24話 すれ違い

 この所、左門はおかしかった。貴公子の声が今でも耳に残る。結果は良かった。しかしあの時栞に抱いた必死な焦り。夜の国道を飛ばしたときに感じた栞に対するあの感情は、あの愛しさは、果たして親の感情だったのだろうか。

 勿論、本当の親になった事がない左門に親の感情は判らない。だが、『許す愛』を親の愛情と考えれば、あの時の感情は全くもってナンセンスだった。

 

 そう言えば似たように気持ちになった事があったと左門は思い出した。栞が左門を守るため、ブルーレースアゲートを暗闇の中を探してくれた時だ。あの夜、有難うと玄関で肩を抱き寄せた栞に似たような気持ちを持った。あれ以来、栞が夜遅い時や、大雨の中を帰って来る時、左門は心配で居ても立ってもいられなくなる。何度マンションの外で栞の帰りを待ったことか。その都度栞に『ごっくろーさん』と言われ、心配してんだよ、感謝しろと笑いあった。我ながらいい父親になれたと思っていた。それが何だかおかしいのだ。30半ばにもなってどうした事かと思う。ずっと前に由良から貰った忠告がよみがえる。アブノーマルは皆を不幸にする。その通りだ。そんな馬鹿な事になる奴は馬鹿だと思ってた。それがもしや今の俺は馬鹿? 中学生並みだな左門。


「パパー、相談があるの」

「ん?」

「そろそろ就活開始!だよ」

「あ、そうか、もうそんななんだ」


 大学3年生になった栞は左門に眩しい。転げまわってたJKが今本当の大人になりつつある。正直、左門には嫌だった。栞への感情の変化が底にはある。だが、それ以上に、巣の中ではしゃいでいる栞のままでいて欲しかった。ここから巣立って社会に出るなんて、そんな危ないことなんて、許せる筈がない。過保護?そうだろう、どうとでも言え、俺は栞が大切なんだ。


「ここなんだけど」

栞が会社案内を見せて来る。

「パパと同じ業種じゃないかな。パパと同じ仕事がいいかなあって」


 その社名を見て左門は血が引いた。それは左門が以前勤めていた会社、ひどい仕打ちで追い出された会社だった。

当時QC部門の1社員だった左門が、あるプラント用の制御システムのハードウェア品質が基準以下であることを見つけ、あやうく出荷されるところを差し戻したのだ。納入先のA社は大手だ。一度信用を損なうと二度と取引してはもらえない。左門のチェックをQC部門の主任も課長も評価してくれた。そのシステムは一旦取り下げられ、半年後に晴れて出荷できた。A社はいい顔こそしなかったものの、半年の遅れは許してもらえた。A社の担当レベルには、そのまま納品された時の損害を考えれば却ってよかったと言ってもらえたのだ。


 ところがその後、左門に関する良からぬ噂が流れた。それは左門の会社にパーツを納めるB社の製品に対するチェックが甘いと言うものだった。それは左門とB社の関係、有体に言うとB社から何やら厚遇されているので目こぼししていると言う内容だ。悪い事に妻の佳那の兄がB社の管理職だった。直接やりとりする部門ではなかったため、左門は特に気遣うこともなく、たまには義兄弟として飲みに行ったりしていた。どうやらそれが拡大解釈されたようだ。


 左門は当初、この事実を明かせば問題ないと考えていた。ところが網は巧妙に絞られ、更に味方だった主任や課長が反対陣営に回り、左門は孤立した。その裏にA社向け制御システムの開発部長がいた事は、左門が退社に追い込まれ、その挨拶回りの最中に課長からこっそり聞かされた。すまん、あの人、次の人事部長って言われてて、本人もそれ使ってどうにもこうにも行かなかったんだ と課長は打ち明けた。左門は、みんなサラリーマンですもんね、と返すのが精一杯だった。その人事部長は今でもいる筈だ。そして求人関係の責任者でもある筈だ。あんな奴に対して栞を入れて下さいなんてもっての外だ。


「一応知ってる会社だから、ちょっと聞いてみるわ。最近の業績とか。ちょっと時間くれる?」

「うん、心強い!さすがパパ」


 栞は喜んでいる。どうさばくかこの難題。左門は仕事以上に悩んだ。純粋に俺と同じ仕事を選ぼうとしてくれている栞。

それは俺にも嬉しい事だ。だが、あんな奴と同じ空気の中に栞を入れたくない。渡したくない。渡すもんか。


 その週末、土曜日の朝、

「パパ。パパが預かってくれた会社さ、そろそろエントリー締切なんだけど」

左門は思いつめた。昨晩頭の中をグルグル回っていた言葉。これはアブノーマルなんかじゃない、俺の純粋な想いだ。

 何を遠慮する必要がある。左門は様々な葛藤を無理やり理屈でねじ伏せた。


「栞、古い言葉だけど、永久就職ってのがあるんだ」

「は?永久就職?どこへ?」

「ズバリ言う。結婚だ」

「結婚は就職なの?」

「昔はそう言ったんだ」

「誰と結婚するわけ?」

「ここだ。この家だ。つまり・・・ 俺だ」


 栞は息を呑んだ。パパにはパパ以上の想いは持っている。封印はしているけど、パパのお嫁さんになるって、小さい女の子みたいな気持ちになった事も否定はしない。でも現実の話になっちゃいけない。コミックやラノベじゃないんだよ。パパの好意に甘え過ぎてはいけない。偶然が重なって、あたしの今の幸せがあるんだ。これ以上、そんな簡単にもっと幸せになるなんて、神様に叱られる。

由良さんはちょっと嫌だけど、本当にいい人がいたら、パパの再婚には反対できないよ。それまではこのまんま、親子として一緒に暮らしたい。ずっとそう祈って来た。それが栞の中に確立されていた気持ちだった。

まさかそれをパパから打ち壊しに来るなんて・・・思いもしなかった。男は惚れたら何でも言うってパパ言ってたけど、怖いよなんだか。あまりにも突然の爆弾に、栞自身もすっかり怯えてしまった。


「ちょっと考える」


 栞はそう言うと立ち上がった。間もなく玄関ドアの開く音がした。


 しばらくぼーっとしていた左門だったが、突如我に返った。俺はとんでもなくまずい事を言ってしまったのではないか。覆水盆に返らず。栞はこのまま永久に帰って来ないような気がした。背筋がぞっとする。くそ、何やってんだ俺は。

その日、左門の頭は無限ループが繰り返された。言葉は取り消し出来ない。これまでの生活を、栞との楽しい生活を、一瞬で失ってしまった。栞を探そうと幾度外に出ようとしたか判らない。その都度、その間に栞が帰って来てそのまま荷造りして出て行ったらどうすると思い留まった。ったくなんてこった。左門の大馬鹿野郎。時計の針はいつもの10倍位の遅さで動いていた。


 しかし、栞は普通に帰って来た。その夜はいつも通りに栞が夕食を作り、テレビを見て馬鹿笑いし過ぎていった。左門は何も言い出せなかった。せめてこの時間、この空気を今は壊したくない。虹色のシャボン玉をそっと掌に留めている気がした。


日曜日の朝、朝食後、栞が突然言った。


「パパ。昨日の永久就職の話、いいよ。こんなにお世話になって拒否できる訳がない。恩返し」


 栞もずっと考えていた。相反する気持ちが混ざりあい、決別し、また闘った。でも結論は出なかった。判らない。けどパパがそう言ってる。それだけを考えよう。栞は心を閉ざしたまま客観的に答えた。

しかし、左門も最早素直には喜べなかった。


「栞、悪い。ちょっと待ってくれ。パパも昨日はおかしかった。何だか栞を取られるような気がして頭に血が昇ってしまった。すまん。発言は取り消す。あの会社の件はいいと思う。実はよく知ってる会社なんだ。エントリーシート出したらいいよ」


 栞は何も言わず左門を見た。左門は栞の目を見られなかった。その日は気まずい日曜日になった。しかし左門は踏み留まったと思っていた。鶴の恩返しもまんまと都合のいい事考えたから駄目になったんだ。感情で動くのは最悪だ。

このまま俺も栞も記憶が薄れて行けばいい。何年か経ったら、ああ、そんなこと言ったねー とか笑いあえる。左門は全力でそう思い込もうとしていた。


 翌日から、どことなくぎこちない生活が再開された。会社に居るとほっとする。左門には初めての経験だった。栞は心配だし大切だ。だけど栞の言葉や視線一つ一つに、今は小さなとげが実装されている気がする。左門は残業と偽って

帰宅時間を遅くした。


 一方の栞は、左門の指示通り、エントリーシートを提出、筆記試験の後の第一次面接にこぎつけていた。


 面接官は人事部長、労務部長,法人営業部長の3名だった。栞は通り一遍の質問に答え、更に今やっている事を質問された。


「えっと、週に三日ほどバイトをしています。それからこの頃は行っていませんが、自転車でサイクリングもします」

「バイトって何ですか?」

「ウェイトレスです」

「へえ、ファミレスとかですか」

「いえ、お店はクラブなので、夜はお酒タイムになります。私はカフェタイム中心に入っています」

人事部長が食いついた。

「なんてお店?」

「クラブ・サラって言います。駅の近くです」

「ほお、一度お邪魔するよ」

「有難うございます」


 面接後、法人営業部長が言った。

「西陣って苗字、珍しいよね。ウチに昔居た気がするなあ。まさか子どもかなあ」

人事部長が答えた。

「ああ、いたいた。問題起こして辞めたよな。でもあのヘタレに娘なんかいなかったさ。歳考えろよ」

「ああそうか。大学生の子どもは無理か」

「でもなかなか美形だな。一回そのクラブに押しかけてもいいな」

「内定通知、持ってくんですか?」

「まさか。それが2次面接よ」


 栞は面接時のやり取りは単なる外交儀礼的な質問だと思っていた。まさか本当に来るなんて。


「おう、キミは前にウチを受けてくれた人だよね。ニシジンさんだっけ」

「は・はい。いらしゃいませ・・・」

栞は緊張気味にメニューを持っていく。

「あれ、カフェメニューなの?」

「はい。まだカフェタイムなので」

「そろそろ終わりだろ?カフェタイム。ビールくれよ」

「はあ」


 栞は困った顔で沙良に聞いた。

「ま、実際もうすぐラウンジタイムだし仕方ないかな。ビール持って行ってあげて」

「は-い」


 暫く手酌で飲んでいた人事部長だったが、表の電照看板に灯が入りラウンジタイムになった途端、ビールとグラスを持ってカウンター近くの席にやって来た。


「おーい、ニシジンさん、ご指名するからさ、ここ座れや。満更縁がない訳でもないし」

「あの、私もう上がりなんですけど」

「じゃあ、もっといいや。もう飲める歳だろ?俺の奢りだよ、ここで飲んでけや」


 栞はちょっと困ったが無下には出来ない。失礼しますと隣に座った。沙良が何気に目を配るが、その目つきは元ヤンがガンをつけているに近かった。

人事部長は喋りまくる。栞は少しグラスに口をつけたが、それ以上は飲む気になれなかった。

「ほいでよ、今度大型のシステム出荷するんだよ。相手はC社、知ってるだろ超大手。オレって今は人事だけどな、昔は設計もやってたんだよ。今回のも今の部長が頼りにならんからな、オレがいろいろ手伝ってんだ。というか

オレが作ってるに等しいんだよ。C社って言ってもな、すんなりは通らん。競争だからな。コンペだな。まあでも最終的には価格だよ。安い方がいい」


 こんな事、ベラベラ喋っていいのかな、栞は思ったが、「へえ」とか「凄いですねえ」とか適当に相槌あいづちを打つ。話の

内容はパパも似たようなこと言ってたなあと思うものの、内心、この会社、パパはいいって言ったけどヤダなと感じていた。人事部長は更にご機嫌で


「ほいでよ、ここからはシークレットだけどな、おまえ可愛いから特別だよ」

と言いながら肩に手を回してくる。

「時限爆弾を仕込んであるんだよ。表からは見えないぜ。制御基板に使う半導体な、ちょっとセレクトから外れた奴で組むんだよ。そうすっと安くできる!それにな、普通だと10年位は大丈夫な所、大体5年で駄目になるんだ。そもそもの石が駄目なんだよな。丁度5年で保守期限ってことになってな、モノがそこで壊れる訳だから、継続契約ではなくて、新たな製品を入れてまた初期費用を頂けるって訳よ。向こうも面倒だからコンペなんてしないしな。独占ってわけよ。能ある鷹は爪を隠すってね、まあ、オレは駄目石隠すんだけどな、頭いいだろ、ははは」


 人事部長は笑いながら今度は膝に手を回してきた。栞はさり気なく避ける。それを片目で追っていた沙良が、ボトルを持ってやって来た。

「お客様、申し訳ありませんが、従業員がお店で飲むのは禁止してるので、そろそろ上がらせますね。お詫びにって

変ですけど店から差し入れさせて頂きます。これ、結構いいお酒なんですよ、南米の」

「ほぉー、南米!カーニバルだな!」


 人事部長は目がカーニバルだ。ひっくり返るのも時間の問題に見えた。沙良はさり気なく栞を手で払い、低い小さな声で言った。

「じゃ、お疲れ。駄目石なんて言葉、聞き捨てならねえよ。後は任せて。のしとくから」

「は・はい・・・。有難うございます」


 栞は沙良のドスの利いた声に驚きながら、酒臭くなった服の臭いを嗅ぎ、顔をしかめた。やっぱ、あの会社やめよう。今日の話したらきっとパパだってやめろって言うに決まってる。栞は憤然として歩き出した。沙良さん、のしちゃえ。

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