第29話 勝利

 その週末、左門は1週間の出張から帰って来た。C社各層へのプレゼンと質疑応答に3日かかり、C社での検討期間に中1日を置いて昨日C社にてコンペ結果を聞いた。ライバルであり古巣のB社に勝っての商談成立だった。設計部隊をサポートし、C社要件をビルドインするシステム仕様の品質を抜かりない眼でチェックし、設計部隊と大喧嘩もしながらまとめ上げてきた品質管理第一課長の左門にとっては感極まった勝利だった。古巣を見返してやった、そんな気もなかったとは言えない。しかし、今回の勝利は栞の置き土産のお蔭だった。同じ要件に沿って設計するのだから、B社との違いはそれほど大きくはならない。それぞれの得意・不得意分野が出ることはあっても、どちらかと言えば減点方式での比較になったろう。


 左門たちのシステムもB社と同じく5年の保守期間を想定していた。投資償却期間に合わせる意味もあるが、ナノテクやITの進化は一般的に5年も経てば環境を一変させるという理由もある。しかし、生産ラインに組み込まれたシステムをそうしょっちゅう入れ替える訳にはいかない。そこで左門は要求仕様を満たすことは当然、保守期間経過後の何年かは保守期間同様のハード及びソフトのサポートをすることで、C社の負担を軽くしようと考えた。それはきっとC社製品の競争力にも寄与する筈だ。


 左門は現場実行部隊に対するプレゼンで、その生産管理を担当する課長クラスに左門の独断で告げた。

「提案書には保守期間は5年としています。しかしそこから先が本来、利益を生む期間だと考えています。弊社のシステムは公には書けませんが更に5年を実質保証します。保守部品の優先確保、ソフトウェアの更新など、この西陣がいる限りきちんと面倒見させて頂きます」

 C社の現場部隊はこの点を高く評価した。左門は栞が言っていた『B社の組込ハード、要は半導体が5年で駄目になるリスク』を暗に突いたのだった。

時間をずらせて同時にプレゼンしたB社には当然この点も質問がなされただろう。しかし、明白にYESとは言えなかった筈だ。そして現場部門のこの評価は、C社の企画部門・経理部門の賛同も得て経営陣に届き、今どき珍しい心意気だと、今後の取引関係も匂わせながらC社経営陣から採用を賜ったのだ。左門の会社の提案チームを率いた法人営業部長からも、左門のプレゼンは高く評価され、左門は意気揚々と帰って来たのだった。


「ただいまー」

 左門はマンションの鍵を開ける。空気が淀んでいる。そうだ、誰もいなんだ。その瞬間、先程までの高揚感は消え失せ、左門は1週間前の状態に戻った。

 商談だって実際のところ、栞が残してくれた言葉でつかみ取ったようなものだ。栞が何かを犠牲にしてもたらしてくれた情報。それに頼ったんだ。マンションの部屋の空気に触れた途端、左門の自負は音を立ててガラガラと崩れ落ちた。肩や擦過傷が思い出したように痛む。

 翌日から左門は5年前の生活に戻った。一人で起きて、一人で喋り、一人で出て行って一人で帰宅する。会社に居る時間の方が元気かもしれない。

 家の中は、栞が出て行ったそのままだった。栞は自分の荷物はまとめて持って行ったが残されたものも多々ある。目に入るのは、栞の茶碗、栞のハブラシ、栞のタオル・・・ 部屋にはやるせない空気が充満していた。


 砂を噛むような一週間が過ぎ、また週末がやって来た。擦過傷はまだぐしゅぐしゅ膿んでいるし、肩だって痛い。


 そんな中で左門の携帯が鳴った。ショップからだ。


「あー西陣さん?フレームの件、えっとメカニックの人に聞いてみたんだけど完全修復は難しいって。修理は出来るんだけど元の状態には戻らないし、既に何年も使ってるからさ、余計に性能的には感心しないって。たぶん修理代も10万円は下らないって。だからさ、思い切ってフレーム替えちゃえば?折角だからディスクブレーキモデルなんてどう?SCOTTにもあるよ」

「はあ、そうですか。申し訳ないけどちょっと考えさせてもらえますか?即決できるような価格じゃないでしょ」

「まあーねえ、今のと同クラスだったら完成車で30万位だけどね、それ以上だとそれ以上だわ」

「いろいろ考えてみますよ。SCOTTに拘ってる訳じゃないし」

「そう?じゃ、自転車は預かっとくからさ、いつでも取りに来て。判るようにしておくから」

「はい。ご面倒かけます」

 自転車まで俺に背を向けようとしている。一週間のうち家の中で交わした会話がこれだけなんて、まさに灰色生活だ。


 その夜、左門はベッドの中でうなされていた。夢の中の俺は小太りな中年男。ロードに跨ろうとしているのだが上手く乗れない。ペダルに足が届かない。嘘だろ、フレームサイズはSCOTTと同じ筈だよ。仕方なくトップチューブにまたがって踏み込む。ツール・ド・フランスでもこんなシーンは目にするが、エライ違いだ。これでどうやって走り続けるんだよ。仲間たちは俺の事を見ないふりしている。くそっ、判ってるくせに誰も言わない。太った腹や贅肉だけがついた足を心の中だけでさげすんでやがる。路面が荒れてきた。振動がひどい。スピードを落とそうするがブレーキが効かない。ワイヤは引いてるのに、シューだって動いてるのにどうなってんだ? 傍から伯母たちの高笑いが聞こえる。『ほらねー、さーくん、言ったとおりでしょ』。うるさい!なんでここにいるんだよ!伯母たちの手が次々に左腕を引っぱたく。痛い! そこ怪我してるとこだよ!そのうち酷い衝撃が来た。車体が突き上げられ手がブランケットから離れる。うわあーっ、また落車だあ! 身体がふわっと浮き上がったところで目が覚めた。


 はあ・・・なんて夢だ。Tシャツが汗でぐっしょり濡れている。擦過傷の跡が疼く。左門は起き上がって洗面所に行った。鏡をのぞくとやつれた中年男がいる。俺はこのまま老いていくのか。伯母たちの言う通りかもしれない。Tシャツを洗濯機に放り込み、タオルで身体を拭いて新しいTシャツを着る。夜明けまでまだ時間がある。水を飲んで左門はベッドに戻った。

 何か前向きな事を考えよう。金はかかるけどロードは買い替えなきゃな。ADDICTの最新型も悪くないけど、思い切ってアルミにするのもいい。キャノンデールはこの頃カラーも増えたようだが価格はどうだろう。ブレーキは店長の言うようにディスコにするかな・・・、いやディスコじゃない、ディスクだ・・・。ぼやーっと考えているうちに、いつのまにか左門は寝落ちし、気がついたら既に陽は高く昇っていた。


 マンションの隣の公園から子供たちの遊ぶ声が聞こえる。左門は冷蔵庫から買置きの缶コーヒーを取り出し、コンビニのパンをつまむ。朝刊をめくりながら左門はぼやいた。昼食より遅い朝食だ。ま、いいか、あんな酷い夢見たんだからな。しかし今の俺の集大成みたいな夢だった。『夢は願望の充足』ってフロイト先生は言ってたけど願望な訳ねえだろ。恐れている事なんだよ。先生は恐い夢って見たことないのかね。あれこれ考えてると、いきなり携帯が鳴った。

 しつこいな、店長。


「はい」

「あ、西陣さんですか? 市役所です。日曜日にすみません。私たまたま当番だったんで掛けちゃいました」

 今度はこっちか。馴染なじみになりたくない戸籍担当の職員だった。

「いいですけど、今度は何でしょう?」

「あのう、提出書類に不備があるんですけど訂正印押してもらえますか? 今日じゃなくてもいいです」

 提出書類?ああ、あれか。やっぱ栞じゃ難しかったかな。まずいな、早くしないとパスポートとか取るのに支障するんじゃないのか。認印ならあるから訂正はできるけど。左門は咄嗟とっさに頭を巡らせた。


「あの、じゃ、まだ解除できてないんですか?」

「え?解除?何の解除ですか?」

 戸籍担当職員は聞き返した。

何のって・・・ったく呑気なことだ。

「養女の、養子縁組のですよ」


 えーっと、ちょっと待って下さいよ・・・しばらくガサガサ書類を繰る音が響き、職員が電話口に戻って来た。

「あーそっちはオッケイですよ」

「そっち?」

何言ってんだ。そっちとかこっちがあるんかい。左門は少々腹立たしく言った。

「じゃ、何の書類の不備なんだ?」

「婚姻届けの方ですよ 訂正印欲しいのは。生年月日のところ、二重線で消してあるんですけど・・・、印鑑ないと通らないんですよね。役所だから」

はい? 何言ってんだこいつは?

「婚姻届け? だれの?」

「え?西陣左門さんと高井栞さんのですよ。新しいお父様の高井忠興さんが保証人されてますがね」


 へ?俺、まだ夢の続きか? それともモ〇タリング? はたまたキツネかタヌキの化かし合い? 

 職員が早口で促す。

「それでいつ市役所に来られます?」

「いや、ちょっと待ってくれ・・・、えっと確認したいんであさってじゃ駄目?」

「ん、まあ、届出日が変わっちゃいますけどねえ、それでもいいならいいですけど」

「あの、構わないんで、えっと、また連絡します」

「なるべく早くに来て下さいね。縁起物でもあるでしょ」

「はい・・・」


 左門は呆然として電話を切った。なんなんだ?どうなってるんだ? 頭の中ではキツネとタヌキが葉っぱを持って駈け回っていた。

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