第28話 パパの陥落

 翌日は朝から晴天だった。雀の声がやけに耳につく。忠興は早速今日迎えに来ると言う。

 栞は一晩かかって荷造りしたらしい。子供部屋には大きなキャリーバックに大きなリュック迄置かれていた。ロードバイクは持てないので後で連絡すると言う。

 左門は栞に何も持たせてやるものがない事に気づいた。まるでこの5年間は何もなかったみたいだ。しかしその方がかえって良いのかも知れない。これから先、栞が俺の事を思い出しても何の足しにもならない。


 昼前に忠興はやってきた。


「おはようございます。バタバタしてすみません」

「いえ、こういう事は一気に片づけないと。それと市役所の手続きは栞がやるって言うんで任せました。丁度良かったんですよ、明日から一週間出張なんです」

 栞が口を挟んだ。

「あの、出張の間にやっとくけど、高井の印鑑も要るって言うから、すぐには出来ないと思うの。左門さんの印鑑は後で送るから」


 左門さん・・・ パパ陥落の瞬間だった。


 しかし左門は明るく振舞った。栞の再出発なんだ。忠興からこれまでの養育費を支払いたいとの話もあったが断った。こっちも助かったんで・・・。そう返したが「心も助かった」までは言えなかった。忠興と栞は暫くは都会のウィークリーマンションに住むという。


 栞が思い出したように言った。

「出張ってC社へシステムの売り込み?」

 左門は驚いた。

「なんで知ってるの?」

「就活で聞いたんだ、こないだあたしが面接した会社」

「ああ、ま、同じ業界だからな」

「あっちはね、半導体がボロだって。5年で駄目になるシステムなんだって。だから安くて、でも5年後にはまた新しいの入れてもらえるって」

 左門は面食らった。幾らなんでも面接で学生にそんな機密事項をベラベラ喋るか?

「それが自慢みたい。能ある鷹は爪を隠すって言ってたけど、そう言う意味じゃないよね」

「ああ・・・。栞、それどこで聞いたんだ?」

「うーん秘密。ちょっと膝を犠牲にしたの」

「え?」

「いいからいいから。大したことじゃない」

 このタイミングで何言ってんだ?。左門は頭を振って声を張り上げた。

「栞、大学はちゃんと卒業しろよ」

「うん」

「ちゃんと親孝行しろよ」

「はーい」


 忠興は居住まいを正した。


「西陣さん、本当に有難うございました」

 左門も目礼を返した。そして栞は両手を振って明るく出発して行った。メソメソなんてできる訳ないわな。栞にとって待望の暮らしなんだ。ま、俺はさしずめ5年間のルームメイトってとこだったか。


 また独りぼっちになった部屋。左門は佳那の写真の前に座った。佳那、また一人になっちまったよ。静かになっちゃった。突然やって来て、突然いなくなって、小型台風みたいだったよ。これからまた佳那にしゃべる事、増えそうだ。

 左門は、忘れ物がなかったか、がらんとなった子ども部屋を見たあと、そうだ、ビアンキと思い出し駐輪場へ降りて行った。取りに来るまでに磨いておいてやろう。結局俺が整備しないと駄目だったしな。


 駐輪場でビアンキと左門のSCOTTのカバーを外す。左門のSCOTT・ADDICTは白黒のフレームだが、栞のビアンキに合わせてチェレステカラーのバーテープを巻いていた。ショップの仲間には『なんか変』とよく言われた。

 しかし左門は何とでも言えと突っ張った。一緒に走ってるとき、同じ色のバーテープって言うだけで一緒感が深まるんだよ。だってよ、ずっと一人で走ってたのが一緒に走れるようになったんだもんな。昨日までは…。

 左門はビアンキのサドルを撫でた。あの道も、あの道も一緒に走った。あの坂、栞よく上ったよ。時間かかったけどな。左門は慟哭どうこくこらえる事ができなかった。ビアンキのサドルに手を掛けたまま、左門は泣き崩れた。


 俄かに駐輪場の入り口が賑やかになった。子供が二・三人、自転車を取りに降りてくる。左門はよろよろと立ち上がり、ビアンキにカバーを掛ける。駄目だ。今日は無理だ。そして隣の愛車にもカバーを掛けようとして手が止まった。

 栞が付けてくれたポーチ、きれいな石が入ったポーチ。これは、これはこのままにしておこう。二晩もかけて探してくれた石だ。でも、バーテープは・・・やっぱり替えよう。これがあると引きずってしまいそうだ。

 左門は早速ショップへ出かける事にして、一旦部屋へ上がりサイクルジャージに着替えてきた。何しろまだお昼だ。ちょっと走る分には時間は充分ある。


 ショップまでは30分ほどの慣れた道のりだが、交通量のある一般道だ。左門はペダルを回せば先程までの感情はどこかへ飛んでいく、と思っていた。ところがそうではなかった。後ろに栞がついていると錯覚しハンドサインを出してしまう。勿論、他の自転車や車へのサインにもなる訳だから決して無駄ではない。だがその日の左門はそれを恥ずかしいことと思ってしまった。気持ちは落ち込むのではなく、寧ろ変に高ぶっているようだ。判断が1テンポ遅くなる。おい、落ち着けよ。無意識に踏み込んでる気もする。この道で時速30キロはちょっと危ない。


 左門は意識して速度を落とした。それでも左カーブで膨らんでしまい、後ろから来た車がクラクションを鳴らした。

 くそっ、目の前に忠興の笑顔が出て来る。彼は謙虚だった。実の父親なんだからもっと厚かましくてもいいのに、それでも謙虚だった。その前では栞も自然だった。あれが本当の親子と言うものなのか。くそっ。無力感がよみがえってくる。左門は無意識にケイデンスを上げた。左カーブの区間、先を見通したその時、目の前に対向してくるママチャリが現れた。


 後ろからは大型貨物車が迫っている。右側通行 違反だろ!左門は咄嗟とっさに左側の歩道に乗り上げるべく舵を切った。ママチャリは寸前にすれ違い、貨物車はクラクションを派手に鳴らしながら真横を通り抜けて行く。しかし、時速30キロ近くで段差に突入したSCOTTは無事ではなかった。後輪が滑って倒れ、ブランケットから手が離れた左門はそのまま歩道へ投げ出された。


 ガツン!


 ヘルメットが地面を打つ音が聞こえ、身体はインターロッキング舗装の上を滑って擁壁にぶち当たって止まった。いたた・・・。くそっ!本当にクソだ。半袖ジャージは擦れ穴が開いている。手足には広範囲に擦過傷、血が流れでいる。うー、転んじまった。あのママチャリ、逆走しやがって。

 幸い周囲には誰もおらず二重事故は免れた。左門は歩道に手をついてよろよろと立ち上がる。肩にも痛みが走る。腱の損傷かな。頭も強打の痺れが残っている。フラフラしながら横倒しのSCOTTに辿り着いた。血がつかないよう気を遣いながら左門はSCOTTを起こす。幸いディレーラとは反対側に倒れている。何とかショップまで走れるか…と全体を見回した左門は目を疑った。


 くそっ、フレーム割れてやがる。段差の端に敷いてあった鉄板の角で強打でもしたのか、カーボン製のダウンチューブに大きな割れ目が入り裏の一部で繋がっているだけだ。手で触るとグラグラする。このままでは一気に破断する可能性がある。左門はサドルバックからビニールテープを取出し、割れている所を何重にも巻いた。しかしこの状態では乗れる訳がない。ショップまで押すしかないか。左門はそっと自転車を押し始めた。手足の擦過傷から血が流れているがもうどうでもいい。ったく、なんて日だ…。


 ショップまで30分、左門は押し続け、そして歓迎された。

「どしたの?あれ?落車?」

「西陣さん、重症だねー、栞ちゃんが飛んで来るよ」

 いや、もう来ないし…と思いながら愛想笑いを浮かべ、取り敢えずトイレを借りて、傷口を水で洗い流させてもらった。絆創膏で覆える傷ではないため、バンダナで傷口を覆う。落車のケガで大騒ぎする仲間ではない。みなそれぞれ経験済みの事なのだ。その間フレームを見ていたショップの店長が申し訳なさ気に告げた。


「西陣さん、バイクも重症だ。多分フレーム替えなきゃ駄目だと思うよ。一応カーボン修理の専門業者に送ってみてもいいけどさ、殆ど破断しかかってるから高くつくかもなあ。多分カーボンシートみたいなのを巻くんだけどね、フレーム全体のバランスを崩すこともあるし、もう結構乗ってるでしょ?フレーム替えてもいいんじゃない?今なら今年のモデルのADDICT、まだあると思うよ」

 こんな状態でセールスかよ、左門は擦過傷と肩の痛みが増した気がした。

「送ってみて修理見積だけ取るってできる?」

「時間かかるよ。それだけで費用かかるし。あ、でもちょっと待って」

 店長は整備コーナーに吊るされてるカレンダーをめくった。

「あのさ、来週、プロチームのメカニックの人が来るんだよ。DIYでカーボン修理してた人だからさ、見積もりまでは行かないけど意見聞いてみるよ。ちょっとバイク、預かっていい?結果は電話するわ」

「はあ、すみません、お願いします」


 左門は力なく言った。その日左門はサイクルジャージのまま、あちこちにバンダナを巻いてバスで帰宅した。


 明日から出張だ。何とか格好つけないと。一人でイテテ・・・と悲鳴を上げながら、肩に湿布を貼り、擦過傷の傷口を消毒し、ガーゼと包帯でカバーする。出張から帰ったら整形で診てもらった方がいいかもな。改めて鏡を見て左門は思った。心身ともにボロボロだ。だが時間は無常に過ぎてゆく。左門は大量の湿布とガーゼと消毒薬を出張の荷物に追加した。佳那、笑っていいよ。笑い飛ばしてくれ。左門はこみ上げる涙を抑えられなかった。


 一方の栞だって無事だったわけではない。左門に背を向けて歩き出すと20mも行かないうちに極まっていた。目に涙を一杯溜め、しゃくりあげながら栞は歩いた。忠興はその肩にそっと手を回した。こんな事、昔もあったよな。幼稚園で喧嘩してきた帰り道、大切に飼っていた小鳥が亡くなって、山に埋めた帰り道、あの頃に較べると大きくなった肩だ。でも震えてる同じ娘の肩だ。変わっちゃいない。よしよし。忠興は栞の肩をさすり続けた。

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