第30話 就職
左門は慌てて忠興に電話した。しかし圏外アナウンスが虚しく響く。まだ一週間だ、まさか山を歩いてる筈もないだろう。続いて栞のスマホにもかけてみる。こちらは番号が使われていないアナウンスが返ってきた。そうか、栞は苗字が変わるからスマホを解約していても不思議はない。どうしたらいい? 市役所の職員に根掘り葉掘り聞きだすしかないのか。
悶々として過ごすうちに日が落ちた。何もしなくても腹は減る。左門が冷蔵庫をガサガサし始めた時、
♪ ピンポーン
この落ち着かない夜に誰だよ。
左門がモニターを覗くと、そこには忠興が映っていた。あ、このキツネ野郎!ジェントルぶりやがって!
左門は返事もせず部屋を飛び出した。エレベータを待つのももどかしく、階段を駆け下りる。共同玄関のドアを開けると、忠興がどういう訳かロードバイクを2台持って立っている。イタリアの名車デローサだった。
「え?何?高井さん、何してんの?」
忠興がにこやかに話す。
「余計な口出しかもしれませんけどおソロにしました」
は?おソロ?
忠興はデローサを指した。確かに2台は同じグラフィックだ。
「イタリアの山師に聞いたら、これがいいんじゃないかって。フランス車には負けねえって演説を聞かされましたよ。それで随分と店を回りました。在庫って余り持ってないんですねえ」
いや、そういう事じゃなくて…と左門が視線をロードバイクから忠興に戻し口を開こうとしたその時、背後から栞が顔を出した。ペロっと舌を出している。
「おいこら!栞!どーなってんだ!」
栞はしれっと前に出て言った。
「だってお父さんがあたしに一番してあげたかったことって、一緒にヴァージンロードを歩くこと・・・なんだもん」
忠興もにこやかに続ける。
「そうなんですよ。だって あなたが一人二役って・・・ムリでしょ?」
高井親子は笑った。
そして次の瞬間、栞は左門の胸に飛び込んで来た。
「就職・・・ します! 永久に」
忠興はそっと目を逸らし、2台のデローサを壁にもたせ掛けると静かに姿を消した。2つのデローサのハートマークが共同玄関のスポットライトを浴びて輝きあっている。
左門は腕の中の栞を見た。栞も見上げて来る。目が潤んでいる。全く心配かけおってからに・・・。左門はそっと栞に口づけた。栞は目を伏せて左門の胸に顔を押し付けた。全くびっくりさせおってからに・・・。
2台のデローサを駐輪場に置いて、二人は5階に上がって来た。
「ただーいまー」
栞は部屋に入るとまず佳那の前に座った。長い時間手を合わせている。そして一つずつ部屋を
その後はこれまで通りだった。パパ、何食べたー?とか、あー牛乳買ってなーい!とか、掃除サボってたでしょ!とか、すっかり元の娘に戻っていた。しかし、左門が風呂から出てきた時、栞は声を失った。左肩は一面内出血で変色し、左腕と左足には大きな擦過傷が生々しく残っている。体液が
「えっ、えっ、何?どうしたの? まさか、投身自殺の失敗?」
「あのねえ、自転車でこけただけ」
「マジ?こけたの?それでこんなになるの?痛くないの?」
「そりゃ痛いさ。これでも随分良くなったんだよ。こけた日は大変だったけど。血がダラダラ。でもな、それ以上にロードが重傷なんだよ。フレーム割れて修復不能」
「え?壊れたってそういうことだったの?」
「知ってたのか?」
「ショップの店長さんにばったり会っちゃって、左門さんにバイク買ってあげてね、治らないからって言われたの」
「・・・」
「それをお父さんに言ったら、お祝いの
「そういう意味だったのか」
「石はパパを守ってくれなかったのかな」
「いや。俺のことを守ってくれたからこれで済んだんだと思うよ。だって道路側にこけてたら一巻の終わりだったさ」
「そう・・・」
栞は青ざめた。
「ショップにポーチだけ取りに行かないとな」
「うん。石にお礼言わなくちゃ」
「ちょっと風に当たろう。いろいろあったし火照っちゃってる」
二人はベランダに出た。夜の公園は誰も居ない。落ち葉がカサコソ風に動く音だけがマンションに反響している。
栞はパジャマにフリースを羽織って左門の隣に立った。半分より少し太った月の光が公園を照らす。
「栞、そのペンダントの青い石、どこかで見た気がする」
「でしょ。沙良さんが持っててくれたの。お母さんの形見なんだって。沙良さん、あたしのお母さんを知ってたの。お母さん宝石神社の巫女さんだったんだって。あたしを産んですぐに亡くなったみたい。それでこの石はね、宮司さんが取っといてくれて、それを沙良さんに渡して、沙良さんがお父さんに渡して、で、この形になったの。きっとあたしを守ってくれるって」
「そうなのか」
左門は思い出した。この石、忠興と会った席に置いてあった。帰り際、きらっと光ったんだ。お母さんの合図だったのかも知れんな。
「なんだか、あたし一人ぼっちって思ってたけど違ったみたい。お母さんも宮司さんも沙良さんも、みんなあたしを見守ってくれてたみたい」
「栞は一人ぼっちなんかじゃないよ。お母さんが空の上からみんなが見守るようにしてくれたんだ。見えない道をつけてね」
栞は空を見上げる。
「でもあたし、お母さんの顔も判らないの。お父さん、お母さんの写真持ってないんだって。だからこれがお母さんって思う事にした」
栞は胸元のペンダントを持ち上げた。青い石は月の光を受けてきらきら輝いている。それはまるで栞に向かって話しかけているようだった。左門はそっと涙を拭った。
「きっと今頃さ、栞のお母さんと佳那が、空の上でハイタッチしてるよ」
「しめしめ、上手くいったぞって?」
「まあな。でもみんな疲れただろうな。途中で栞、どっち行くんじゃあ みたいな」
栞は左門の擦過傷を指で弾いた。
「いってーっ!何すんだよ」
その声を聞きながら、こんなこと前にもあったなと思った。雪のクリスマスが一瞬でフラッシュバックする。
栞は左門の方を向いて、その目を真っ直ぐ見た。
「パパ、あたし、お母さんの跡をついで、宝石神社の巫女さんになることにしたの。何だか呼ばれてるみたい」
左門は傷跡をさすりながら微笑んだ。悪くない。きっと本当に呼ばれてるんだ。
「お母さん、そこまで考えてくれたんだね。就職と永久就職のどっちもまで」
「七夕のお願い以上になっちゃった」
「え?」
「ううん。ヒミツ」
青い石はまるで拍手でもしているように益々きらきら輝いた。
その夜、初めて栞は左門の隣で眠った。
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