第16話 破られた結界

 大学生になっても栞の生活はあまり変わらなかった。サークルにでも入ったらと左門は勧めたが、昔と違って今は大学の授業も厳しいのよと返って来た。余計な出費を栞が気にしているのは見え見えだった。月に一度は左門とツーリングにも出掛けたが、その実、左門がショップ仲間と毎週のように走るのが、栞には少し気懸きがかりだったのだ。何故なら受験の間は大人しかった由良が、栞の進学とともに再び左門にアプローチしているように思えたからだ。


 その日、左門は川の上流にあるオートキャンプ場までショップ仲間4人で走っていた。終盤に坂道はあるがそこまではまったり走れる。

「道の駅で休憩しまーす」

 先導するショップの兄ちゃんが左手を挙げる。4台は駐車場に吸い込まれ、サイクルラックにバイクを掛けた。

「あれ、これって山室さんのバイクですよねえ」

ショップの兄ちゃんが声をあげた。

「ホントだ。トリコロールのラピエールってあんまり見ないもんねえ」

 確かに見覚えのあるバイクだ。一人で走ってるのかな。左門がトイレから戻るとメンバーの環の中に由良がいた。


「あら、ニッシー、私も入れてもらった!」

「山室さん、どこ行く途中だったんですか?」

「特に決めてなかったの。スプロケ替えたからさ、試運転のつもりで出たんだけどそのまま走っちゃって」

「ほう、シフトチェンジがかったるくなってたんですか」

「うん。それでほら見て、32Tをつけちゃった」

「うわ、おっきいですねー」

 メンバーも覗き込む。32Tとは後輪についているスプロケットと呼ばれる変速用ギアの中で歯を32個持つ歯車の事で、ロードバイク用としては最大と言っていい。これを使うと坂道が楽に上れることから乙女スプロケットと呼ばれるが、一般的なローディは恥ずかしさから最大歯数を25や28に収めることが多い。

「これが乙女スプロケかあ。見るの初めて」

「もしかして山室さん、クライマーに絞ったんですか?」

「まさか。私もうそろそろ三十路も半ばにかかるのよ。楽したいだけよ」

「へえ」

 結構賑やかだ。歯車一枚で会話がずっと続くのもローディの生態である。


 こうして乙女スプロケ装備の由良は隊列に加わった。坂道も最終兵器の32Tを駆使して難なくついてくる。オートキャンプ場に到着しても由良の顔は涼し気だった。


「ねえ、ニッシー」

「はい?」

「栞ちゃん、大学生なんだよねえ」

「ええ」

「もう一人立ちよねえ」

「え?いやあ、まだそんな感じじゃないですけどね。相変わらずお転婆してますし」

「ふうん。彼女可愛いからさ、すぐ彼氏できるよ」

「え?いやちょっとそれは・・・」

「それは、何?」

「困りますねえ。心の準備もできてないし」

「これだから父親は駄目なのよ。女は常に先を見てるよ」

「そう・・・ですか?」

「うん。彼氏できたらさ、一緒に暮らさせてあげてもいいんじゃない?」


 由良はそっと左門の腕に触れた。栞の予感は当たりつつある。肝心の左門が無防備なだけだ。


「いやあ、でもそれはちょっと経済的にもしんどいですしね、やっぱ就職まではみてやらないと」

「そんな事言ってる間に勝手に行っちゃうけどね、娘は」


 栞に彼氏・・・。迂闊うかつにも左門は全く予期していなかった。しかし由良の言う通り可能性はある。駄目だとは言えないが、いいとも言わない。左門の胸には小石が一つ転がり込んだ。


 最後の休憩は、ミカゲ台から数キロの河川敷公園だった。川原から続く芝生広場だ。由良ほか3名はここからは別ルートで帰る。左門がテールライトを点滅させようかとサドルに手をかけた時、見慣れぬものが目に入った。小さな巾着ポーチだ。あり?こんなのいつの間についてんだ?誰かがどこかで間違えて付けたのかなあ。サドルバックとシートポストの間で全然気がつかなかった。左門がサドルの下に手を入れて取ろうとしている所に由良がやって来た。


「何してんの?サドル調整?」

「え、いや、知らないポーチがついてるんでね」


 左門はひもほどいて巾着ポーチを取り出した。何だろこれ?振ると何か入っている。左門は巾着を開けて中を覗いてみた。


「丸いのが入ってますね。綺麗な色の玉みたいな」

「ふうん、ちょっと私に見せて」


 由良が巾着を受け取り覗き込む。あ。


「ニッシー、こんなの持ってちゃ駄目だよ。この石、ニッシーの足を引っ張るよ」

「え、何ですか?呪いの石みたいな?」

「そんなものね。私パワーストーンには少々うるさいのよ。運気が逃げちゃう。奥さんのこともこれのせいかも」


 そんな前からあったっけ?と一瞬左門は思ったのだが、由良の勢いに押された。


「これ、捨てちゃうよ。覚えないんでしょ?」

「はい」


 由良は川原の方へ出て巾着ごと思いっきり放り投げた。巾着は川原の草むらの向こうに見えなくなった。


「はあ、これで安心。ニッシー誰かに恨み買ってない?大丈夫?」

「い・いや、そんな覚えはあんまりないですけど」


 一瞬左門の頭に親戚のおば達が出てきたのだが、まさかこんな凝った事はすまい。


「代わりに運を引き寄せるパワーストーンを私が見つけてあげるよ。特に縁結び運ね」

「は、すみません」

「じゃ、私帰るわ」


 清々した表情で由良はラピエールに跨り去って行った。左門の胸には少しやましい感情が残った。悪意であんな可愛いポーチをつけるだろうか。



 翌週の日曜日、左門は栞を誘って同じコースを走った。栞も段々坂に慣れてきて休み休みなら大抵の場所へ行けるようになっていた。

オートキャンプ場ではハンモックを借りて親子で森の風を浴び、釣りたてのアユを頬張った。

さ、帰ろうかと左門がSCOTTをラックから外そうとしたとき、栞が叫んだ。


「あれ?ない!」

「え?何が」

「パパ、ここにポーチ付いてたの知らない?」


 え?左門は狼狽うろたえた。先週由良が捨てたあのポーチ、栞がつけてたのか。


「いや、あのさ、付けた覚えがなかったからさ、先週気がついて山室さんがこんなの持ってちゃいけないって。運気が逃げるって」

「運気が逃げる?」

「うん、パワーストーンには詳しいらしくて、持ってると足引っ張るからって」

「で、どうしたの?」

「川原に投げ捨てた」

「えー!何てことするのよ!パパ」

「捨てたのは山室さんなんだけど、あっという間に」


 左門は弁解したが栞は怒り狂った。


「あれがないと駄目なのよ!あれがパパを守ってるの!あの女、何てことするんだ!パパを取ろうとしてる!」

「え?そんなものなの?栞がつけたの?」


 栞は聞いていない。


「とにかく探す!どこに捨てたの?」

「えっとずっと戻った河川敷公園だよ。ほらショップの近所の」

「すぐ行く!」


 栞はビアンキをラックから外すとすさまじいスピードで漕ぎ出した。


「おい、栞!危ない、あんまり飛ばすな!下り坂なんだ」

左門は叫びながら追いすがる。栞は聞く耳を持っていなかった。復路の20キロを一気に走り通し、二人は河川敷公園にやって来た。


「パパ、どの辺に投げたの?」

「えっと草むらのまだ向こうへ飛んでったと思う」


 栞はビアンキを草の上に寝かし、川原へ走った。左門も慌てて追いかける。しかし左門も投げ捨てた場所を正確に把握している訳ではなかった。

それから3時間、草をかき分け栞は探し続けた。目に悔しさの涙がにじむ。せっかく沙良さんが選んでくれたのに、ジュエリショップのお姉さんも綺麗な袋に入れてくれたのに、パパを守ってるのに、何てひどい。


 周囲は暗くなっていた。空には雲がかかり、栞はスマホのライトで探し続けたが見つからない。左門は声を掛けた。


「栞、暗くなってきたし、また今度にしようよ」


 栞は唇を噛んだ。悔しい・・・。左門は栞の肩を抱いてゆっくりと自転車の所へ戻った。

「ごめん、栞。栞に聞いてからにすればよかった・・・」

「もういい。でも絶対見つけるから」

その夜は、まるでお通夜のような夜だった。

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