秋篇 比翼の鳥

28話 にびいろの地球

秋晴れのしている空の下に居る私の心模様は厚い雲で覆われていて、それは止むことなく降り続ける梅雨の空のよう。

 授業も全く頭に入らず、今日はただ座り続けているだけの日だったような気がする。

 今日はひとりで岬に居たい気分だった。

 独りになりたかったから。

 放課後の教室にはこことは違う心地よさや暖かさがあるけれど、それは今の私にとっては邪魔としか思えない。

 ひとりになれるけれど、独りになれないあそこからは早々に抜け出してここに来た次第。皮肉にもそこは私が初めて先輩と出会って、あの言葉をかけられた場所。

 ――君は一人じゃない。

 その言葉に少なからず救われた自分がここに居る。けれど、同時に湧き上がる疑念もあった。

 どうして教えてくれなかったのだろう。

 ――その事実を。

 他の人は知っていたのかもしれない。

 ――その事実を。

 どうして教えてくれなかったのだろう。

 言えるはずが、ない。

 世の中には知らないほうが幸せなこともある。と人々は口々に言う。それは否定しない。知らなければ幸せでい続けられるようなこともある。

 今回の場合は、どちらだろう。

 幸せとも不幸せだとも感じられないこれは、例外なのだろうか。

 頭も冷えると思ったけれどここはただただ寒いだけで、望んで手を伸ばした孤独と私の心に悲壮感が降り積もる。ひとつも解決なんてしなかった。

 そもそも、これはどうすることで解決と言えるのだろう。

 隠している理由を知ることができたら? どうして先輩がそうなったのかを知れたら?それこそ、知らないほうが幸せなことだろう。

 見えないものを見ようとする必要はない。人間、少しくらい目が悪いほうが生きやすい。

 それは私を構成している核のようなものだったはずなのに、それがどんどん壊れていっているような気がして、今の自分もこれからの自分も霧の向こうに居るみたいで、まるで見えない。

 私はこの学院にきてから少しずつ、変われたような気がする。いや、もしかしたら変わってしまったのかもしれない。良くも悪くも。

 たくさんの人と知り合うことができた、友達ができた、大切な人ができた。

 その交流の中では目に見えない収穫がたくさんあったはずだ。多くの人と言葉を、感情を交わすことで自分の軸がぶれて来ているような気がする。いや、もしかしたらはじめから本当の自分なんていうものは知らなかったのかも知れない。

 手を伸ばせば届くような答えで妥協して、あとは瞳をその手で覆い隠して。覆い隠す手がなくなったから見えてしまって。

 そんな自分を改めて省みてみると、さほど変わっていないような気もした。

 環境が変わっただけで、自分は何も変わっていないのかも知れない。

 鳥かごが変わっただけの鳥みたい。見える景色が変わっただけ。

 そして私は、いや。

 飛べない鳥は籠から放たれたとて、大空の夢を見るだけで終えるのだろうか。

 刺さる海風に背に鳥籠へと足を向ける。

 夢見る大空には、厚い厚い雲がかかっていた。

 


 夕食は味がいつもより薄かった

 湯船に浸かっても身体は暖まらなかった。

 空虚な一日は驚くほど退屈で、温度がなくて、けれどそこには私以外いつもと変わらない日常があった。

 

 

「透子は、その、知ってた? 潮凪先輩のこと」


 どうしてもあのことが私の中にはいつまでも残っていて、狡くもふたりきりになれる移動教室の時間にそんな話題を振ってみた。

 したくてしたわけではないけれど、困るような質問をしてしまった。


「潮凪先輩のことって、なに?」


 知っていてそう聞いているのか、本当に知らないのか。

 ただそれを考えている間に、私はそもそもその答えを知っていることにも気づく。


「そういえば一緒にお風呂入ってたじゃない。ごめん、愚問だった。」

「どういうこと? 礼だけすっきりするして、なんだかずるい」


 すっきりはしてないし、狡くもない気がする。ただ、そういう気持ちにさせてしまったのは申し訳ないと思う。形だけ。

 袖を引っ張る透子のいじらしさに負けそうに……いや、負けた。


「義手だったじゃない。あの人」


 その理解したような表情には、ふたつの意味がありそうに見える。

 そのことだったのかという表情と、知ってしまったのかという表情が。


「あ、あぁ。うん。知ってた」

「そうだよね。……私にだけ秘密にしてた?」

「結果的にそうなってしまってはいるけれど……その言い方はずるい」

「じゃあ、どうして?」

「言えるわけないじゃない」

「こんな私だから?」


 丈の合わない袖をひらひらと振ってみせる。皮肉と自虐と諦観を込めて。

 昔の私だったらこんなこと言ってなかったと思う。いや、昔の私たちだったら、かもしれない。

 酷い顔をしていた。誰も笑えない自虐に自分だけ苦笑にも嘲笑にもよく似た笑みが浮かんで、窓ガラスに写った私は本当に私なのかなんて疑うこともしない。こんな顔もできたんだな、私。


「そうじゃなくて…… 人に向けて言うことではないでしょう。わたしのことでもないのだから。それが礼でもほかの人でも、同じだわ」


 正論は正しいから正論と言うのだろう。それはそこにただ立ち続けているだけで、私を抱き寄せても手を差し伸べてもくれない。ただただその正しさが今は痛くて、目を背けたくなる。

 何も言い返せなくて生まれた吃音的な沈黙は秋風に飛ばされてしまうほど軽くはなく、鈍く重くそこに佇んでいるばかり。


「見えないものは見ようとしなくてもいいし、眼鏡なんてものもかけなくて良いけど……」

「その輪郭をなぞるだけじゃ、誰も幸せになれないわ」


 よくわからないけど、そうなんだろう。

 人間、少し目が悪いくらいがちょうどいい。未だ揺らぐことのない私の持論を覚えていたんだろう、透子は。

 今のままの私ではいけないと言われているような気がして、けれどどう変われば良いのかわからない私は一体どこに向かうべきなのか。


「そう」


 無味乾燥とした空気でできたささくれがどうにも気になってしまう。無意識に指を掻くけれど、心にできたささくれはいつまでたっても取れるような気がしなかった。

 今は透子よりも外の景色を見ていたくて。目を背けながら長い長い廊下に足を進めていった。

 足を動かしていれば着くくらいに簡単であればいいのに。なにもかも。

 山なんてものも谷なんてものも所詮、その後に湧き上がる満足感がすこし大きくなるくらいのもの。傷ついて、涙を拭いて立ち向かわなくては得られない満足感なんて、私は欲していないのだから。

 

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