15話 問2「2人の距離をNとするとき、2人の心の距離を求めなさい」

 レッスン室に入るとまず初めに出迎えてくれたのは私だった。正確には鏡に映った私、だけど。

 スクリーンのように壁一面に貼られた巨大な鏡は、あたかもその向こう側にも空間が広がっているかのように偽りの奥行きを視せる。この教室は見栄っ張りなのかもしれない。


「練習着に着替えたら各自ペアの方と準備運動をしていてくださいね。落ち着いた印象のあるボールルームダンスでも、柔軟を疎かにすると簡単に怪我をしてしまいますから」


 縦に長いこの教室、私達の反対側にはすでに練習着に着替えている先生の姿があった。モニカ教諭とは違う黒髪の、知らない女性だった。

 先生を先生だとわかったのはその言葉でも服装でもなく、立ち姿からだった。背中から首筋にまでかけて伸びるそれは、バイオリンの弓のように見事な曲線を描いていて、糸でつるされたマリオネットを思わせられる。身長は私とそう変わらないはずなのに、この教室の誰よりも背が高いように見えた。

 練習着は事前に配布されていたのでいまさら新鮮味はなかった。袖を通すのは初めてだ。袖が長かったりは……しないわよね? しばらくは勘弁してほしいわ。

 恐る恐るその手をくぐらせてみると、袖は丁度手首にかかるくらいまでのところまでに収まった。

 袖はばっちり。これほど当たり前のことに感謝するのもなかなかない。

 身に纏ったそれは、練習着というよりはドレスと形容した方が近いかもしれない。手首から肩にまでかけて施されたレース刺繍は花をイメージしているのだろうか。可愛らしいデザインに思わずこれからの授業が楽しみになる。しかし、裾はひざ下あたりまでのものであり、これが練習用のものであるということを主張しているようだった。伸縮性の高い素材で作られているのだろうか、練習着は私の左腕だけではなく、上半身全体に張り付くようにして私を包み込み、白く染め上げた。

 試しに鏡の前で回ってみようかしら。うん。なんだか踊り子になった気分。くるりと1周してみると、私に合わせて右の袖も楽しそうに泳いでいた。


「ちょっと、柔軟もしてないのに踊るのは危ないってさっき言っていたじゃない。それに、なんだかわたし抜きで楽しそうにしているし」

「ごめんなさい。練習着がかわいくてつい、ね」


 鏡越しではなく振り返って透子さんを見ると、そこには私の知らない透子さんがいた。

 葡萄ぶどう酒のように深く濃い紫に包まれた貴澄さんは、少女らしさと女性らしさの両方を内包しているようで、どこかファンタジーの世界から迷い込んでしまった人のように思えた。

 いつも幼さを主張していた左目の泣き黒子も、今日は不思議と女性らしい妖艶さを醸し出していた。


「礼さんはわたしと踊るの? それとも、ドレスと踊るの?」

「え、えぇ……」

「……ちゃんと聞いているの?」


 もっとその姿をじっくりと見ていたかった。別に見惚れていたわけじゃない。と思う。けれど、この行為に名前に付けるとしたら見惚れていたというのが1番近いのかもしれない。

 柔軟はとりあえず1人でできる簡単なものから始めることにした。大きく背伸びをしてみたり、足首を回してみたり、腕を伸ばしてみたり。

 運動はあまり得意な方ではないので、これだけでも勝手に運動した気になってしまった。一方の透子さんは、生真面目に柔軟をこなした後も念入りに体をほぐしていた。真面目なのか、ただ楽しみでしかたないのかわからないわね。

 その後も先生から簡単な指導が入った後、準備運動の締めは開脚だった。

 試しに先生がしてみせると、左右に足を大きく伸ばしながらその体を床にペタリと貼り付けている姿に、周りからは思わず歓声が上がった。あの人は私と同じ人間なのだろうか。


「先生みたいにここまでやらなくても大丈夫です。自分のできる範囲でやってみてくださいね」


 やれるところまでやってみよう。そう思って床に目を落とすと、きれいにワックスがけされた床が、青白い照明の明かりを反射させて鏡のように光沢を放っているのが見えた。

 スカートの中が映ってしまわないか、誰に見られているわけでもないけどそそくさと腰を下ろした。身体を押し出そうとするも錆び付いた歯車のようにこれがどうにも進まない。バレイとかならまだわかるけど、ボールルームダンスに開脚は必要なの……?

 頭の中でその必要性について説くも、できないことには変わりないから諦めて透子さんが終わるのを待った。

 まさに先生がして見せたような光景だった。胸から腰に掛けてペタリと床と接しているのは、この教室では透子さんと先生くらいだろう。


「透子さんにそんな特技があったとは知らなかったわ…… 昔何かやっていたの?」

「すこしバレイをね。だいぶ昔のことだから、忘れていたつもりだけど……」

「それではいよいよ始まるこの授業ですが、今学期の目標としては基本的な型で自分を表現することができる。というものです。初回の授業では双方の簡単な型を学び、ペアのどちらがリーダー、パートナーを担当するか決めてもらいます」


 続く言葉は先生の声で遮られたが、聞き返そうとも思わなかった。



 先生曰く、ボールルームダンスの基本はステップではないらしい。そんなのは二の次で、まず1番に大切にしてほしいのは姿勢と目線だとか。

 脚を閉じ、お腹をすぼめて肩を前から後ろにおろすようにして、首を長く引き上げる。この姿勢があって初めて成立するものとも言っていた。

 けど


「動きは堂々と、目線は床ではなく目の前の相手をしっかりと見ることですよ」


(いくらファミリアだからって、こんなに間近で見つめ合うなんてことしないわよ……!)

 躓いたら眼鏡に当たってしまいそうなくらいに寄せ合った体は透子さんの左手に支えられ、空いた右手は私の左手と固くつながれている。私の右腕は、透子さんの肩甲骨に添えるようにして置いている。

 垂れ下がる右袖の心配をしていたけれど、透子さんは「腰に巻かれたリボンみたいで、なんだか可愛らしいわ」言ってくれた。

 物事も捉えようね。


「倉實さん、やや目線が下がり気味ですよ。相手を信頼していれば下を向かなくてもその足取りはわかるはずです」

「わ、わかりました……」


 これ初回の授業よね? 初心者に求めるハードルにしては高すぎないかしら……


「1、2、3。 1、2、3。」


 透子さんは経験者だからなのか、ジッと私を見つめながらも一定のリズムを床に刻んでいた。その足取りは軽やかで、私のぎこちなさが浮き彫りになっているようで余計顔を上げづらい。


「いち、に、さん…… い、いち、に、さん……っ」


 かろうじて付いていくことができているステップも、透子さんを見ているようで見ていないからだ。

 一度意識してしまうと、それはずっと私の頭をついて廻る。

 触れる髪、撫でる吐息、伝わる汗。全身から伝わってくる透子さんに、私は包まれているのか、呑み込まれているのか。それすらもわからない。


「1、2、3。 1、2……ちょ礼さ」

「え? とう」


 言葉の意味を理解するよりも早く、背中に伝わる衝撃が教えてくれた。

 肺だけではなく、私の中に循環するものすべてが押し出されたようだった。思考と感覚が止まり、一瞬、私の中では無の時間が流れていた。周りの音もあるはずの痛みもなく、ただ結果だけがそこに転がっている。


「……礼さん、絶対変なこと考えていたでしょ」


外部からの刺激によってわたしは再び思考と感覚を取り戻した。背中の痛みはじわじわと伝わってくるが、それよりも目の前の彼女からの視線のほうが痛い。


「あはは、ごめんなさい。」


 ご名答。だから否定こそしなかったが、ごまかすように小さく笑う。

 差し出された手をとり立ち上がると、また私達はひとつ、またひとつと床に自分の音を刻み始めた。

(それにしても……)

 透子さんと一緒に選んだ道は、思った以上に前途多難なものかもしれない。

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