15.5話 あたしに為って、誰かを演る
「とても不思議よ。この井戸はね、望みを叶える井戸。願いを言えばたちまちこだまが聞こえて、望みが叶うの」
目に見えない誰かに向けて発した言葉は、狭い部屋の隅々に響き渡り乱反射して、消えた。
ピリピリとした空気が大きく広げた右手の隅々にまで染みわたり、指先は小刻みに震えている。
「はい、ありがとうございます。可愛らしいお姫様って感じがして、とても素敵だと思います。もしかして経験者だったかしら」
まるで小さい子に向けて褒められているみたいで恥ずかしい気はするけれど、嫌な気はしない。いや、先生にしてみれば私たちなんてみんな小さい子なのかもしれない。
先生の言葉を合図に私を取り囲んでいた空気は平穏を取り戻した。砂漠のように乾燥していた空気は潤いを取り戻し、ピンボケしたような景色はその輪郭を取り戻したよう。
「いえ、ただこういうことは慣れているので」
演劇なんて指で数えるくらいしか経験してこなかったけれど、何かを演じるということはもう数年続けてきているもの。なんてことは言えないので好評らしい笑顔を添えてそれとなく反応してみせた。
ただ少し、あたしに為るということと誰かを演じることには違いがあるようにも感じている。似ている部分が多いゆえに簡単には見つけられなくて、違和感と言えばいいのだろうか。あたしの時は緊張なんてしないのに、なぜさっきまで私は緊張していたのだろう。
「表現力が豊かなことは素晴らしいことです。それはここだけでなく、必ずこの先もあなたを助けてくれる武器になると思うわ」
表現力を武器なんて表現したのは、多くの舞台を見てきた彼女だからこそ出た言葉なのだろう。先生は役者から専門の講師に転職してきたらしい。
舞台で役を勝ち取るためには、戦わなければいけない。だからこそ出てきた武器という言葉。普通だったら強みとか支えとか、そういう言葉を選ぶだろうに。
「覚えておきます。それを然るべき時に使えるように。それでは、ありがとうございました」
教室から普段授業の行われている小ホールへはすぐに戻らず、備え付けの水飲み場で少し休んでいくことにした。
照りつける日差しは初夏の到来を教えてくれるとともに、私に向けてのスポットライトのように思えた。
「楽しいには楽しいけど……ね」
なかなかにハードな授業を選んでしまったなと、小さくため息を吐き、ぼやく。
「今年だけ発表なんて、聞いてないわよ」
演劇授業の評価は例年、学期末に先生と個人の間で行われるテストで決まっていたらしい。授業の中で使用した台本の中からひとつのパートを選択して、5分程度の演技で終わるのだとか。
キツいだとかつらいだとかいう話は先輩達から聞こえてくることも無かったし、正直息抜きの授業なんてくらいに考えていた。
けれどそれは、今年も例年通りの授業内容だったらという前提のもとに成り立っている。
祭事委員の方でもうひとつの選択授業、ボールルームダンスの成果を収穫祭で発表することが決まったらしい。あのふたりは今からたいへんだろうなぁなんて考えていたけど、なぜこちらに飛び火することを考えられなかったんだろうと、今は思う。
――であるなら、演劇も成果のひとつとして舞台を披露するのはどうでしょう。
はじめは誰かの思いつきで出た言葉だったらしい。
けれど、この学校は『つまらない』から。そんないかにも『楽しそう』なことを年頃の女の子達が見逃すことはなかった。そして現在に至るのだ。
流石に日差しが熱くなってきたから、(仮)と横に書かれた台本を日傘代わりにして廊下を少しずつ進む。
白雪姫(仮)
だれもが内容を知っているであろうそれが選ばれたのは、自身の身体で表現することに馴染みの薄い『今の子供』でも演じやすいようにという配慮なのだろう。知らない人よりかは、知っている人を演じる方が何倍も楽だ。
その演じやすさは心に余裕を生み、その余裕が表現力に個性を載せてくれる。そうして初めて『私』の演じる『誰か』が成立するのだ。
私の言葉ではない。誰かの言葉。いつどこで、誰がそういったのかはもう忘れてしまったけれど、その言葉だけは忘れられなかった。
ホールに戻るといつもの喧騒はなかったが、代わりにあちらこちらから王子様の声が聞こえたり、小人の声が聞こえたりと耳が忙しい。
誰に何も言われたわけではないけれど、クラスメイト達は綺麗に3つのグループに分かれていた。
1つ目は、オーディション前の人たち。
動きをつけながら数人で台本を読み合っている。セリフを読み終えるたび扉に視線を投げかけている姿には、緊張とほんの少しの恐怖が入り混じっているように思えた。
2つ目は、オーディション後の人たち。
出来栄えにああでもないこうでもないと言いあっていたり、関係のない話に花を咲かせたりもしてる人たち。
私はそのどちらでもなく、3つ目の集まりに足を進めた。
ただただ終わりを待ち続けている人たち。
今年の演劇授業に限っては全員が全員役を与えられるわけではないらしい。音響や照明、脚本までもを生徒に任せると聞いた時、初めてみんなの想像している舞台と私の想像との相違を知った。
そうした人達のオーディションは今日ではない、与えられた課題を提出することで振り分けられるらしい。脚本はなんとなく内容が想像できるけれど、音響や照明はいったいどんな課題が与えられるのだろう。
そこだけは集まり、というよりかはたまたま近くに人がいる、と形容したほうが正しいとも思わせられる様相だった。
「お疲れ様」
「うん」
私を見つけると小さく手を振り、また両手で開いた台本に目を落とす彼女がひとり。
「どうだった?」
「得意なところ、自信のあるパートで良いって言われて、逆に困った」
「いや、そうじゃなくて」
オーディション前の彼女の聞きたいことはその内容だと思っていたけれど、違ったようだ。
台本を閉じ、表紙を指先でなぞりながら顔だけこちらに向けて、続けた。
「誰かの前で演じてみて、どうだった?」
「そんなの――」
いつも演じてるようなものだし、変わるわけないじゃない。とは言えなかった。
いつにもなく真剣なまなざしで私を覗こうとしてくる綾乃に息を呑む。
直ぐに出る言葉なんかじゃなくて、もう一度よく考えてから答えを出すべきだと思わされた。
私にとってはどうでも良いけれど綾乃にとっては大事な気がして、そんなこと考えながら臨んだオーディションでもなんでもないなんて言えなくて、黙る。
「難しいことを聞いてしまったみたい。急に言われてもわからないよね」
助け舟を出してくれたのは彼女自身で、答えないのならそれで良いともとれるよう。多分答えられないのが、今の私の答え。
真剣に向き合っていないからなんだと思う。
このまま彼女のオーディションが始まってしまうとなんとなく後味の悪さに付きまとわれるような気がして、適当に話題を変えてみた。
「……あんたそろそろでしょ。あっちで一緒に練習してこなくて良いの? 」
「準備運動は済ませてある。あとはなりきるだけなんだ」
緊張を吐き出すという意味でも私は最後まで声を出していた方が良いと思っていたけど、彼女は違うようだった。
その姿は台本を覚えるというよりかは、本を読んでいるよう。セリフや動きの指示から読み解いて、登場人物の心まで知ろうとしているみたい。
「腰、悪くするわよ」
「これが一番集中できるんだ」
「そ」
体育座りをしながら両手で開いた台本を読む彼女の背中は大きく曲がっていて、腰が可笑しくなってしまわないか心配だ。けれどそれが良いのなら止めはしない。
「東口さん、準備できたらいつでも来てくれって」
「あぁ、ありがとう。それじゃ、ちょっと行ってくる」
「ん、」
行ってらっしゃい。とは言わず、小さく手を振ってみせた。
去る彼女を見送ると、隣にはついさっきオーディションを終えた子が入れ替わるように座っていた。
「もうちょー緊張した~! 日和ちゃんはどうだった? 」
「もう全然噛み噛み、演じるのってほんっとうに難しい! 」
私もあたしに席を譲ることにして、その時間は幕を閉じた。
その夜は眠れず、ただただ無駄な時間を過ごしていた。
それは高揚感のせいかもしれないし、言いえぬ不安からくるものだったのかもしれない。
「私、お姫様だって」
そのどちらでも良くて、少しでもそれを吐き出したくて出た言葉は遠く聞こえる波の音に空しく攫われていった。
台本に指をなぞらせてみても、実感が湧かない。答えを乞うても何も出ず、クシャっという簡素で淡泊な音が響くだけだった。
その代わりであったのかは知らないけれど、衣擦れの音が遠くから近くへと、止まることを知らずに近づいてきていることを片耳で感じた。
「あ、綾のっ……? 」
「しっ、先輩たちが起きてしまう」
衣擦れの正体は彼女だった。
眠っていたかもしれない私に対してはどうでもいいって言うの?
それとも、私が眠れないことを知っていたのだろうか。
無言でベッドの端へ転がると、空いた隙間を綾乃が埋めた。彼女に背を向けるようにして寝ているけれど、スルスルという衣擦れとシーツの擦れる音や、背中や肩に時々触れる熱が嫌でも教えてくれた。1人分のベッドに2人は窮屈だ。
「こっちを向いてくれないかい? 日和の声が聞こえないよ」
いつもなら相手にしていないけれど、眠くなるまでの間だけ、彼女に顔を向けることにした。
思った以上に近い彼女の顔をまじまじと見ることもできなくて、視線は自然と肌に行く。
(綾乃、首筋にホクロあったんだ。)
首筋から鎖骨にかけての流線の間にあって、薄いナイトウエアからのぞく彼女のそれを見つけると、どこか自分がいけないことをしてしまっているみたいに恥ずかしくなって、強引に視線を上げた。
「それで、なに」
「いやぁ、今日はまだ少し起きていたくてね」
「だったら勝手に起きていればいいじゃない」
「ひとりで横になっているだけだなんて、退屈だろう?」
「だからって……まあ、私も眠れないところだったから、別にいいけど」
いつもの雑談となにも変わらないはずなのに、確実に何か違う感覚があった。
夜のせいなのかはたまたこの距離感のせいなのか、誰も教えてはくれない。この学院に来る前の話、入学から今日までの話。卒業式の後にする思い出話みたいに。
最後を思わせる彼女との会話だった。明日も明後日もその先も一緒なのに、はずなのに、気持ちは揺らぐ。
「お互い主役だ」
「って言ってもあんたはどうせ最後にちょろっとキスして終わりでしょ」
「うまく外すつもりだけれど、もしも本当にしてしまったら、私は私でなくなってしまうかもしれないな」
「なにそれ」
いけないと思いながらも笑い声が出てしまう。時々わけのわからないことを言うのが彼女の癖で、私のツボなのだ。
さっきからよく動く口だ、と思う。黙っていても、適当な返事を返しても勝手にしゃべり続けてくれる分気楽で良いけど……
クスクスと吐息のこぼれる唇についつい吸い込まれる。その薄桃色はいつか見た桜を思わせられる。桜はいつか色を忘れてしまうけれど、彼女のそれはいつまでも色を忘れない。
昨日も今日も美しくて、きっと明日だって変わらない。
レンズ越しに見てフィルムに焼き付けなくたってそこにいる。
もしかしたら変わらずそこに居てくれるものだから、私は惹かれたのかもしれない。
「もしもの話、本当に私が私でなくなったとして、日和は友達で居てくれるかい?」
真剣な顔でわけのわからないことを言う彼女にはさすがに、笑えなかった。
また試されているの? 私は。綾乃は私を試そうとしているの? 嫌だ、なんて言ってもみたかったけれど胸の奥に押しとどめた。彼女に嘘はつきたくないし、試す側の人間にもなりたくない。
「……あんた本当に何言ってんの? そんなの当たり前じゃない。今までも友達で、明日からも友達よ。確かめるようなことは言わないで」
耳元にささやきかけるような優しい言葉は使わない。たとえ話でも二度とそんなことはしてほしくないから。
驚いたような顔をした後に数秒沈黙が鎮座して、受け取った感情を咀嚼し飲み込んだ彼女はどこか安心したような表情を浮かべながら、薄桃色の唇を滑らせた。
「まずは……ごめん。それとありがとう」
前に聞いた衣擦れの音が聞こえる。満足したようでベッドからでた彼女は梯子に手を掛けながらもう一度、ありがとうと呟いた。
「おやすみ」
私という生き物は不思議で、いつもと変わらないはずのベッドに違和感がある。そっと誰かが入ってこれるよう端に身体を転がして、肩や背中に伝わる熱を求めながら、重くなったまぶたを閉じた。
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