26話 春夏秋冬
――やさしいんだね。
この学院に入ってからそう言われることが増えた気がする。
統計をとっていたわけではないけれど多分、そうだと思う。
先生、クラスメイト、ルームメイト、後輩。言われて嫌な気はもちろんしない。
けど、けれど、言われた数だけ雪のようにわたしの内に降り積もるものがあって、ふとした時に、部屋でただただ過ぎ行く時間をひとり浪費している今日みたいな日に、気付かされる。
気を紛らわせようと本棚に目を向けてみてもそこには見慣れた背表紙ばかりが整列していて、立ち上がることすら諦めて枕に顔を埋めてみた。
同じ本を何度も読み返すことは別に嫌いではない。けれど――
「あそこの本は…… ね」
あそこにある本だけはどうしても二度は読もうと思えなかった。
それは多分、開くと同時に閉ざしていた記憶の扉も開けてしまいそうだから、だと思う。
思い出は連想ゲームみたいに紐づいていて、その時にしたこと、した会話、読んだ本、それに触れると心から湧き出る、湧き出てしまうもの。
良い思い出も、悪い思い出も。
どうして人は覚えることはできても、忘れることはできないんだろう。
忘れたフリならいくらでもできる。けれどそれは痛みの引いた傷跡みたいに、髪をおろせば、袖を捲れば、靴下を脱げば、癒えはするけれど決して消えないソレを見て、疼き痛める。
小さなころは、こう思っていた。
大人はそんな傷なんて気にならないくらい強い人達なんだって。
大きくなって、子供から片足を抜け出した今ならわかる。
大人なんてこれっぽっちも強くない。
ただ、逃げるのが少しだけうまくなっただけ。
「あれ、先輩だけですか?」
小白ちゃんの声が聞こえた。うん、という小さな声は枕が全部受け止めてくれたおかげで聞えていないだろう。
「先輩、どうかしましたか?大丈夫ですか?」
ううん、と枕にこすりつけるようにして顔だけ振ってみる。
なにかしなければと思いつつもなにもする気が起こらないこの現象に名前を付けるならば、憂鬱かしら。
わたしの中に自分がふたりいるような、なんとなく気持ちの悪い感じがして、けれどそこから逃れる術をしらないから、動けないでいるのかもしれない。
近づく足音はやがて衣擦れにもよく似た音に代わり、やがて音は消え、初夏に吹く風のような吐息がわたしの肌を撫でた。
「やっとこっち向いてくれた」
ひとり分のベッドにふたり、いつも窮屈だと思っていたけれど今日は、なぜかちょうど良いとまで思えた。
暑いと思ったことはたくさんあるけれど、夏に暖かいと思えたのは初めてだ。多分これは、夏のせいじゃない。
「あなたのせい、ね」
「え、わた、私ですか?」
どうしてこういうときに限って枕はすべてを受け止めてくれないのだろうか。
さらに強く顔を押し当ててみせてもそれだけへこむだけで、何も教えてくれなかった。
「本当にどうしちゃったんですか? 私にだけでも話してくれませんか?」
もはやどちらが先輩かわからない。
昔のわたしならそれに甘えていたと思う。今のわたしはそれを拒むやさしさが、いや、やさしさなんてものではない。それは結局自分のため。
唇にそっと指を当ててからしたわたしの行動は、わたしにもよくわからなかった。
わたしの中のもうひとりのわたしは、昔のわたしだったのかもしれない。
なぜ彼女を抱きしめてしまったのかは今のわたしにはわからないけど、そうしたかったんだろう。
しばらくの間、リズムの違うふたつの心音だけが部屋に響いていた。
あの子はなぜ何も言わないんだろう。何も言ってくれないんだろう。何も言わないでいてくれるのだろう。
こんな状況でこんなこと、友達だって親友だって、家族にだってしたことがないのに。なぜ小白ちゃんにこんなことをしてしまったんだろう。
わたしにとって、小白ちゃんとはどういう人なんだろう。
「私は、絶対に先輩をひとりになんてしませんから。絶対、絶対に」
締め付けられる胸に呼応して強く締めてしまうのを今は許してほしい。
あの子がわたしをどこまで知っているかはわからない。純がどこまで話したのかも知らない。
「好きです。私、先輩のことが大好きです」
「それはライク?ラブ?」
そんなの決まっているはずなのに、どうしてこんなことを口走ったのだろう。聞いているはずなのに、自分で自分に問いかけているようにも聞こえて、もし、片方をあの子が選んだらわたしは……
「……大好きです」
前者でも後者でもなく、あの子は大好きを選んだ。
彼女のやさしさは多分、わたしがよく言われる「やさしさ」とは違うものなんだろう。
だから、だからこそ浸ってはいけない。包み込むように、閉じ込めてはいけない。
わたしはそろそろ、満たされると同時に湧き出る罪悪感に目を向けなければいけないのだ。
これはわたしの為ではなく、あの子の為に。
「ごめんなさい、わたしはあなたの想いに答えることは、できない」
「どうして、どうしてですか?」
「私は他のもの……人みたいにあなたをひとりにはしない、しないです。ずっとずっと一緒に居ます。隣に居ます。どんな時だって。そう、先輩がしてくれたように」
それは表面上のことじゃない。そこに込められた気持ちなんてひっくり返しでもしないと同じとは言えない。
「そういってくれることは嬉しいの。ほんとうよ? それでも、だめなの」
「どうして……」
「わたしはそれで良いのかもしれない。けど、けどね? あなたはわたしに縛られるべきではないの」
「私が縛られる……ですか?そんなこと、された覚えはありません。むしろ私がっ」
「違うの、ねぇ小白ちゃん、聞いて? あなたはわたしの元に居てはいけないの。もっと広い世界を知るべきなの。ここにずっと居ては、いけない」
これはわたし自身に向けても言葉でもある。こうでもしなければずっと、昔のわたしのままだ。
「でも私、先輩が居なかったら何も出来ませんでした。多分今も塞ぎ込んでいて、先輩が救ってくれたんじゃないですか」
「わたしはあなたを救ってないわ。あなたは勝手に救われただけなの。あなたはどんな苦境に立っても立ち直れる。だって、あなたはあなたの味方になることのできる子だし、強いもの。隣で見てきたわたしが言うのよ? 絶対、絶対」
わたしはただ隣に居ただけで、立ち上がったのは自分自身。いいえ、それだけじゃない。先輩のおかげ、クラスメイトのおかげ、いつだってあなたはそう言っていたけれど、救ったのも救われたのもあなた自身。
そんな子はわたしみたいな弱い子に囚われてはいけないの。だから、お願い。
「絶対なんてないですよ……うん。絶対、ありえません」
矛盾するソレに返事はできなくて、腰に回した腕を代わりに解いて距離を置く。
引いた分だけあの子が迫る。縛るわたしもあなたを留める枷だってもうないというのに、どうしてここに居てくれるの?
「仮に、仮にですよ? 私がここを卒業して、もっと広い世界を知って、それでも先輩と居たいと思えたら、その時は隣に居ても、良いですよね」
拒否権も無くただ頷くことしかできなくて、ただそれだけで十分だったらしい。
「それまではただの友達で居ましょう。もっと先輩が笑っていてくれるような、安心してくれるような強い私になるまでは、だから――」
「さよなら、私の大好きな先輩」
首元に熱が灯る。
そこには確かにあったのだ。2秒にも満たない間ソレが触れていた間で、一瞬と永遠がなんたるものかということがわかった気がした。
ソレはやさしくて暖かくて、とても冷たい。だんだんと薄れ忘れていくその感触に切なさが灯り、それさえも消え、漂う煙が徐々に徐々に染み込んでいく。
扉が開き、閉まる音がする。
煙とともに去った彼女の香りだけがそこにあって、ぼやけた輪郭だけを映し出す。
あの感触をどうすれば思い出せるのだろう。
自分の唇に触れてみても、思い出すことはできなかった。
誰かがカーテンを開けたらしい。差し込む日差しは眠りに落ちていた私の脳天を焼き、蝉しぐれはセットしていない目覚まし時計のように、乱暴に私をたたき起こした。
あぁ、朝が来たのだな、と当たり前のことを実感する。いつもならもう二度、三度眠りに落ちていただろうけど、今日からは違う。
「早く準備しないとウチ、置いてっちゃうよ?」
すでに着替えを済ませているファミリアに申し訳なさを感じ、微力ながらも誘惑に対抗してとりあえず、上から着替えていくことにした。
下ろし立ての制服からは秋のにおいがした。もちろん秋服という雰囲気にそう感じただけかもしれない。ソレが季節の移ろいを、時間の流れを強く示しているようにも思えた。
もうあの頃には戻れないけど、進んだ先には希望がある。だから、だから今は歩き続けるの。
制服に袖を通して部屋を出る。外では先輩たちが待ちくたびれたような表情をして立っていた。待ってくれていたのは、それくらい仲良くなることができているってことで、いいのかな。
「おはよう、月代さん」
「えぇ、おはようございます。先輩」
「ん、憂って小白のことそんな呼び方してたっけ?」
「あらぁ、そうじゃなかった?」
「小白、今日一緒にお風呂入ろうね。その、聞きたいことがあるから」
「私もそれ聞きたいんだけど」
「あいにくですけど先輩、今日はウチ『お部屋ルール』を行使しますよ」
「策士め……」
春からの半年間で私たちの関係は変わっていった。そしてこれからも変わっていくだろう。
それを怖いことだとも寂しいことだとも思わない。
だって、だって。
――その先には、あなたと居る未来があるのだから。
小白日和 了
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