30話 瑠璃色の地球

「生まれつきなんだよ。これは」

 

 袖の上から撫でる無機質とは長年付き添ってきたのだろうか。成長に合わせてどれくらいの頻度で付け替えるのかも、その間にどれだけの愛着が湧くのかも私にはわからない。そもそも偽物のそれに愛着は湧くのだろうか。憎悪とも行き場のない怒りとも言える感情に包まれてしまいそうだと思う。

 冷えた金具が曲がるたび、袖の内から聞こえるキシキシという音に嫌でもその事実を見せつけ、いや、聞かせられている。

 

「これを幸いと呼ぶことすら躊躇したこともあったけど、一般的に利き腕と呼ばれる方じゃなくてよかった。どちらがコレでもそう変わりはなかったのかもしれないけど」

 

 たしかにこれは不幸中の幸いとも言い難いもので、ただ幸せとも言わなければ不幸とも言わない先輩は私よりも強い心を持っていると、それだけは知ることができた。

 撫でるソレも拒絶し持ち合わせなかった私はただそこを見つめているだけで、袖は頼りなく風に吹かれ細々と揺れているだけだった。心まで冷えてしまったのは夜風のせいだと思いたかった。

 

「その、ごめん。利き腕じゃないだけ君よりもとかそういう意味ではないんだ。それだけは……」

「大丈夫です。今はもうこっちも利き腕みたいなものですから」

 

 それに、そんなことを言う人じゃないなんてことは、知っていますから。

 騙そうとは思っていなかったんだ。結果的にそうなってしまっていたのかもしれないけど。

 

「翡翠と話していてね。わざわざ教えるようなことでもないし、気付かれたら話そうって。おもしろいことでもないからね」

 

 実際つい最近までその事実を私は知らなかった。知ったところでおもしろいとも思うはずもなく、感情的になってしまっていたけれど先輩たちの判断は正しいようにも思えてくる。年度が変わってファミリアも変わればそこまでだ。先輩のソレを知ることなく過ごす未来もあったのかもしれないし、それを願っていたのかもしれない。

 気にしていないと言っているしそうだろうと思わせられる立ち振る舞いはあったけれど、根幹には私と同じように、どこか後ろめたい気持ちは潜んでいたのかも。

 それを私は暴いてしまったのだ。それが故意であるかは関係ない。

 

「先輩も私と同じように、それが理由でここに?」

「君の理由を聞いたことがないから何とも言えないけど、多分違うと思う。逃げたい一心で私はこの学院に来た。死んだ自分を抱えて、社会からも家族からも束縛されないモラトリアムを求めて」

 

 言葉尻がいつもより強くて、妖精と呼ぶにはあまりにも人間臭い先輩がそこには居て、妖気も羽根も今の先輩には見られなかった。

 モラトリアム。言葉の意味は知っているけれどそんなことは考えたこともない。

 大人になるための準備期間であるとか社会的に認められた猶予期間であるとか、その解釈は人であるけれど自分の中にはまだ定まったその意味はない。

 私は父親の厚意からこの学院に来た。傍に居てやれない自分のために寄り添って、支えてくれる友人ファミリアに期待を寄せて。それは家族から決して逃げるために下した判断でないことは明らかで、たしかに私と先輩は同じ理由でここに来た訳でもなさそうだ。

 聞けば聞く度聞きたいことは増えるばかりで、ここまでは一夜限りの物語のまだまだ序章にないということを思い知らされる。

 追い返すように強く吹く海風は真実を秘匿したがる隠匿者のよう。けれど私はポリシーを捻じ曲げながら語り部に言葉を返す。

 ――先輩。

 

「死んだ自分って。なんですか」

 

 私の視線が先輩と捉え、先輩の視線が私を捉え、その瞬間は、世界から温度が消えていた。

 小さく漏れた声は喉から出かかったなにかをせき止めた為だったのか、声にならないなにかが漏れ出したのか、おもむろに義手を外しだしたのは覚悟の現れだったのかもしれない。

 

「自慢というか皮肉というか、家は代々服飾の名家でね、地元だと結構有名だったんだ。ひとつひとつ手作業で産み出し纏われ、その伝統は子へ子へと紡がれていく。母親のお腹が膨らむたび私への期待も膨らんだらしい。産まれてくるまではね。片腕のない子が伝統を引き継げるかどうかなんて火を見るよりも明らかで、ようするに疎まれていた」

 

 そんな理由でなんてことは口が裂けても言えず、自然と袖をつまむ指に力が入る。

 

「どうしてこんなことに、家族も親戚も口々に言っていたよ。流石に娘では言わなかったけど、ふすまのひとつやふたつなんてあってないようなもので毎日のように聞かされてきた。私だってそう言いたいよ。どうしてこんなことに、どうしてこんな家にって。4歳のころには妹ができた。周りはそれはもう喜んでいたよ。多分、私の時よりも。あの子があの家にとっての第一子であって潮凪の名前を継ぐ唯一の娘だったんだと思う。あの子が産まれたと同時に私は死んで、座敷わらし同然の私は家を出て、家族を捨て、いや、家族に捨てられて逃げてきた。だから私は既に一度死んでいる。そういうこと」

 

 そういうこと。他人事のように吐き捨てたのはせめてもの自衛だったのかもしれない。それまでの生活が辛くて辛くて仕方がなくて、そんな過去から未だ逃げ続けているみたい。

 産まれてくる子に対しての期待なんて当たり前でありふれたもので、けれどこんなにも残酷な想いを孕んでいることには気付けなかった。

 どう受け取れば、どう言葉を返したら良いんだろう。

 ゆらゆらと揺れる白熱電球はなにかを暗示しているようにも見えた。それは聞いている私か、話している先輩か。

 

「ここでの生活は…… どうですか」

「悪くはない。帰りたくないと思える頃には。ただそう思うたびに私はどんどん丸くなっていって、なにかになりたかったことすらも忘れて何者にもなれずに生涯を終えてしまいそうで、少し怖い」

 

 なりたいものなんて今の私にはないし、そんなことも考えたことはない。そのうち嫌でも考えさせられるのだから今は、と思っていたけれど先輩は違うよう。つくづく違いを見せつけられているようだ。

 

「なりたいものがあったんですか?」

「それは目的のための手段に過ぎないけど、服飾デザイナーになりたかったんだ。思いついたときと比べたらその情熱はもう灯火くらいになってしまっているけれどね。逃げて逃げてここまできたのに目指してる先は結局そんなところで、自己矛盾に囚われてしまいそうだよ」

 

 当たらずとも遠からずといったところか、その言葉を聞いて頭に浮かんだのは復讐だった。表面だけなぞればそれは似ている感情なのかもしれないけれど、野球で言えばボール球くらいの違いはありそうだ。

 辛そうな表情を浮かべる先輩にどうしてか手は伸びて、指の隙間を埋めるように滑り込む。熱い、熱い、熱い。特別指が冷えていたからではなく、これは先輩の熱だ。熱さだ、情熱だ。灯火なんかじゃない。こんなにもまだ燃えていて、諦める理由を探す必要はない。先輩は、彼女は、潮凪満は、進むべきだ。

「先輩は、先輩はひとりじゃありません」

 だから言う。告げる。その言葉を。

 あの春の日、まだ冬の名残の残る岬で、心まで冷えた私の心を暖めてくれたそれを。今度は私がかける番だと思ったから。

 触れた指は少し跳ねた後、受け入れるように確かめるように私の指をなぞる。くすぐったさに漏れた声は少し恥ずかしかった。

 

「うん、ありがとう」

 

 先輩は私の方を向いてはくれなかった。

 けれど、優しく握り返してくれた右手と少し上ずった声だけで十分だった。

 

 

 

「本題からかなりずれてしまったね」

「いいんです。もう、いいんです」

 

 流石に寒さに堪えられず学院に向かう私たちは日没直後か、あるいは明け方のような曖昧な笑みを浮かべていた。

 

「先輩。ここでの生活は…… どうですか」

 

 改めて聞いたことは覚えているけれど、冷たさに固まらずゆっくりと落ちていく瞼を支えることに必死で、なんと言葉が返ってきたかなんてことは覚えていない。けれど先輩はきっと、こう返してきたはずだろう。

 ――あぁ、最高だね

 忘れても消えはしないだろう、今日のことも、あの熱さも。

 

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