4話 択一

 貴澄さんが教室を出てから、いったいどれだけの時間が経過しただろう。10分かもしれないし、実は3分しか経過していないかもしれない。

 次に呼ばれるのが私だと思うと、ひとり15分の面談時間が無限のように感じられた。まるで世界が凍ってしまったかのようだった。今は教室に掛けられた時計の針だけが乾いた音をたてながら正しく時を刻んでいる。

 ファミリア選考の面談は、出席番号順にクラスメイトを隣の空き教室へ呼び、担任であるモニカ教諭と1対1で対話する形式で行われる。一応、入学前にファミリア選考に際しての事前調査と称する筆記課題が出されていたのだが、おそらく書面からは感じ取られない生徒たちの内面を肌で感じ取るためなのだろう。

 対策をするにはあまりに短い時間の中で、私はただ聞こえてくる音に耳を傾けることしかできなかった。


「なんだか入試の時を思い出してしまうようで、気が滅入るね」

「まったくよ! 入学前に書かされた事前調査アンケートの意味がないじゃない」


東口さんと……この学校に来てから聞いた一番元気の良さそうな声はいったい誰なんだろう。

気にはなっても私の視線は時計から外れることなく、ただ聴覚を研ぎ澄ませ続けていた。


「紙に書いた自分なんて、いくらでも偽れる。それが素顔なのか仮面なのか、それを見たいんだろうね。まあ、何のための入試面接だったのか。とは思うけどね」

「けど、今回は落ちるも受かるもないんだし、テキトーでも大丈夫でしょ」

「おいおい、これで三年間一緒に暮らす相手が決まるんだ。いいのかい?」

「いいよ、別に。変に気合を入れた私よりも、取り繕わない、いつもの私と気が合いそうな人と一緒に暮らしたいもん」


(取り繕わない、いつもの私)

 この15分で3年間寝食を共にする友人が決まるのだから、自分の気持ちに嘘をつくようなことはしたくない。いや、むしろ自分の気持ちを正直に伝えることこそが最適解なのかもしれない。

――私は、私の思いを伝えるだけでいい

 そう考えただけで、私の肩に乗っていた重荷はどこか遠くに行ってしまったようだった。凍っていた世界は暖かさを取り戻し、規則正しく動く時計の針は私の耳に心地よい音を運ぶ。


「ははっ、そうかい。君らしいね」

「もう私のことを知ったつもりなの? 私、そんなに底の浅い女じゃないんだけど」

「ぶふっ……」


この子にはどんな自信があってそんな言葉が出てくるの⁉

あまりにも突然のことでつい吹き出してしまった。二人分の視線が肩に突き刺さって心が痛い。


「倉實さん、いったいいつから聞いていたんだい?」

「くらさねさん?」

「あぁそうか、君はまだ倉實さんと話したことなかっ……」


東口さんが言い終える前に、教室の扉が開く音を聞いた。最高のタイミングに、彼女が帰ってきてくれた。


「次、倉實さんの番よ。準備ができたら隣の空き教室に来てほしいって」

「あ、う、うん! ありがとう貴澄さん。東口さんもまた今度、じゃあ」

「行ってらっしゃい」


 小さく手を振る彼女のその言葉が、立ち上がろうとしていた私の背中を押してくれた。

――行ってきます

 そう心の内で唱えながら私は教室を後にする。

 


 どうやら私はこの面談を堅苦しいものだと勘違いしていたらしい。


「そう、クラシック音楽が好きなの。先生もここ最近聞き始めてね、ドビュッシーとかよく聞くのよ」


 始まってからというものの、聞かれたことは子供のころ好きだったことや現在の趣味、好きな音楽などというわざわざ15分もの時間をとってまで教師と話すようなことではなかった。


「わ、私もドビュッシーの音楽は好きです。特に月の光とか……メジャーすぎるかもしれないですけど、暖かみのなかに確かに残っている悲壮感を表現されていて、あの曖昧な世界観に溺れていたいって思ったこともあります。それで……」


 ふふ、とモニカ教諭の笑い声で私は私の世界から目を覚ました。


「あっ、すみません。そこまでは聞いてなかったですよね」


 まさに穴があったら入りたい状況だった。私だけ浮かれてこんなにペラペラ喋ってしまって……


「いえいえ、倉實さんがこんなに楽しそうにお話してくれる所をみていたらうれしくてつい、ね? ほら、その……辛い思いもあったでしょうから」


 急に声のトーンと視点を下げたモニカ教諭は、自分からしてもあからさま過ぎたのか、ばつの悪そうな顔でうつむいていた。

 右腕の話になることは覚悟していたが、聞き手にそんな顔をされてしまっては私の言葉も喉の奥で絡まり、何も言えなくなる。

 話に華が咲いていたこの教室に沈黙が訪れた後、それを最初に破ったのはモニカ教諭だった。


「あまり聞きたくない話だろうけど、少し我慢してくださいね?」私をあやすように声をかけると、続けて「右手が不自由でしかも寮生活だと、どうしても倉實さんの生活に支障が出てしまうと思うの。だからその……ファミリアの方にはともに生活することに加えて、あなたの介助も頼もうと考えているの」


 介助。今の私は1人でろくに体も洗えないし、ワイシャツのボタンさえ留めることができない。入学前は祖父母に介助をしてもらうことでかろうじて普通の生活を送ることができていた。

(普通の生活……)

 親でもなんでもない、他人であるファミリアは、他人である私を受け入れてくれるだろうか。それで迷惑は掛からないだろうか。

それとも。

(私は、他人に迷惑をかけることでしか、普通の生活を送れないというの……?)

 新しい環境での生活。ただでさえ不安があるはずなのに、それに加えて「私」なんていう不安要素、受け入れてくれる人はいるのだろうか。

(君は1人じゃない)

 脳裏によぎったのは、岬で贈られた言葉。

(あの人だったら、こんな私も受け入れてくれるのかな)

 名前も学年もわからない彼女だけれど、また会いたい。そしてこんな私を受け入れてほしい。そう思えた。


「倉實さん?」

「ひ、ひゃい!」


 悪い癖だ。思考に没頭していたらしい。意識外からの呼びかけに思わず卒倒してしまうところだった。


「ごめんなさい。気分でも悪くしてしまったかしら……」

「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていて」

「それでね、できれば倉實さんにはすでに仲の良い子とファミリアになってもらった方が良いと考えているのだけれど……もうお友達は作れた?参考までに聞かせてくれないかしら」


 赤の他人よりは受け入れてくれそう。もっともらしい提案だった。幸いお話しすることができたクラスメイトだっている。


「き、貴澄さんと東口さんとは、仲良くなれた……気がします」


 少し自信はないが、少なくとも私からは仲の良い人という認識である2人を挙げると、モニカ教諭はうれしそうに


「あら!それはよかったわぁ!お2人とも穏やかで優しい方ですし、きっとこれからも倉實さんと良い関係を築いていけると思うわ」


 東口さんが穏やかなのかはこの際考えないとしても、2人はとても優しくて魅力的な人に映った。私に話しかけてくれたし。


「そうなると倉實さんのファミリアは多分お二方のうちのどちらかになるとは思うのだけれど……参考までに貴澄さんと東口さん。どちらの方とこれから一緒に生活したいと思う?」


(それを決めるのがあなたの仕事じゃないの!?)

 最後の最後にとんでもない決断を迫ってきたモニカ教諭をよそに、私は思考を巡らせた。

 ――貴澄さん

 不安だらけだった私に初めて声をかけてくれたクラスメイト。可憐で真面目そうで優しい……私の初めての友達。

 ――東口さん

 どこか懐かしさを感じさせられた私の「同胞」。お嬢様だらけのこの学院で見つけた一般家庭勢。不思議と彼女の前ではなにも緊張せずに話すことができる。自分でも信じられないほどに。

 考えれば考えるほどにどちらかを選ぶことができなくなる。私はどちらがファミリアになってくれても嬉しい。私は人を選べるような立場じゃない。それでも私は


「私は――」

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