2話 陽光
その鐘の音は私にとってはまるで
急いで校舎に向かって走るが、校門から生徒は1人も見えなかった。もう全員教室に集まっているのだろうか。
――初日から遅刻はさすがにありえないでしょ! こんなことなら岬に立ち寄らなかったら……
良かった。のだろうか。頭に浮かんだのは妖精のように美しかった「彼女」だった。
あの人も新入生だったのだろうか。いや、彼女の口ぶりから察するに上級生だろうか。あれで同級生であったなら、私は私の幼さに打ちひしがれてしまう。
岬であったことを考えながらも、私の足が止まることはなかった。
――ただでさえ悪目立ちするのに、これ以上変に目立ってしまったら完全に浮いてしまうじゃない……それだけは絶対に嫌。
不自然なまでの静けさが、私の焦燥感をより一層引き立てる。聞こえてくるのは荒い息遣いと胸の鼓動だけだった。
「す、すみまっ!」
教室のドアを勢いよく開けると、一斉に視線がこちらに集まった。他の生徒は全員揃っており、修道服を着た女性が入学式前の挨拶をしているところだったらしい。
「せん……少し迷ってしまって、遅れました」
本当のことは言えない。喉の震えに呼応して、体の震えも一層大きくなる。
「あらあら、まあ初めての場所ですし、迷ってしまうのも仕方ないですね。ええと……」
「く、倉實。
「あぁ、倉實さん、倉實さんですね。では……
柔和な笑みを浮かべながら、修道服を着た女性は気遣いを込めた言葉を私に掛ける。
「わかりました」
席に向かう間は、いくつもの生暖かいなにかに舐めまわされているような感覚に襲われた。
ねぇあの子、どうして右腕がないの…… かわいそう……
憐れむ視線、奇怪なものを見る視線、そのひとつひとつが私の胸に鈍く刺さる。触れられているわけでもないのに、私の右肘には嫌な感覚が走る。体内に溜まった嫌悪感をいち早く吐き出そうと、私の胸は他の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに激しく鼓動する。
「さて、全員がそろったということで入学式が始まる前に私だけでも自己紹介をさせていただこうと思います。私は皆さんのクラスを受け持つ担任となりました、モニカと言います」
彼女を見て、改めてこの学校がミッションスクールであることをひしひしと感じた。
黒を基調としたその修道服が醸し出す厳かな雰囲気は、モニカ教諭の柔和な笑顔によって調和を保っているように思えた。
「担当教科は主に音楽と聖書の授業です。みなさんはいままでキリスト教というものに触れる機会はあまりなかったと思います。始めはこの特殊な環境に戸惑うかもしれません。私としても、みなさんが早く馴染んでいけるように努力していきますので、これからよろしくお願いしますね」
――聖書の授業? ミッションスクールであるから当然、そういった授業があることは想定していたけど……具体的に何をどう学ぶか、ということは一般家庭で育ってきた私には想像がつかなかった。
教室に再びざわめきが生まれる。どうやらもともとキリスト教に触れていた人は少ないらしく、多くが私と同じく疑問を持っているようだった。
「先生」
前の席の子、貴澄さんといっただろうか、凛としていて透き通った声が喧噪を引き裂いた。
「聖書の授業と言われても内容が想像つかないのですけれど、具体的にどのようなことをするのですか? 」
「そうですね……」
モニカ教諭は眉をひそめながら少し考えているようだった。おそらく、根っからのキリスト教信者(であろう)の人にとっては、聖書の授業と聞いて理解できないことに対して理解ができなかったのだろう。
「簡単に言うとですね、聖書を読みキリスト教の教義に触れることによって、これからの人生で直面するであろう困難に対し、どう対処していくか、どう生きていくかということについて学びます」
なるほど。小学生の頃に受けた道徳の授業と近しい気がする。
「ありがとうございます。今まで聖書というものに触れてこなかったもので、どういう授業か全く想像できていなかったもので」
「本校の聖書の授業は、聖書に全く触れてこなかった人でも十分に理解できるように、初歩の初歩からお教えするつもりなので、安心してくださいね」
ホッと安堵の胸をなでおろす。いきなりお祈りをしてみましょうとか言われたときには、どうごまかそうかと考えていたけれど、杞憂だったようだ
「さて、そろそろ良い頃合いでしょう。では、5分後に入学式場となっている聖堂に向かいます。おそらく入ったことのない人がほとんどだとは思いますが、緊張せず、リラックスした状態で臨んでくださいね」
聖堂。よく耳にすることはあるが、実際に見たことは一度もない。映画などでよく見るような、木製の長椅子があり、美しいステンドガラスと白亜の壁に囲まれた荘厳な情景が頭に浮かぶ。
――少し楽しみかもしれない!
「楽しそうだね、倉實さん」
ふと、声をかけられた気がした。透き通った声が私の耳をくすぐる。もしかして口に出てしまっていたのかもしれない。私の悪い癖が出てしまった。
顔をあげてみると、そこには屈託のない笑顔でほほ笑む同級生の姿があった。赤縁の眼鏡とくるりと丸まったショートボブは陽光ですこし茶色がかり、彼女の小さい顔をより一層小さく、幼く映し出した。左目の下にある泣き黒子も要因の一つかもしれない。
「あの…えと……?」
「あぁ、ごめんなさい。あまりにもニコニコしていたから、何か楽しいことでもあったのかしらと思ってね。つい声を掛けてしまったわ」と、いうと続けざまに「そういえばまだ名前を教えていなかったわ。わたしは
貴澄さん。私に初めて自分から声をかけてくれた人。これはまさか友達を作るチャンスかしら!?
「こ、こちらこそよろしくね。貴澄さん。私は……」
「倉實さんでしょ?初日から遅刻するなんて、けっこうおっちょこちょい? 」
「ほら、この学校ってけっこう広いじゃない? だから、それで迷ってしまって……」
本当のことは口が裂けても言えない。
「ふふっ、倉實さんって綺麗だし凛としていて、少し話しかけづらい印象だったんだけど、意外とかわいいところがあるのね」
「か、かわっ……?」
綺麗。と言われて思わずドキッとする。同性なのにもかかわらず、言われ慣れていないその言葉に頬は林檎のように紅潮した。それに、かわいいって……かわいい人に言われるとなんだか褒められている気がしない。いや、
「この場合のかわいいって、褒められてる気がしないわ……」
「ご、ごめんさない。気に障ったかしら? 」
「い、いえ、決してそんなことはないの。ただ、ちょっと、ちょっと……ね」
また声に出てしまっていたようだ。せっかく仲良くなれそうであったのに、またこうやって自分から突き放すようなことをしてしまった。
――いつもはここで終わってたけど、ここから挽回するのよね。もう自分のせいで嫌な思いはしたくないから。
(昨日までの私とは違うの、ここで一歩踏み出すの)
「き、貴澄しゃん! 」
「は、はい! ……しゃん? 」
やってしまった。こんな大事な時にまただ。力み過ぎたせいでうまく口が回らない
「ぷ、ふふ……」
唇から隙間風のように笑みがこぼれていた
「ふふ……ごめんなさい。わざとじゃないってわかっていても、あんまりにも倉實さんがおもしろくて。わたしたち、良いお友達になれる気がするわ」
願ってもない言葉だった。
私がいままでこの言葉のためにどれだけ努力して挫折してきただろう。それが今、こんなにもたやすく手に入ってしまった。あの子にとってはなんてことのない言葉だろうけど、私にとってそれはあまりにも大きくて、尊い。
「わ、私も、貴澄さんとはとっても、とっても良い友達になれると思うの。だから……」
「だから、これからよろしく……ね」
「ええ。もちろん」
そう言うと彼女はまた屈託のない笑顔を私に向けた。それはまるで太陽のように温かく、私の心を照らしているようだった。
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