春篇 わたしたちは出会い、邂逅する

倉實礼の一番長い日

1話 開口

 潮の匂いは私の鼻腔に触れ、目が痛くなるほどに鮮やかな海は、どこか私を呑み込もうとしているように思えた。見慣れない土地に、不安の波は私の心に激しく打ち寄せた。


「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい」


 静けさが充満した車内に父の声が響いた。片腕をなくした私は、当然のことながら一般的な高校入試を受けることが出来なかった。そこで父は、口頭試問方式での試験を実施しているネモフィラ女学院への受験を薦めた。

 ネモフィラ女学院。聞いたことの無い名前であったが、創立65年のなかなか歴史のあるミッションスクールであるらしい。海沿いの片田舎にぽっかりと空いていた広大な敷地を利用し作られたそれは、学校というよりは良家の娘、いわばお嬢様方の花園と形容した方が近しいだろう。

海沿いに建てられていることもあってか、この学院にはどこか現実味がなく、絵に描いたような世界が広がっている。そんな世界に私は今日、足を踏み入れることになるのだ。

 こんなただの一少女である私が? 本当に? どこか間違いであってほしかった。これが夢ならば一刻も早く覚めてほしいとまで願った。先刻の父の言葉が頭によぎる。

 新しい生活に不安を隠しきれない私に対しての気遣いの言葉なのだろうが、かえって私の心を迷わせる。帰れるのなら、今すぐにでも帰りたい。受け入れてくれる場所がある。


「だめ、少しでもいい、どんな小さくても、まずは前に進まなきゃ……」


 感情を表に出すのが苦手で、内気で、無口な私だけど、これ以上後ろ向きな選択はしたくなかった。


「それに、これからは1人じゃない。そのためにお父さんもこんな遠いところまで連れてきたのじゃない」

「……僕がこんな仕事早く辞めて、ずっと礼の傍にいてあげられたらよかったのに」

「こんな、なんて言わないで。私なら大丈夫。そのためのファミリア制度じゃない」


 全寮制であるこの学院では、他の学校にはない特殊な制度を導入していた。

 ファミリア制度。

 私くらいの歳の子の多くは、多感な時期であり、学生生活や日々の生活の中での悩みを1人で抱え込んでしまう人が多い。そんなときに傍に寄り添い、ともに助け合える友人を“学校側が作ってくれる”制度。

 隻腕である娘が、他の人となんら変わりのない生活を送れるよう、傍で寄り添ってくれる友人がいてほしいという父の願いが、この学院への受験を勧めたもう1つの理由だとか。友達作りが苦手な私にとっては、生活の助けになるというよりも、友人を“作ってくれる”ことに対して期待を感じていた。

 期待と不安を織り交ぜた私の心をよそに、空は雲1つなくどこまでも青く広がっていた。



「岬が見えてきた、そろそろ着くよ」


 父の運転に身を委ねていると、学院の目印でもある岬が見えてきた。そこには学院のモチーフなのか、結婚式場などで見る小さな鐘楼と、白塗りで西洋風の申し訳程度な東屋のようなものが併設されていた。


「お父さん。ここからは歩いて行ってもいい? 少し風にあたりたいの」

「……父親としては、少しでも長く娘と一緒に居たかったけどね」

「夏休みはちゃんと帰ってくるから。そのときにはちゃんと家にいてよね。今度はどこ?」

「大阪」

「お土産、楽しみにしてるね。それじゃあ……」

「礼」


扉に手を掛け、絵に描いたような世界にいよいよ足を踏み入れようとした時、先ほどとは調子の違った父の声を聞いた。


「なに?」

「いってらっしゃい」

「……うん。いってきます」


ルームミラー越しに見た父は、どこか寂しそうに笑っていた。



「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」


人類史上初の月面着陸を成功させたアームストロング船長の言葉が頭によぎる。彼のような人類単位の壮大な意味ではないが、私にとってこの一歩は、今までに私が踏み込んできたどんな一歩よりも大きいものだった。


(だれか……居る?)


 岬に建てられた簡素な東屋に一人、静かに佇む女性の姿があった。

 白い肌にほんのりと赤みがかったその様はまるで桜のようで。少しウェーブのかかった長い黒髪は、陽光にさらされ艶やかに光る。まるで妖精のような美しさだったが、海沿いということも相まって


「妖精みたい」

「えっ?」


 思わず口に出てしまった言葉は、どこか遠くを見ていた彼女を引き付けた。


「ご、ごめんなさい! そ、その」

(つい口に出ちゃってなんて、とてもじゃないけど言えないわ!)

「君は……知らないな」


 あの人の視線は次第に顔から滑り落ち、やがて私の本来“あるべきもの”のある空間に吸い込まれた。

 ああ、またか。見られることには慣れてきたと自負していたけど、相手が相手なだけあり、思わずその場から逃げだしそうになる。頬が紅潮しているのが自分でもわかる。


「そう、君も」


彼女は私から視線を外したと思えば、そばに置いていた鞄を手に取り、立ち上がる。


「ご、ごめんなさい! それでは……」


その場から逃げ出そうと背を向けた瞬間、私の左腕は無機質のように白い彼女の腕に引かれ、まるで磁石のように彼女の方へと引き寄せられた。肌と肌とが触れ合い、制服越しにでもわかるほどの膨らみが私を受け止める。潮風は彼女の長い髪を揺らし、鼻腔にはかすかなレモンの芳香を届ける。あまりに突然のことで私は硬直し、その場を動けなくなってしまった。


「君はひとりじゃない。私だって……」


 短くも重いその言葉は、氷のように固まってしまっていた肢体をゆるやかに融かしてく。

 どうしてこの人が私にそんな言葉をかけたのはわからない。今はそんなことがどうでもよくなるくらい、心が安らいでいる。


「え、えっと、私だって……?」

「あぁ、いや、なんでもない。それよりも早く行ったほうが良い。君、新入生だろう? 初日から遅刻はオススメしないな」

「私のことは、また会えたら教えるよ。じゃあね」


先ほどまで私の目の前にあった温もりは、その熱を帯びながら学び舎へと足を進めていた。

 学び舎から聞こえる大きな鐘の音を聞き、私も急いで岬を後にした。

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