hand(s)
テルミ
プロローグ 隻腕
その日はひどい嵐だった。風が鈍色の雲を重たそうに引きずるこんな日は、月も雲隠れ。
私を導いてくれるのは、頼りなく明滅を繰り返す切れかけた街灯の明かりだけだった。横殴りの激しい雨は、すぐさまに私を理不尽に濡らし、暴風は傘と私を攫うように吹き付ける。
その度に、役に立っている気のしない傘なんていっそ捨ててしまおうかと思わせられた。
何度も思い、何度も捨てられなかった。
「溺れる者は藁をもつかむと言うけれど、身をもって知ることになるとはね」
その手を放してしまったら、もう二度と歩き出せない気がするから。頼りなく明滅する街灯を頼りに、風の凪ぐ間を縫ってまた歩み出す。その時を待っていたかのように、今日一番の強い風が吹きつけた。
暴風に足を取られた私は、まるで踊り子のように道路に躍り出た。瞬間、明後日の方向からのライトが私を照らし、雨音をかき消すかのようなクラクションのけたたましい音を聞いた。私は宙を舞い、まるで糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
雨風に息を塞がれ、助けを呼ぶことさえかなわずにいた私は、ただただ雨と自分の体から流れる赤黒い液体の交わるさまを見つめることしかできなかった。
だんだんと近づいてくるサイレンの音を聞いているうちに、私の意識は糸が切れるようにそこで途切れた。
朦朧としながらも目が覚めると、視界には薄汚れた白い空間が広がっていた。
天上にしては少し薄汚れているけれど、案外こういうものなのかしらね。意識が覚醒し辺りを見回してみると、そこには涙を流しながら私を抱きしめる叔父の姿があった。
「私、生きてたんだ……」
けれど、どこか現実感がなかった。長い夢を見ていて、それがまだ続いているような、そんな感覚。
顔をあげると広がる、見知らぬ病室。
向こうのベッドで寝ている、見知らぬ大人。
窓から見える、見知らぬ景色。
深呼吸をすると、乾いた喉を傷つけるように通り抜ける空気を感じた。そのおかげで、ここはもう夢の世界ではないと、なんとなく思った。
そばに置いてある飲料水を手に取ろうと、右手を伸ばした時だった。
コツン。と小気味良い音を立ててペットボトルはそのまま床に落ちた。まだ体の自由があまり効いていないだけ。そう言い聞かせながら床に転がったペットボトルを取ろうとすると、体を妙な違和感が支配した。
いつもなら届く距離、掴める距離。そこに手は届かなかった。否。届く手がなかった。当たり前のように右のびていたそれは、今はない。
現実感なんていらない。
タチの悪い夢であってほしかった。
その事実を認識するまで私はたっぷりと8秒かかった。しかし倍以上の時間を費やしてもその事実を否定することはできなかった。
15の冬、わたくしこと倉實
それからは私にとっては地獄のような日々の連続だった。利き手である右手を失ったことによって日々の生活は一変した。
着替えは今までの倍以上の時間がかかるようになったし、箸はまとも扱うことができず、和食であってもスプーンとフォークに頼らざる負えない。
医者からは義手の使用を勧められたが、私はそれを拒んだ。それを装着することで、「右腕のある私」との決別ができないということと、今まで私の「もの」があった空間を外部からの接続で埋めるという行為にたまらなく嫌悪を感じたからだ。
瞳から零れ落ちるそれを拭う右腕はもう、ない。
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