22.5話 『』

 この学院に来てからというものの、日の落ちた時間というものにあまり良い思い出はない。 

 それは誰かのせいでもない。ただタイミングが悪かっただけなのだ。

 けれど涼風が私達を撫で、雲一つない梅雨明けの宵空に私は、どうしようもなく高揚していた。

 いつかどんな空も「良い思い出」の一枚として刻めるようにしていきたい。昔の私であったら考えられない思考だ。そう思わせてくれたのは、救ってくれたのは誰なのだろうか。


「いえ、私が勝手に救われた気になっているかも……ね」

「どうかした?」


 今宵がその一歩であり、記念すべき一枚目だ。


「なんでもないよ。透子」


 新しい傘を買ってもらうと、雨なんて降っていないのに持ち出したくなるように、意味もなく彼女の名前を口にした。

 全身に熱を帯びているのがわかる。少し呼び方を変えてみただけなのに、こんなにも勇気が要るなんて。


「ふふっ、礼のその呼び方。まだ慣れないわ」


 少し呼ばれ方が変わっただけなのに、こんなにも嬉しいなんて。


「じゃあ、貴澄さん?」

「だめ、透子がいい」

「いいの? 学級委員長さんがそんなにわがままで」

「あら、今あなたの目の前にいるのはどっちのわたしなの?学級委員長としての貴澄さん?それとも、透子?」

「そんなの、わかってる癖に」

「どうせなら直接聞きたいじゃない」


 どうやら隣にいる透子という女の子は随分とわがままなようで、質問のようにも聞こえる誘導尋問に、思わず頬が緩んだ。

 かすかに聞こえる、鼻歌にもよく似た彼女の声は楽しそうだった。私で遊んでいないかしら、あの子。

 街灯もない東屋への道は薄暗く、足音と声だけが隣に彼女がいることを教えてくれる。

 心もとない月明かりは今日の私にとってちょうど良い。そのおかげでこんな、他人に聞かれてしまったら恥ずかしいことも、話せてしまうのだから。


「じゃあ、さ。今私の目の前にいるあなたは、どっち?」

「そんなの、決まっているじゃない」

「どうせなら私も、直接聞きたいわ」

「……もう」

「ふふ、冗談、冗談よ。透子」


 数秒の静謐は余韻となり、私の中に溶け込んでいく。

 確かめるように、何度でも呼びたくなる。

 いじけたような口調の彼女もやはりどこか楽しそうで、それだけで心が満たされた。

 丘陵を登るにつれ水面に沈む月の、幽かな底光りが私達を照らしだす。


「街灯も何もないからもしかして、って思ったんだけど……」


 視力の問題なのか、はたまたタイミングの問題なのか。いつか見た星空のような光景はそこになく、あったのはぼんやりと、かすかに揺れ動く点だった。


「う~ん……」


 東屋の丸ベンチに腰掛け、彼女はぼんやりと空を見つめていた。目を凝らすわけでもなく、ただ、ぼんやりと。


「あれ、星じゃなくて人工衛星じゃないかしら。ほら、よく見て」


 片手で点を指さし、もう片方で私を手招きした彼女に促されるまま腰掛けた。

 こんなに近くにいるのに、今、世界で一番近くにいるのは私のはずなのに、彼女を見ることは彼女の指先が許してくれなかった。目を凝らして指さす点を眺めていると、徐々に徐々に位置を変え、唐突にその姿を消してしまったのだ。


「ね? 最近は日が長くなってきたし、まだ星が見えるような時間じゃないだけよ。きっとおはなししているうちに、素敵な星空が出来上がってるわ」


 ソレが見えなくなっても私と彼女との距離が離れることはない。むしろ、迫る彼女の膝が、指が、顔が、彼女の「おはなし」に孕む意図なんてわからないけれど、いや、わかろうとするために、わかりたいから、委ねてみる。


「えぇ、そうね。「おはなし」でもして、夜空を待ちましょう」




 自業自得ではあるけれど、薄手のナイトウェア越しに伝う涼風に、涼しいを通り越した若干の寒さを感じさせられた。

 梅雨を越え、初夏を迎えた今でさえそう思わせられるのは、夜間に外出をするような子に向けて作られた服ではないからだ。背中越しに伝う罪悪感が私を震わる。

 ただ、なにも悪いことばかりではない。

 私の膝を枕替わりにする彼女の髪が、重さが、ぬくもりが、いつも以上に感じられるのだから。

 眼鏡は机に置かれ、中立的に私と彼女とを隔てていたレンズ無き今、文字通り私は彼女を独り占めしていた。

 左目の泣きボクロを撫でてみせると彼女はくすぐったそうな顔で笑い、私のお腹に顔をうずめてしまった。


「もっと見せてくれてもいいのに」

「そうやって撫でられると恥ずかしいもの」


 お願い。と言うと彼女は大きく深呼吸し、ちょうど次に来る波の音が止む頃にまた、愛らしいホクロと一緒にその顔を見せてくれた。私を堪能した彼女はどこか満足げで、このまま帰ってしまっても良いのではないかとも思わせられた。


「あ」


 今度は私が堪能する番だと思っていたのに、急に立ち上がった透子はふらふらと、裸足で東屋を出た。


「見て!  礼の言う通り、やっぱりここは最高のスポットよ!」


 汚れなんて気にせずあちらこちらを見まわして、楽しそうにくるくると踊る彼女は、夜空を纏っていた。

 靴を履き、促されるままついていった先にある光景は、いつか見たインドアプラネタリウムとは大違いの煌きで、思わず目を心を奪われそうになる。


「靴くらい履いておかないと、汚いよ?」

「どうせこの後お風呂に入るのだから、それくらい大丈夫よ。それよりも見て。あのひときわ輝いている星なんて、素敵じゃない?なんていう名前なのかしら」


 指先の、人工衛星ではない本物の星々は白、青、黄と輝いていて、あのひときわ輝いている星の名前をなぜか私は、知っていた。


「ポルックスね。その隣にいるのがカストル。どちらもふたご座の星なの。時期はちょっと……この時期はあんまり見えないはずなんだけどね」

「詳しいのね。星、好きなの?」

「好きだけど……これはたまたま知っていただけ。ほんとうに素敵だわ、ほんとうに」


 木目の染みとは似ても似つかないけれど、位置はぴったり。

 これだけの星々の中からよりにもよってふたご座を選ぶだなんて、よくできた偶然ね。

 死ぬ時も一緒でありたいと思えるくらいに誰かを愛しているかと問われると、簡単に答えは出せない。

 ついこの前であったらすぐに否定していたはずなのに。

 死ぬ程までとはいかないかもしれない。昨日今日で変わるような私ではない。


「透子」

「なに? 礼」


 けど、けれど。

 明日の自分は今日よりも、誰かをもっと愛せているような、そんな気がしたのだ。


「――月も、綺麗だね」




 髪が伸びてきた。

 この学院に来てから一度も髪を切ってこなかったものだから、首筋くらいまでに伸びていたソレはいつの間にか肩にもたれかかっているし、風に吹かれると私の鎖骨をくすぐるいたずらものなのだ。そんな悪い子に育てた覚えはないのだけど、ソレもまた、私に育てられた覚えなんてないのだろう。

 ナイロンの肌を流れるスルスルとした感触に包まれた後、シュッ、シュッっと髪を濡らす音を聞いた。


「本日はどのようにいたしましょうか」

「店長さんおすすめでお願いします」

「オススメ、オススメ……こういう時ってどうすればいいのかしら……前髪バッサリとか――」

「ごめん透子、その、失敗しなければ何でもいいです。ほんとうに、えぇ」


 ここでおかしな方向に走らないのが透子だと思っていたけれど……先行きが不安だ。


「じゃん。今日は相良先輩からカット用のハサミを借りてきました」


 ちゃきちゃき、と空を切って見せるその仕草はかえって不安になるからやめてほしい。私は一体どこで間違えてしまったのだろう。前髪を指で引っ張って見せた時からだろうか。それとも、彼女の提案に乗ってしまった時だろうか。


「私、その先輩知ってたっけ?」

「う~ん……顔は見たことあるかもしれないけれど、名前は知らなかったかもしれないわね。同じ生徒会の人で、普段は道具なんて貸してくれないのだけれど……月代さんがファミリアらしくて、いつかのお礼としてなら、ってね」


 生徒会ということは、透子と一度すれ違った時の集団の中にいたのだろう。その中のどれが相良先輩という方なのかはわからないけれど。

 相良先輩の話から生徒会の話へ、学院生活の話から私達の話へ、これまでの話からこれからの話へ。一回、二回と髪にハサミが入るたび、私にとっても彼女にとっても、今日は特別な日になるのだと、思わせられた。


「ねぇ――」


 一拍置いて口を開いたのは、私。


「私達の関係ってよく考えると、不思議じゃない? 友達、も少し違う気がするし、親友、恋人……? う~ん……」


 私達って何だろう。考えてそうで、いままで考えてこなかったことだ。好きだけど、それは恋人とも親友とも形容してみても、いまいち当てはまる気がしなくて、聞いてしまった。


「ふふっ、そうね。でも、わたしは良い名前があると思うけれど」

「なに?」

「――」

「ふふっ、まあ、今はその呼び方でもいいかもしれないね」


 本当は関係に名前を付ける必要なんてないのかもしれない。けれど、あえてそれに名前つけるのなら、とりあえず今は、私もそう呼ぼう。

 ――『ファミリア』と。


偽花風景 了

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