17話 問4「籠の鳥は空翔ける夢を見るか、あなたの意見を書きなさい」

 流石にこの時期にもなると授業終わりのレッスン室はサウナ室のような熱気に包まれる。滴る汗と張り付く髪の毛が気持ち悪い。

 張り付く練習着を直ぐにでも脱いでしまいたかったけれど、今日はもう少しだけ付き合わなければいけない。


「先生」


 タオルで軽く汗を拭い、レッスン室を出て行こうとする先生を呼び止めた。


「はい。あら、たしか……倉實さん?」


 まだ2回しか授業を受けていないのに、名前を憶えてくれたのは先生が勤勉な方なのか、それとも、派手に転んだ私の印象が強かっただけなのか。前者であることを願わずにはいられないけど。


「授業時間以外、例えば放課後にも練習をしたいと思っていて……」


 収穫祭での発表会。先日の会合で言い渡された”アレ”はまだ決まった訳ではない。けれど、あの空気の中、もはや選択肢なんてものはあってないようなものだろう。

 私がこれから考えるべきことは「如何にして醜態を晒さずに終えられるか」


「他にここを使うところがなければ大丈夫ですけれど......どうしたの?」


 敬語の中に織り交ぜられた「どうしたの?」は、先生と生徒の間に敷かれた境界を曖昧にする。

 練習後の汗は肩まで伸びた先生の髪に煌きを散りばめ、滴る様はまるで流れ星のようだった。


「実はその、他の子と比べて私、全然踊れてなくて......私のせいで透子さんの足まで引っ張りたくなくて私、もっとうまくなりたいんです」


 実際は引っ掛けてしまったのだけれど。

 一瞬、ジメジメとしたレッスン室の空気がピリッと乾いた気がした。先生はしばらくすると潤いを保ったその唇を動かした。


「初めは誰でも転んでしまうこともあるし、全然恥ずかしいことじゃないのよ? 大丈夫。それに、今のうちに沢山失敗をしておけば、3年生になった頃には立派なダンサーになれるわ」


 決して私が失敗していることを否定しない。失敗としっかり向き合うことが大切ということを言ってくれているのかもしれない。刺さる言葉には、先生の優しさとほんの少しの痛みが含まれていた。


「でもね、パートナーの貴澄さんと比べて自分がどうとかそういうことは、あまり考えてほしくないの」

「それは……なぜですか?」

「たしかに、ボールルームダンスは2人で踊る競技だから、もちろん実力差やもともとの体の作りの違いとかはあるよ」


 授業の時よりも真剣に先生は私を見つめながら続ける。怒られているわけでもないのに私の手のひらは冷たく濡れていた。


「れど、けれどね? 同じ舞踏室の床を踏む以上、2人は対等でなければいけないの。貴澄さんと比べた自分が嫌だから練習したいということだったら、それは受け入れられない」


 対等でなければけない。簡単そうに見えて難しい言葉だ。それを先生が理解していないわけではない。理解したうえで私に求めていることなのだろう。スポーツでもなんでも、2人で取り組む物事の出来は感情に左右されることが多く、その中でもボールルームダンスは顕著に表れる。前回の授業でもそれは体で理解した。

 パートナーに対して、透子さんに対して負い目を感じる感情は呪いと表現してもなんら遜色はないのかもしれない。それを克服することが必要だと言われている気がする。

 それに、負い目というレンズを通して透子さんを見つめるなんてことは、私もしたくない。


「ただ、単純にもっと上手になりたい。楽しみたい。そういう気持ちで練習したいのであれば、先生も放課後は時間とここをあけておくことにするけど……どうする?」


 答えはもう決まっていた。


「よろしくお願いします」


 対等になりたい。足元ではなく前を向きながら、同じ床を踏みたい。だからうまくなりたい。私のために私はこの答えを選んだ。

 私がついているんだから、きっと上手くなるよ。にこやかに微笑む先生の姿を見て、あの厳しさはどうしようもないくらいのやさしさから滲み出ているものだと、知れた気がした。

 


 


 ドアノブをひねろうとしたが、返ってきたのは無機質に響く鉄の音だけであった。鍵はまだ開けられていないようだ。


「早すぎた......かな」


 扉の横に鞄と腰を下ろすと、自然と私は膝を丸め左手で包み込んだ。

 体育の時間は好きじゃなかったけど、この座り方は嫌いではなかった

 球技は当たったら痛いし、体操はぎこちない動きで男子達にからかわれるし、走ると気持ち悪くなるし。良かった思い出なんてものはせいぜい初夏の木陰が過ごしやすい、くらいのものだろう。

 それでも、理由はどうであれそんな私が自分からスポーツ……の練習をしようとしているのは小さな成長かもしれない。


「ただ、それだけに力を入れるというのも……ね」


 開いた鞄から小さく顔を出した国語便覧に、どんな顔をすればいいのかわからなかった。ごきげんよう?

 そう、収穫祭が行われるのは夏休み直前。ということは当然、その前に強固として立ちはだかるアレがある。

 期末試験。

 1年生の春学期は中間試験が存在しないために、これがこの学院に入学してから初めてのテスト、ということになる。先輩の話だと、あまりに成績が悪いと夏休みの予定が補習で埋まることがあるとか。聞いたときは下手な怪談話よりも背筋が凍った。

 娯楽の少ないこの学院で最も愚かなスケジュールの埋め方だと思う。まだお昼まで寝ているほうが有意義よ。

 試験対策や本番の追い込みとかを考えると、こうしてゆっくりできる時間も今が最後かもしれない。

 明日よりも先のことを考えるたびに、私の瞼は1グラムずつその重みを増しているような気がした。気付いたころには抗えず、背中はどんどん丸まり、ひざを畳んでいた腕はほどけそうになる。

 視界が夜の帳に包まれると、今まで聞こうとしていなかった音が洪水のように流れてくる。

 響く楽器の音。近づく足音。布と布とが擦れる音。一番近くに聞こえたのは、カシャッという小さくも響く、乾いた音。

 この学院に来てからは聞いていなかった音についつい耳を傾けてしまう。

 この音を最後に聞いたのはいつだろう。たしかあれは入学前、真新しい制服にまだ着られている感覚があったころ。家族と撮った時以来かしら。

 たった2.3か月前のことなのに、どこか遠い昔のことのように思わせられる。

 ここでの生活がそれだけ充実してる証拠なんだろうか。止まった時間の中で生活していた私は今、自分で自分の時計の針を進められているのかもしれない。

 こうして少しでも前向きに考えられるようになったのが、証拠なのかも。


「あれ、これ本当に寝ちゃってるの……? ちょっとちょっと、大丈夫? 具合悪いの?」


 肩に伝わった二回のノックは、一つ一つは小さくとも私を驚かせるには十分な代物だった。反射的に上がった頭に伝わる衝撃は、夢と現を彷徨っていた私を起こすのには丁度良い、とは言い難かった。


「ちょだいじょ……って倉實ちゃん? 何やってるのこんなところで」


 肩に触れていたものは私の頭をやさしく擦ってくれている。せっかく上がった顔もこうされてしまっては無理やりにでも下げたくなる。

 それにその子の正体がわかってしまったせいで余計に、ね。


「選択授業のダンスをもっと練習したかったんだけど、先生忙しいみたいで」


 多蔦さんは、と言いかけたところで、彼女は首から下げている黒く重厚感のあるソレを向けてきた。

 カシャッ。


「あたし、写真部に入部したんだよ」


 そういえば先日の部活動紹介で見かけた気がする。聖堂や岬、海沿いに建てられた学院。どこを切り取っても絵になるようなこの学院にはお似合いの部活動かもしれない。 休日は部員の人たちで撮影会兼ピクニックに出かけたりするとか言っていた気がする。多蔦さん、アウトドアものは好きそうだものね。


「へぇ。良い写真は撮れた?」

「ちょうど今、ね」


 言い終えると多蔦さんは、私の隣に座り嬉々としてカメラの画面を見せてきた。私の膝は多蔦さんの両腕に挟まれ、カメラは膝上で固定されている。

 聞いてくれたことがよほど嬉しかったのだろうけど……きゅ、窮屈……。 この子にはパーソナルスペースというものがないの?


「名付けて、乙女の午睡だよ」

「いや、そのままよね。わ、私の写真はいいから、他にも見せて?」


 自分の無防備な姿は胸の内にこみ上げてくる羞恥心がある。え、ちょっとこの子何枚私の写真撮ってるのよ。

 しばらく私の写真をスライドしていくと、映し出されたのは力強く羽ばたく海鳥の姿が一羽、ニ羽、三羽。おそらく室内から撮ったのだろう、あえて窓枠まで写すことによって、遠いどこかに向けての飛翔を印象づけているようにも見えた。海鳥たちはどこへ向かうのだろうか。いや、多蔦さんは何処に向かう何をこの写真の意味として込めたのだろうか。

 次に見せてくれたのは学院裏にある森の写真だった。薄暗い森の中、学院へと続く一本の道をまたも海鳥が抜けていくもので、深緑に囲まれた中で羽ばたく白はまさに紅一点、海辺ら少し離れた森にまでその羽を羽撃かせているという意味でも異彩を放っているように見えた。多蔦さんは鳥が好きなんだろうか。


「最後に、これ」


 最後に見せてくれたのは岬の写真だった。どこまでも続いていく海と、またもそこには雲のように白い海鳥達。

 正直、想像していたのは温室の花々や美味しそうなデザートとか、可憐なものがひたすらに何枚も続く光景だった。けれど予想と反して彼女の写真は、力強さを感じさせられるものばかりだ。


「組写真って聞いたことある?」


 画面から目を離し、一度記憶の引き出しを漁ってみたが、見つからない。


「ううん。聞いたこと、ないかな」


 そう言うと多蔦さんは、また初めに見せてくれた写真に戻しながら


「組写真っていうのはね、1枚じゃない、何枚かの写真を組み合わせることで感情やストーリー性を持たせるものなの。実はこの3枚も組写真の一部なんだ」

「へぇ」


 学院から始まり森を抜け、大海原へとその羽根を羽ばたかせる海鳥達。その写真の意味を1枚1枚、別個にして考えようとしていたが確かに、言われてみれば一貫したストーリー性が見えてくる。巣立ちというか旅立ちというか、脱却や成長というものをぼんやりと感じさせられる。一部ということは、ここから更に続きの写真があるのだろうか。それとも、これより前のストーリーがあるのだろうか。


「どんなお話にしようと思ってるの?」

「うーん……」


3枚の写真を行ったり来たりさせながら唸る多蔦さん。私の前を通り過ぎていったあの子の足音が聞こえなくなったくらいで、ようやくその指の動きが止まった。


「今のあたしと、なりたいあたしのお話。かな」


 レンズを愛おしげに見つめながら多蔦さんは、深く息を吸っては吐いて、また吸うと、喉を震わせた。


「この学院に入ってからたくさんの人に会って、たくさんの知らないを知って思ったの。あたしってこの世界のことを知ったつもりでいたけど、全然そんなことなんだなぁって。まだ入学して半年も経ってないっていうのに、思い知らされちゃった」


 だからね。と続き


「あたしもこの海鳥たちみたいに、羽ばたきたい。もっと世界知りたい。そう思って作ったの。スケールが大きすぎるとは思ってるけどね。どう? 未来の著名フォトグラファー多蔦さんの処女作としてふさわしいと思わない?」

「ふふっ。そうね」

「あっ、今あたしらしくないって思ったでしょ」


 そんなことないよ、と返したけれど、正直多蔦さんがそんなことを考えているとは思わなかった。多蔦さんの言っている世界が私の見える範囲でのもとやものを指すのか、それとも文字通りの世界を指しているのかはわからないけれど、知らないから、知りたい。単純なことだけど、なかなか行動に起こせる人はいない。大きさがわからないほど大きなものに立ち向かう多蔦さんの背中にはもう、立派な翼が生えていると、私は思う。


「まあでも、まずはこの学院のことからだよね。身の回りのことを満足に知りもしないのに世界を知ろうだなんてそんなおこがましいこと、できないからね」


 それじゃ、そろそろ行くね。私の膝が解放されると同時に多蔦さんは立ち上がり、小さく私に手を振った。

 多蔦さんの言葉、どこかで似たようなものを聞いたことがあるような気もするんだけど…… 

 まあ、そのうち思い出すわよね。

 また1人になった私は、膝に額を当てながら、今度こそ目を閉じた。


「先生、遅いなぁ」

 

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