8話 倉實礼は思案する

 珍しく今日は早起きだった。

 なぜか忌々しくも愛おしい布団から抜け出すこともできたし、夢と現実の狭間にいるようなふわふわとした感覚もない。

 あるのは圧倒的達成感。私、けっこうやるじゃん。

 眠気との勝負に見事勝利し、勝ち誇っている私を祝福するかのようにそれは鼻腔に届けられた。

 少しツンとした、素朴だけどどこか暖かくて……嫌いじゃないこの匂いは……


「あら、今日はずいぶんと早いのね。効果てきめんかしら」


 声に振り返ると、そこには大きな丸テーブルを囲む3つの影と4つのカップがあった。モーニングであるならば、付け合せもついてくる食堂で摂れば良いものをここでわざわざ摂ることに理由はあるのだろうか。


「言った通りだろう? こういう子にはモーニングが1番って、昔から相場が決まっているんだ」

「経験則だものね。ナギが言うと説得力があるわ」

「翡翠……沈黙は金という言葉を知っているかい?」


 なるほど、無理やり起こすのではなく、起きたくなるような環境を作ってくれたのね……自室モーニングはその手段に過ぎなかったということね。

 ファミリアの目論見通り、まんまとベッドから抜け出した私は代わりにひとつだけぽっかりと空いている席に腰かけた。


「さあ、熱いうちに召し上がってくれ。今日は特別に良い豆で淹れたんだ」


 差し出されたカップに満たされた限りなく黒に近い茶色を見、この部屋に満たされている香りの正体にようやく気付いた。

 コーヒーの香りは産地ごとに異なるということを聞いたことがある。差し出されたコーヒーからはコクが深く少し土のような香りが漂っている。


「ブラックはお嫌いだったかな?」

「いえ、ちょっと香りの楽しんでいただけなんです。この素朴な香り、嫌いじゃないです。少しワイルドではありますけど」

「あらぁ、倉實さんも大人ね。このアーシーな香りの良さがわかるなんて。私は少し苦手だわ。でも飲めない訳ではないのよ?」

「翡翠は味覚も嗅覚も甘党過ぎるんだよ。倉實君を見てみなよ。こんなもの、クイ―っとひとくちさ」


 渚先輩の羨望のまなざしと潮凪先輩の期待を込めた視線が眩しすぎて直視できない。本当に私ひとくちで飲まなきゃいけないの……?


「い、いただきます……」


 カップに口を付けた途端、口から鼻腔へと香りが抜けていく心地がした。燦燦と照り付ける太陽と、広大に広がるコーヒー畑の様子がありありと浮かび上がり、それとともに広がる土のような……


「に、苦い……」


 思わず舌を出してしまうほどの苦さだった。思えば昔から私はコーヒーはミルクと砂糖を必ず入れて飲んでいた。もしかして、まだ私少し寝ぼけてる?

 横では呵々とばかり笑う潮凪先輩と、同志を見つけたかのように静かに頷く渚先輩、少し心配そうにこちらを覗く貴澄さんがいた。


「倉實さん……大丈夫?」

「なんとか……」

「コーヒーのシミも結構強敵なのよ?」


 あぁ、心配なのは私ではなかったのね……


「そういえば、倉實さんの制服はもう戻ってきたのかしら? たしか、身体測定で汚れてしまったのでしょう?」

「あぁ、そういえば。戻ってきてるか確認してきます」


 言って私は部屋の外に出ると、106と書かれたプレートの下にあるやや年季の入った木製の箱に手をかけた。

 私の膝の高さくらいまであるそれは、いわばこの学院内限定の宅配ボックスのようなものだ。授業で必要なもの、購入申請のした本や洗濯物など、学院側から私達に向けて届けられるものはすべて、ここに詰められている。

 南京錠を決まった数字で解くと、中には一回りも二回りも大きいバスケットが顔を見せた。


「たしか、金曜日に洗濯ものと一緒にお願いしたから……」


 冒険家のようにそのバスケットの中を漁ると、底には純白の制服が、丁寧に折りたたまれた状態で置かれていた。

(すごい……もうどこに血がついていたかなんてわからないわね)

 丁寧に南京錠をかけなおし、部屋に戻ると私は感嘆の意を称した。


「この学校、すごいですね……血の跡なんて落ちないと覚悟していましたけど、逆に前よりキレイになって返ってきていました」

「まぁ、素敵ねぇ! わたしも実は心配だったけれど、まるで新品のようね!」

「君たちより1年長くここにいるわけだが、そもそも制服を洗濯に出せること自体、驚きだよ。私も今度垂らしてみようか」

「満が言うと、本気か冗談かわからなくて怖いわ」

「冗談だよ、冗談」


 潮凪先輩、冗談ならなぜそんなに私の制服をまじまじと見つめていたんですか。確かに、白い制服についた血を跡も残さず消してくれたのは驚きだったけど。

 白がベースカラーとなっているうちの制服は、とにかく汚れが目立つ。コーヒーの一滴でも、血の一滴でも致命傷だ。後者はよっぽどのことがない限り起こりえないけど。しかし、私はまだ上級生で汚れている制服を着ている人に出会ったことがない。いや、クラスメイトも含めて、私以外にこの学院で制服を汚してしまった人を見たことがない。他の人も、おそらく気づいているのだろう。繊細な純白に包まれることで、学院側がその身振り手振りに気を使わせようとしていることに。

 笑いながらカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した潮凪先輩は立ち上がり。


「さて、そろそろ朝食の時間だ。今日はたしかパンケーキの日だから......争奪戦は免れないな。早いところ支度を済ませてしまおう」


 私も続いてカップに残ったそれををちびちび飲みながら支度を進めることにした。若干土のようなこの苦みの強さがだんだんと癖になってくるのは気のせいだろう。

 手早くカップを片付け制服に手をかけると、新品同様の清潔さにまるで初めて袖を通したような感覚だった。

(あれ?この制服、少し袖が伸びてる?)

洗濯をしたせいで袖が伸びてしまったのだろうか、いつもなら丁度手首にかかるくらいまで伸びていた袖が、すっぽりと手首を覆い隠すくらいにまで伸びている。生活に支障はないだろうけど……こういうのは一度気にしてしまったら最後、数日はずっと気になって仕方ないというのがお約束よね。


「倉實さん?」

「あ、あぁ。今行くわ」


 若干の違和感をこの部屋に置き去りにして、私たちは部屋を出た。




 朝食を終えて教室に向かうと、いつもは小鳥のさえずりのようなクラスメイト達の談笑も今日は喧噪へと変わっていた。


「あ、倉實ちゃん、貴澄ちゃん……」


 私たちが教室に入った途端、多蔦さんは他の子との会話を切り上げてこちらに向かってきた。いつもはヒマワリのように周りに笑顔を振りまいている彼女だが、今日はその花も萎びれているように見えた。


「ごきげんよう。多蔦さん。なんだかいつもとちがった騒々しさだけれど、わたし達が来る間に何かあったのかしら?」

「あぁ、うん。それがね……」


どうも今日は多蔦さんの様子がおかしい。まだ彼女とは数えるほどしか話したことはないけれど、こんなに歯切れの悪い話し方は彼女らしくない。多分、彼女を知らない人でも違和感を覚えるほどに。


「この学院に女学生の幽霊が現れた。ってさ。おはよう。2人とも」


 白百合のように純白で美しい手を多蔦さんの頭に乗せながら、東口さんは楽し気にそう話した。


「いや、それにしてもまさかこの学院でもそういう話を聞くとは思ってもいなかったよ。敬虔なキリスト教徒のまえにみんな等しく女の子、っていうところかな」

「ほんと、なんでここまで来て幽霊とかそういう話が出てくるのよ……トイレとか怖くて行けないじゃない……」


 多蔦さんの消え入るような声で最後まで聞き取ることはできなかったが、この喧噪の正体は、幽霊が出たということらしい。


「でも、どうして……」


 どうしてこの「程度」のことでここまで騒ぎになっているんだろう。東口さんの話を聞いてまず初めに感じたことはそこだった。学校の怪談話なんて小学校でも中学校でも噂になっていたことはあったし、幽霊なんて王道中の王道。今更クラス中に蔓延する程の代物ではなさそうだけど……


「でも、たかが幽霊なのでしょう? わたしが通っていた中学校でもそういう話はあったし、こんなに騒ぎ立てるようなものではないでしょう?」

「そうだね。確かにこんなものただのよくある怪談話でしかない。が、特別な事情があったとすれば、どうだろうね」


 不敵な笑みを浮かべながら、彼女は多蔦さんの頭に乗せていた手を放し、その指を2つ残して折り曲げた。


「2つ、2つの事情があったんだ。1つ目はこの学院で起こったから、だよ」

「この学院で起こったから……」


 この学院が他の学校と違うところなんていくらでもある。女子高、全寮制、宗教学校、ファミリア制度……


「ね、ねぇやっぱりこの話、やめにしない? ゆ、幽霊の話なんて全然おもしろくないし、この学院に合わないって」

「日和、まさか君幽霊が苦手なんじゃないか?」

「そ、そんなこと言ってないじゃない! ただあたしはおもしろくないからやめましょうって言ってるの」


 少し涙目になりながら反論をしている多蔦さんと、それを弄ぶようにして楽しんでいる東口さんを横目に見ながら必死に思考を巡らせる。

 確かに、私達みたいな年頃の女の子はこういうの好きだろうけど、こんなもの、他の話題に攫われて気付けばみんな忘れてる。というのがいつものことだろう。

 この学院だからこそ盛り上がる理由。他の話題に攫われない理由……


「おもしろくないから」


 私の出した答えはこれだった。

 答えを急ぎ過ぎたせいか、貴澄さんと多蔦さんは首をかしげながらジッとこちらを見つめている。東口さんだけは笑っていた。


「倉實さん、それどういうことかしら? わたしは倉實さんとの生活、楽しいわよ?」

「私も貴澄さんとの生活は楽しいし、つまらないと思ったことはないわ。少し語弊はあるかもしれないけれど、簡単に言うとこの学院をおもしろくないと思っている人がいる、そういうことじゃないかしら」


 おもしろくないから、あんなものでもおもしろく見えてしまう。単純にそういうことだったのだろう。


「この学院は近くに遊ぶところもないし、娯楽といったら図書室の本か視聴覚室に置かれている古い映画くらいでしょう? ほかに娯楽がないから「ただの怪談話」でもこれだけ話題になる。ということじゃないかしら」


 映画や本が好きな私にとっては全く苦ではないここでの生活だが、本を読まない人だっているし、映画だって全く見ない人もいるはず。そういう人にとっては確かにここはつまらない場所のように思えるでしょうね。まるで鳥籠の中みたいに。

 言い終えると東口さんは私に小さな拍手をし、


「ご明察。まあ、おもしろいおもしろくないっていうのは完全に憶測が入ってしまっているから、必ずしもそうだとは限らないけれど、おおむね私の言いたいことは言ってくれているよ」

「それじゃあ、もう1つの事情ってなに? 綾乃ももったいぶらないでさぁ」


 先程までおもしろくないと言っていた多蔦さんまで食いついてきている。怪談話には興味はないのだろうけど、クラスメイトがこれほど話題にする原因についてはやっぱり気になるのかしら。


「おや、日和ならもう聞いていてもおかしくないと思っていたけれど、どうやらまだだったみたいだね。2つ目の事情、それはね――」

「幽霊を見た子、今日は病院に行くそうなんだ」


 夏にはまだ早い「怪談話」は一転して、その顔を「事件」へと変えたのだった。

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