16.5話 『あんた』と知らない『あなた』
違和感というものは雪とよく似ている。
しんしんと日常の上に降り注ぎ、積り、景色を変えていく。気になりはするけれど、放っておくとそれは日常の景色を埋没させ、わがもの顔で居座るのだ。広がる白に私達は、下に何があったのかなんて忘れてしまう。
「あぁ、僕がもっと早く気付いていれば…… 白雪、どうかそのまぶたをあけてはくれないか」
声だけが聞こえる。目を閉じていても照らされる照明のせいでどこか眩しい。
「騙されて、この世界が嫌になってしまったんだね。でも安心して、ここにはそんな人はいないんだ。いるのは僕と、やさしくて働き者な小人たちだけ、だから、だから――」
音も消え、眩しさも消え、静寂だけが残った。それを合図に瞳を開け身を起こし、素知らぬ顔でこう言うのだ。
「わたし、わたしあのお婆さんに騙されて、それで、それで……ここは? わたしは、いったいどこにいるの?」
「僕のそばにいるんですよ、白雪」
差し出された手に触れて立ちあがったところでふたつ、手を叩く音を聞いた。それはわたしが私に戻るための合図。
「はい、いったんここで休憩を挟みましょう。10分後に残りからラストまで通しでやって今日は終わりにします」
「「はい」」
ホールは熱気に包まれていた。それは多分、弛緩した空気と照り付ける照明のせいだけではない。こんな暑い中でも離れようとしないクラスメイトのせいでもありそうだ。
「もう放してくれてもいいんじゃない?」
「このまま放してしまったら、もう二度と掴めないような気がしてしまって」
「どこまで王子様なのよ。どうせまた明日やるでしょ」
親指から人差し指、そして小指まで。掴んでいないほうの手で彼女を引きはがす。いやいや、どうしてそんな悲しそうな顔ができるのよ。
大道具の子が作ってくれた棺は案外居心地が良くて、密かな私のお気に入りスポットだった。落ち着くし、何より蓋がある。多少熱気はこもるけれどそこは手作り感あふれる棺だ。絶妙な噛み合わせの悪さが熱気の逃げ道を作ってくれているおかげで耐えられない暑さではない。照明の熱から逃れるのにちょうど良いし、うとうとしていてもバレない。眠ってしまうと本当の意味で棺になってしまうかもしれないけれど。
蓋に手をかけしばしのおやすみなさい、とはいかなかった。
「なに」
「どうしてそう閉じこもろうとするんだい?」
今度は掴まれなかった方の手を掴まれた。熱気の再来ね。
彼女は本当に理解ができないような瞳でただじっ……と見つめてくる。そういう目で見つめるのは、ずるい。
「だって、照明暑いし」
「僕が日陰になろう。そうすれば閉じこもらなくて済むし、君の顔も見れる」
「だからどこまで王子様なの……よって。わかったわかった」
今日は蓋することを諦めて、その役目を彼女に託してみる。
遠くて近いように感じる熱気はまあ耐えられないものでもなかったし、一興と呼べるくらいにはまた違った居心地の良さがあった。
「それでもまさか、自分から眠りにつくなんて話になるとは思わなかったな」
「ええ、本当に。それに小人も3人しかいないし」
「それは仕方のないことだよ。7人なんてクラスの半分だろう、僕でもそうしてる」
棺に忍ばせていた台本に(仮)の文字もあろうことか白雪姫の文字もなく、代わりに記されていたのはスノウ・ホワイトというよそ行きな文字が書かれていた。
脚本の子曰く、今風なものにしたくてタイトルを変えたらしい。どちらも大差ないとは思うけど。実際横文字にしただけじゃない。
話の内容もいわゆる私達の知っている「白雪姫」とは少し違っていて、白雪姫が眠り続けていたのは林檎のせいではなく、嘘にまみれた世界が嫌になってしまったから、というものになっていた。
どれだけ見ないように聞かないようしても、嫌でも入ってくる嘘や欺瞞にはうんざりする。目を瞑りたくなるのもわかる。
人を惹きつける作品の色としてひとつ、観客が共感できることというものがある。私も白雪の感情に共感できる部分があるし、知らず惹きつけられている部分もあるのかもしれない。
だが、ここまでフィクションに振り切った作品に妙な現実感を混ぜてしまうと、私達の逃げ場はいったいどこになるのだろう。
現実から逃れるためのフィクションだと私は思っていたから、その境界を曖昧にしてしまうことに意味があるのかと問いたくなってしまう。
けれどそんなことはあたしが許さない。みんな納得しているし、内容も好評なんだから良いじゃない。あなたひとりのために脚本を変えさせたとて、その後に待っている現実に嫌になってしまうんじゃない? なんて声が遠くて近いところから聞こえる気がした。
「姫を起こす王子様ってどんな気持ちなの?」
「憐みと救済とほんのちょっとの恋心、かな」
「また彼女が世界を嫌いになってしまうとか、思わないわけ?」
「この物語の終わり方、まさか忘れてしまったのかい?」
「回りくどい答え方なんていらないから」
「『そしてふたりはいつまでもいつまでも幸せに暮らしました』とさ」
「そんなとってつけたような終わり方を信じているわけ?」
「他に何を信じると言うんだい。まさか、書いてないことのほうが信じられるって? ……野暮じゃないか、本当はどうだとか、その後どうなったとか。しあわせに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。それで良いじゃないかと『僕』は思うけど」
「……そ」
理解はしたけれど、納得はいかない。
けれどそんな私の思考は、書いていないことを勝手に想像して当てはめるのはそれこそ、フィクションをフィクションとして見ていないことのようにも思えた。そう考えると彼女の方がよっぽど作品を純粋に受け止められている。
「それで、いつまで続ける気なの? それ」
「それ……というのは? 僕、なにかおかしなことでもしてしまっているのかい?」
「それよ、それ。休憩時間中もずっと王子様みたいなマネして」
綾乃。今はその名前を呼べない、呼びたくないと思った。違和感がずっと付きまとうのだ。昨日まで自分のことを『私』と呼んでいた綾乃だけれど、今日の彼女はずっと『僕』。口調も仕草も何もかも、私の知っている彼女とは違っていた。それこそまるで本当の、王子様みたい。
「真似だなんてまたおかしいことを言うね。だって――」
「多蔦さんと東口さん、ちょっと今大丈夫かしら? 演出のことでちょっと話がしたくて」
「あ、おっけ~! 今行く!」
棺に手を掛け彼女を追い越して、声の主へと駆けていく。
遮ったのはふたり以外の誰かでもなくて、私。
真似だなんてまたおかしいことを言うね。だって――
『舞台の上では王子様なんだから』
そんな風にいつもの彼女がちょっと悪ふざけなところまでいってしまっているだけ。それだけな気がしたけれど。
『僕は王子様なんだから』
本当に昨日までの彼女がいなくなってしまったんじゃないか、なんて。ありえもしないのに、答えを知ってしまうのが怖くて逃げた私がそこにいた。
現実の中に妙なフィクションを混ぜ込むのはナンセンスだと思う。けれど人間は融通が利かないもの。頭でわかっていても心が疑うの。
私が遮っていたのは照明の熱だけでなく、彼女自身もまたそうだったのかもしれない。
何もかもがわからないまま、知ろうとしないまま逃げ出したのだ、私は。
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