10話 倉實礼は困惑する
「聞ききました? 例のプレートのない部屋のことなのだけれど…」「えぇ。昔、あそこで亡くなった子がいたっていうお話でしょう? 学院側があそこを閉ざすわけだし、覗こうとしたら化けて出てくるわよ」
「でも、どうして未だに血まみれの制服なんて保存していたのかしら」「そこが不思議よね……」
事件から5日後の水曜日。相も変わらずこの教室の話題は例の幽霊事件でもちきりだった。
……日を増すごとに尾ひれがとんでもないことになってない?
「場所が場所。だものね…… 」
「? 倉實さん、場所がどうかしたの? 」
最近は抑えられてきたと思っていた私の悪い癖がまた顔を覗かせる。
私は、私の思っている以上にこの事件にのめり込んでいるのかもしれない。なんだかんだ言って立派な女の子なのかもしれない。
なんでもないわ。そう返そうと顔を上げたとき、教室内の雰囲気が数秒前のものとはガラッと変わっていることに気が付いた。
怪談話に花が咲き、一面に広がっていた花畑も今は見る影もなく、ただそこには荒野が広がっているようだった。
教室に入るひとつの影が、私達の視線を次々と奪っていった。
入学初日、私が遅れて教室に入ってきたときのことを思い出す。あのときと同じように、あたりには生ぬるく、粘度の高い空気が鈍く横たわっていた。
「ご、ごきげんよう月代さん……」
「えぇ、その……いろいろとお騒がせしました……」
後頭部にガーゼを当てている彼女、
彼女は居心地悪そうに自分の席につき、鞄から取り出した本に目を落とした。周囲の視線から逃れるように開かれたそれは、月代さんにとって最後の逃げ道なんだろう。
私には月代さんのほんとう気持ちはわからない、けれど、このクラスの誰よりも彼女の気持ちを汲み取ることができるだろう。見えない視線に舐め回される嫌悪感、その空間に居続けなければいけないという居心地の悪さ、思い出したくもない嫌悪感に今、月代さんは包まれているのだと感じ取れる。
幽霊事件が噂になっているということはおそらく彼女のファミリアから聞いたのだろう。
自分のせいでここまでのことになって……それだけならまだいい。怪我をしてみんなに変に気を使われてしまって……。
クラスメイトとの距離感が掴めないし、どんな顔をしたらいいのかがわからない。そんな感じがする。
私たちもどう言葉をかけてあげたらいいのかわからない。大丈夫? 気にすることないよ? そんな言葉で救える程人間は単純な生き物じゃない。かえって気を使わせてしまってると思われて、更に萎縮してしまうかもしれない。静観が一番の選択かもしれない。沈黙は金。よく言う。
そんな鉛のように重苦しい空気に新しい風が吹き込んだ。教室のドアが開けられると、モニカ教諭はいつものように笑顔で私たちを見た。
「おはようございます。あら、月代さんも来てくれたのね! 怪我はもう大丈夫? 」
もう、痛くないので……。俯きながら口を開く彼女は痛々しくてとても見てはいられない。
いつものように朝のHRでの諸連絡を終えると、モニカ教諭は思い出したかのように、口を開いた。
「そういえば近頃、消灯時間を過ぎてから理由もなく寮内を散策している生徒がいると寮長からお話がありました。新生活に舞い上がってしまう気持ちもわかりますが、あまり羽目を外し過ぎぬようお願いしますね」
多分、噂話を聞きつけた人達が肝試し感覚で出歩いていたのだろう。
怪談話がバレるのも時間の問題ね……。
これ以上悠長にはしていられなかった。
放課後、入学以来これほどにまで待ち望んでいた日はなかっただろう。
HRが終わってからも相変わらず教室内の空気は最悪だった。
「あれじゃあ、頭に入るものも入らないわよ……」
誰にかけるわけでもない独り言は窓から吹き込む海風に攫われ、また私を独りぼっちにした。
「窓から海が一望できるなんて、まるで絵みたいね……! 私も西側がよかったなぁ」
廊下の作り、窓の位置、カーテンの色。東側と変わらない内装だからこそ、西側の窓から広がる景色は際立って特別に見えた。
理由もなく東側の人間がわざわざ西側に来ることはまずない。東口さんが前に言っていたように、こちらで東側の人は1人も見ることがなかった。
私、もしかして浮いてない? 大丈夫?
「浮いてるのは、幽霊くらいにしてほしいわ……」
ぼやきながらもその歩みを止めることなく111.112と書かれたプレートを横切る。その奥に佇むプレートのない部屋は昼のせいなのか、妖しさのかけらもそこには存在していなかった。
「ここ……ね。ドアがボロボロとか、床から変な液体がにじみ出てるとかはないみたいだけど……」
今日、放課後という羽根を伸ばせるような時間にわざわざ西側に1人で来た理由はこれだった。
事件現場、もといプレートのない部屋の周辺調査。
夜中に誰かがうろついているという話をモニカ先生から聞いた以上、消灯後に調査に行くのは寮長に見つかるリスクもある。西側の人ならお花摘みを理由に避けることはできるかもしれないけど…… 私は東側の人間だ。夜中に1人で西側に行く理由なんてものはあるはずがない。
得られる結果に対してのリスクが大きすぎる。
だから私は授業が終わってすぐ、皆が寮に帰ってくる前のこの時間に来た。
「ドアはもちろん……開くわけがないわよね。作りもほかの部屋と変わらない……」
ドアノブを執拗に回してみたり、軽くノックしてみたり、傍から見たら完璧に不審者そのものだろう。出来れば誰かが帰ってくる前に済ませて、何事もなかったかのように帰りたい。
東口さんの話だとドアが開いていて、その隙間に血まみれの制服が挟まっていたのよね……。
あの日、血まみれの制服と聞いて真っ先に思い浮かんだのは
「――この間私がつけた…… 」
先週の身体測定で鼻血を制服につけてしまったことを思い出す。穴があったら入りたい気分だった。思い出すだけで鼻に嫌な感触が湧くが、振りほどくようにして首を振った。
丁度洗濯物を出したタイミングとは噛み合っているし有力候補ではあった。自分の制服が怪談話に使われているのはいい気分ではないけれど。
――けれど、そう結論付けた途端に襲ってくるこの違和感は何だろう。隙間だらけの推理に這入ってくるこのドロドロとした気持ちの悪い感じ……。
もう一度、東口さんが言っていた言葉を頭の中で再生させる。一語一句違わずに
――そして起き上がろうとした時、足元に何か引っかかっていることに気付いたんだ。見てみると、ずたずたに大きく引き裂かれた血まみれの制服が扉の間に挟まっていたんだって。
再生を終えてから、しばらく自分の制服を前から後ろから確認する。制服特有の引っかかりのない、スルスルとした感触が心地よい。
この制服がなんの変哲もないただの制服だと再確認したと同時に、ようやく違和感の正体に気が付いた。
……ずたずたに引き裂かれていたら、今日は寝巻で授業を受けていたはずじゃない。
肩から腰から背中まで、どこに触れても特別繕われた跡はない。
「でも、私のものでないのなら、その制服は一体誰のものなの……? 」
自分のものでないとわかったところまでは良い。しかし、そのせいでこの件はまたふりだしに戻ってしまった。
今は考えるより手を動かしたほうが良いわよね。
制服のことは後で考えるとして、今は解決に必要なピースを集めるのが最優先だ。
窓もカーテンも別段おかしなことはなかった。夜は窓もカーテンも閉め切るから視界はとても悪いと言っていたけど…… それならば、なぜ月代さんはあの部屋が開いていることに気が付いたのだろう。
実はここだけ遮光カーテンではないとか? 一度カーテンを完全に閉め切ってみるが、そこから光が漏れだすことはなかった。
――遮光カーテンの割には随分と軽いのね…… それこそ風が吹けば、フリルの付いたドレスで踊りだしそうな位に。
良質な物なのかしら。そんな値踏みをしながらもカーテンを再度開けると、始めは木漏れ日のように、だんだんと日の光を呼び込み、スポットライトに照らされた舞台のように寮内を装飾した。
「あら、あなたはたしか…… 倉實さん? こんにちは」
「ひゃ、ひゃい!? 」
突然呼びかけられたせいで、自分の声とは思えないような声が出てしまった。考えることで頭がいっぱいで、足音なんてこれっぽっちも気付かなかったわ……。
恐る恐る声の方向に顔を向けてみると、初老の女性が立っていた。しかし、モニカ教諭のようなクリスチャンな雰囲気とは違い、丸く小さい、凹凸感がなく、これぞ日本人、といった印象だった。
同級生でも、先輩でもない。こんな時間に、こんな場所に来るということはつまりこういうことなのだろう。
「こ、こんにちは。寮長さん……」
一気に体中から汗が噴き出した。
まさかこの時間によりによってこの人に会うことになるとは……。
「と、友達にこっち側から見える景色がキレイと聞いていたので、気になってつい……」
「東側はあまり良い景色が見えないものねぇ。最近、夜中に部屋を出る子たちがいるけど、この景色を見に来ているのかもね」
窓枠に手をかけ、どこか懐かしむような表情を浮かべながら望む蒼の先には、何が見えているのだろう。何年も見てきたであろう景色に今、彼女はどんな思いを馳せているのだろう。私の見えているものと彼女が見ているものは同じでも多分、同じじゃない。
「そうだわ、せっかくですし、この後私の部屋でお茶でもしていかないかしら? 1年生の子とはまだ全然お話できていなくて、寂しかったの
なにかに浸るような表情から打って変わってみせたあの笑顔を前にしたら、断われるわけがなかった。
さよなら、私の放課後。
「もう学院生活には慣れた? 」
「は、はい。お祈りとかもはじめは戸惑いましたが、今はなんとか…… 」
「私もここに来た当初は苦労したわ。これまでこういう文化には触れてこなかったコテコテの日本人だから、余計にね」
西側と東側を繋ぐ長い廊下を半分まで来たところだっただろうか。寮長と2人で歩く姿は相当珍しいようで、帰路に就くクラスメイトや先輩方の視線を独り占めしてしまっている。うれしくはない。
「日和、今の見たかい? 」「見た見た、倉實ちゃんが寮長さんと仲良さそうに歩いてたよね。しかも顔真っ赤にしながら」「倉實さん……なるほど、そういうことなのか。知らなかったな」
今、聞き覚えのある声からとんでもない言葉が出てきた気がするけれど、気のせいよね? あることないこと言われてないよね?
「りょ、寮長さん、あんまりここで話してしまうと、お茶会で披露できるお話が減ってしまいます。お楽しみは取っておきましょう」
「まあ、ということは今日のお茶会、楽しみにしていても良いんですね? そうとなれば早く行きましょう」
小さかった寮長の歩幅が、この言葉を機に2倍にも3倍にも大きくなっている気がする。この視線から早く逃げ出したいからうれしいけど……
「そんなに期待されても、出ないものはでないわよ……! 」
墓穴を掘るということはまさにこの状況を表しているのかもしれない。
106。いつもはここで歩みを止めていたが、今日はその歩みを止めることはなかった。
廊下の一番奥、寮長室と書かれたプレートを確認し、その歩みを止める。
「私の部屋にお客さんを呼ぶなんていつ以来かしら。さあ、入って」
「し、失礼します……」
恐る恐る踏み入れた先に広がる景色は、いつも私達が生活している部屋と家具の配置も構造も変わらない、普通の光景だった。
寮長室だからと言って特別、というわけではないのね。
私達の部屋にもあった丸テーブルに添えられた椅子に腰かけると、寮長は手際よく戸棚から瓶やカップを取り出し、
「座ってゆっくりして行ってちょうだい。今紅茶を入れるから、付け合わせのお菓子も今用意するわね」
小学生の頃におばあちゃん家に遊びに行った時のことを思い出した。完全にそれだった。
わたし、もてなされてる? うれしいけど、けど……! けど……!
「さ、日も高いことですし、ゆっくりじっくりお話ししましょう! 」
ごめん貴澄さん。今日、帰れそうにないかもしれない。
少なくとも、注がれた紅茶が冷めるまでは。
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