12話 倉實礼は辿り着く

 春といってもまだ夜は肌寒い。特に今日は。

 灯りを落とした部屋は私を闇で包み込み、目の前にぼんやりと映る灰色の輪郭と、左手に伝わる冷たい感触だけが世界のすべてと思わせられる程に、黒く染まっていた。


「貴澄さんが聞いた音、先輩だったんですね。わざわざ消灯時間を過ぎてからなにをしているんです? 」

「言わせないでほしいね。少しばかりお花を摘みにいくんだよ。君も来るかい? 」


 いつもは場を和ませている先輩の軽口も、今日だけは耳障りな雑音にしか聞こえなかった。

 ――嘘つき。


「わざわざ消灯後すぐに、誰にも見つからないようにですか?」


 私達の前でしたように、先輩または何かを隠すために仮面を付けているような気がした。


「はぐらかさないでください。私にとっては大切なことなんです」


 私は、私が思っていた以上に苛立っていたのかもしれない。

 言葉と共に吐き出された感情を耳で受け、咀嚼して初めて気付いたこの気持ちは、果たして何に向けられたものなのだろう。目の前に立つ先輩か、それとも、彼女を信じたくも疑ってしまう私自身なのか。こんな時でも冷淡に、私自身のことすら他人事のように俯瞰している自分の存在に嫌気が差した。

 苛立ちと嫌気とがかき混ぜられてできた私は今、深い海の底よりも暗い。


「ん……うぅん……?」


 ふと背後に聞いた小さくて頼りない声は、痛いくらいに鋭く突き刺さる沈黙を跳ねのけるのには充分なものだった。


「翡翠達を起こしてしまったらそれこそ面倒だ。知りたければついてくるといい」


 私が掴んでいたものはあっさりと振り払われ、代わりにキィという年季の入った蝶番ちょうつがいの音とともに、月明かりが差し込んだ。

 その光に導かれるようにして部屋を後にする。


「さて、今日も寮長に見つからないといいが……」


 扉を閉め振り返ると、なぜか窓を開け放つ先輩の姿があった。


「……夜風を浴びる為なんて言わないですよね」

「それだけの為にこんな危険を冒すようなマネはしないし、ここまでもったいぶらないよ」


 言い終えると、窓枠に手と足を掛けた先輩は、さながら怪盗のように軽やかに外へと飛び出した。



「高さがあるから気をつけた方がいい。ほら、私の手をとって」


 理解ができなかった。


「ちょ、ちょっと待ってください。何をどうしたら外に出る必要があるんですか? ちゃんと説――」


 言い終える前に、遠くからヒタヒタという音が近づいてきているのを私の耳は聞き逃さなかった。自然と、途切れた言葉を紡ぐよりも先に身体が動きだす。その身を投げ出すように跳ぶと、呼応して先輩は少し戸惑った表情を浮かべながらもしっかりと受け止めてくれた。

 倒れ込むようにして飛び込んだ先輩の身体からは、ほんの少しの汗とゆずの香りがした。

 先輩、シャンプー変えたのかな......

 いやいや、こんな時に何を考えているのよ。


「まさかこんな早い時間に見回りに来るなんてね...... 個人的にはもっとゆっくり降りて欲しかったけど、これはこれで楽しめたよ」

「ご、ごめんなさい! あまりに突然だったのでつい……」

「しっ。あんまり大きい声を出すと夜会に招待されるよ」


 形だけ見ると私が強引に先輩を押し倒しているような姿に、誰かに見られているわけでもないのにやり場のない恥ずかしさを覚えた。かき消すように急いで身を起こすと、寝巻からわずかに見える先輩の肢体が、月明かりを受けて艶やかに輝いているのが見えた。

 前門の虎後門の狼とは言うけどこれは……。


「おかげで背中は土だらけさ。うまく洗濯物に紛れ込ませる方法を考えておこう……倉實さん?」

「そ、そう……ですね。それよりも、これからどこに連れ出すつもりなんですか」


 秘密。どこか穏やかな表情を浮かべている先輩は、まるでダンスに誘うかのように左手を差し出している。

 差し出された手を、今度はしっかりと握ることができた。私を使って上体を起こすと先輩の顔は私の顔に触れてしまうくらいに近く、思わず明後日の方向に顔を向けてしまう。けれどその一瞬、間近で見た先輩の顔は楽しそうに、笑っていた気がした。

 歩き出すと夜の冷気が私の鼻腔を通り越し、鼻の奥が少し痛む。けれど今日はこの肌寒さが、心地良い。



 夜の校舎、夜の校庭、夜の聖堂。毎日見ていたはずの「それら」も、夜の闇と静寂に包まれるだけで全くの別物に見えた。固く閉ざされた校門とどこまでも白く塗りたくられた壁面からは、気持ち悪いほどの神聖さを感じさせられる。度の過ぎた信仰は狂信と変わらないように、不気味なまでの神聖さは狂気と変わらないような気がする。

 先程まで私達を導いてくれていた月明かりも、今は私達を監視しているようにしか見えない。まるで規則を破った私達を蔑視するかのような佇まいに、思わず逃げ出すようにして彼女の背中に続き、後ろめたさを吐き出すようにして口を開く。


「いつも寝巻の汚れはどうしているんですか?」

「夜風をあたりに行った帰りに転んだ、とか理由をつけて洗ってもらっているよ。そろそろ言い訳が苦しくなってきたところだけどね」

「てっきり手洗いとかで落としているのかと思っていましたけど、そこは潔く洗濯に出すんですね」

「潔いかどうかは置いておくけれど、洗ったとて乾かす場所がないんだよ」

「不自然に干されていると、嫌でも人の目についてしまいますしね」

 

 部屋の中で干した暁には渚先輩が黙っていないだろう。あれだけ慣れたような手付きで外に出られるのだから、今年から始めたことではないだろう。

 外で干すにしても目立つだろうし、意外にも洗濯に出すことが最適解なのかもしれない。


「いや、もっと単純な話だよ。そもそもの話さ」


 人目に付く以上に単純なこと……? そもそもの話……


「干すこと自体に問題があるということですか?」

「そうだね。この寮は歴史の長い木造の建物だ、室内干しなんてしたらたちまちカビが生えてしまう。外は外で問題があってね、海が近いせいで潮風で匂いはつくしべたつくしで、大変だったんだ」


 あぁ、経験済みなのね……。

 けれど、室内も屋外も干せないとなると、私達のいはどこで干されているのだろう。寮内でそんな施設は見たことないし、近くに大きな施設があるわけでもないし…… 今度寮長さんにでも聞いてみよう。

 他愛のない会話を続けながら先輩に手に引かれていると、遠くからは波の音が聞こえてきた。聞き覚えのある音だった。初めて岬に来た時に、初めて先輩と出会った時に聞いた、あの音だ。


「……そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか」

「もう答えは出ているようなものだけどね、ほら」


 そう言って先輩は私の手を離すと、踊りながらその両手を高く掲げて笑った。さざめくは波の音、瞬くは満天の星。先輩は今、散りばめられた星々を纏う踊り子のようだった。


「君の頭上、天高く輝いてる彼らを見に来たのさ。私は天文部だからね。私と君だけの星空だ、特等席で見ようじゃないか」


 誘われるままにしてガゼボの椅子に腰かけて空を見上げていた。

 春の星空はどこか朧気で、そこには水彩画のような曖昧な世界が広がっている。手を伸ばせば届きそうな星空、まどろみに包まれたこの世界は私の距離感を狂わせる。


「星を見る為だなんて、なにも隠す必要はなかったじゃないですか」

「でも、あそこで話していたら君はここまでついてこなかっただろう? 毎日独り占めしているんだ。たまには誰かと共有したい時だってあるさ」

 

この人と話しているとどうしても調子を狂わせられるというか......この人には勝てないな。そう思わせられる。こんなことを言われたら怒る気力すらどこか遠くに行ってしまうし、もむしろ笑えてくる。


「でも、先輩は天文部なんですよね? この星空を共有したいなら、他の部員の方でもよかったんじゃないですか?」

「熱心な勧誘活動はしてるつもりなんだけどね……」

 

あ、いないんだ……。


「でも部員が先輩1人だけなんて、部活動として学院側は認めているんですか? 」

「普通の部活なら間違いなく廃部だね。でもね、この部は学院創立時に学院側が創立した部活動なんだ。私が入部している限り、簡単に潰れやしないよ」


 創立時からの歴史ある部活動だと、確かに学院側も簡単には潰したくないだろう。先輩の熱心な勧誘活動はぜひとも実を結んでほしい。


「そう言えば私、まだこの学院の部活動って何があるか知らないです」

「そのうち部活動紹介があるさ。他の部活の魅力を知る前に、早いところうちの魅力だけでも知っていかないかい?」

「……ただでさえ私、朝弱いんですよ」


 今のところどの部活動にも所属する気はない。今ですらあれだけ起きられないというのだから、部活動を始めたらまず生活指導は免れないだろう。

 幸い、暇つぶしは図書室と視聴覚室の映画で事足りている。部活動に入るとしても、まずはそれらを制覇してからだろう。


「それにしても、先輩が卒業したらなくなってしまうなんて……少し寂しい気持ちになりますね」

「部員が増えないことを前提に話してないかい? まだ怒ってる?」

「私、先輩を許した覚えはありませんよ」


 声は萎びれていたが、自嘲気味に笑う先輩は平常運転だった。

 返す私も、潮凪先輩の軽口が移ったくらいで平常運転だった。


「そうそう、そういえば今日面白い1年生に会ってね。いつも通り部の勧誘でお話をさせてもらったんだけど、その断り方がまた独特だったんだ」

「断られたんですね……」


断られることをもう当たり前のように語る先輩を見ると、その実天文部に愛着なんてものは持ち合わせていないんじゃないかと思わせられる。


「それすらもどうでもよくなってしまったのさ。それでその子なんだけど、なんて言ったと思う?」

「さぁ、見当もつきません」

「「地球のことを満足に知らないのに、外のことを知ろうとするなんておこがましいです」なんて言ったんだ。思わず笑ってしまったよ」


 よく先輩に対してそんな断り方できるわね……私だったら絶対にそんなこと口に出せないと思う。その後が怖いし。その子がどんな子なのかは気になるけれど、少なくともそんな命知らずな子は心当たりがない。 

 私も先輩のことをよく知らないのに、変な疑いをかけて勝手に事件と関連付けようとしたりして……。

 何かが引っかかるような思いがした。

 私は先輩のこと以外にも、彼女の言う「おこがましい」ことをしているのではないかと思わせられた。

 そもそもあの事件はどこで起きた? 西側の廊下の、プレートのない部屋の前。でもそこは放課後に散々見回したはず……。

 実際に事件が起きたのは?

 あの場所で、夜にしか起こりえない現象があったとしたら? そんなことも知らないのに、夜に起こった事件を解き明かそうというのは、それこそ「おこがましい」ことなのかもしれない。


「先輩、今日はありがとうございました。それと……寮での態度はすみませんでした」

「別に、気にしてないよ。君達は君達で大変なんだろう?」

「……落ち着いたらお話します。もう少し、もう少しなんです」

「楽しみにしているよ。私はもう少しここで星を見てから帰るとするよ」


 小さく手を振る先輩に微笑みながら、そのまま背を向ける。


「あぁ、そうだ。帰りは西側から帰ったほうが良い。今頃は見回りから帰ってくる頃だろうから、東側だと鉢合わせるかもしれない」


 返事の代わりに、私は早足で岬を後にした。



 西側の窓の鍵はすでに開けられていた。

(ほんと、用意周到よね……)

 ほんの少し窓を開け、カーテンの隙間から中の様子を見てみるが、人影も足音もなかった。

 けど、片手だと…… やっぱり結構きついかも……!

 外から見られないように、森が近いから動物が入ってこないようにわざと窓を高い位置に設置しているのだろうけど……私達みたいに夜抜け出す子にも配慮してほしいというのは無理があるだろうか。なんだか思考が潮凪先輩に似てきた気がする。

 幸い、ぶら下がらなければいけないほどの高さではなく、私1人分くらいの高さなのでなんとか登れそうではあるけれど……これは骨が折れそうね。

 東側でやったように、身を投げ出すようにして飛び、強引に身体をねじ込んでいく。半分くらい寮内に入れることができれば、あとは流れに身を任せていれば転がるようにしては入ることができた。スパイ映画とかでよく見た入り方だけど、ちょっと楽しいかも。

 さて、同じ時間に同じ場所に来てはみたけど……。

 閉め切られたカーテン、灯りの落ちた廊下、そもそも何も見えなかった。おまけに私は目が悪い。そのおかげなのかは知らないけど、かすかに薫る潮の匂い、風の冷たさがいつもより余計感じられる気がする。視界から入る情報が少ないために、他の感覚が研ぎ澄まされているのかもしれない。

 目を閉じると遠くから聞こえる、寄せては返す波のような音が……

 普通、ここまで聞こえるものなの? 海沿いとはいえ、ここまで波音が聞こえてくるような距離ではないと思っていたけど。

 聞こえてくるのは窓の外からじゃなく…… 下?

 耳を床につけてみると、先ほどまで聞こえていた波のような……水の混ざるような音は大きくはっきりと聞こえてきた。

 誰かがお湯を流している……? いや、こんな時間にお湯を使うような人はいないだろう。トイレ、であるならば真下から聞こえてくるのはおかしい。その先がトイレであるのならば合点はいくが、そもそも閉ざされているのだから使えるはずがない。

 それにしても、人が来ないことは知っていても、あまりに女の子らしくないその姿勢は少し恥ずかしい。改めて立ち上がると、窓から吹き込む海風が私の髪とカーテンを撫でた。

 遮光カーテンの割にはずいぶんの繊維が薄かった印象があった。そのカーテンに触れるよりも先に、ひときわ大きな海風が吹き付けた。風が吹けばフリルの付いたドレスみたいに踊りだしそう。放課後に感じたそのイメージは、確かに間違っていなかった。

 風に吹かれたカーテンは、まるで廊下をダンスホールかと思わせるくらい大きく華やかにひとり踊り続けていた。

 ゆらゆらと揺れるカーテンの隙間から零れる月明かりは、暗闇に包まれた廊下に波打つ光りの波のようだった。波、というよりも、その長さと輝きはまるで、渚先輩の持つ腰までかかるクリーム色の髪のようにも見える。

 今までバラバラに置かれていたパズルのピースが次々とハマるような感覚がした。

 こうして考えてみると、幽霊事件という大層な名前の付いたこの事件も、その紐を解いてしまえば「そんなもの」なのかもしれない。

 そんなものに踊らされていた私達は今日で終わり。

 明日で全部終わらせる。終わらせてみせる。

 自室へ戻る間の私の足取りは、驚くほど軽やかだった。

 今度先輩にはお茶の1杯や2杯注がせてもらおう。

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