(2)

 かすれた声を戻そうと、二、三、咳をする。ところがかえってむせこんでしまって体を動かすと、どうにもあちこちが痛い。頭ともなると体中の痛みが内部で反響しているようで、痛いどころの話ではなかった。

 状況把握に努めようとした時、しゃっ、と何かが滑る音がする。体を動かすのを諦めて視線だけをそちらにやると、目に涙を浮かべた母の顔が飛び込んできた。

「嵐!」

 なぜこんなところに母がいるのだろうと思っていると、へたりこんだ母の向こうに祖父母、母の腕を掴む父がいる。珍しい光景を見たななどとぼんやりと見ていると、祖母が呆れたような声をあげた。

「馬鹿だねえ、ほんと。ぎっくりだってのに思わず来ちゃったよ」

「……なにが」

 へたりこんだ母を立ち上がらせる父が苦笑する。

「お前、劇場近くの歩道橋の階段から落ちたんだよ。大丈夫か」

「……なんで」

「知らないわよ、まったく……」

 顔に手をあててようやく立ち上がった母は困ったように眉をひそめた。涙を浮かべたのが思いのほか恥ずかしかったのか何なのか、しきりに頬を拭いてその跡を消そうとする。

「落ちたあんたのことを見つけてくれた人がいたからいいようなものの……ほんとに……苦しくないならちゃんとお礼言いなさいよ。気になるからって、ずっと付いていてくれたんだからね」

 そう言う母の声や顔には本来の気丈さが戻ってきていた。息子の無事に一瞬箍を外しそうになったものを、周囲の状況を見て押し止めた強さに拍手を送りたくなる。

 先生に言ってくるから、と言い、母は父と共に小走りにその場から去り、祖父母は役目を終えたとばかりに帰る支度を始めた。

「……ぎっくりなのに、ごめん」

 上着に腕を通しながら祖母はけらけらと笑った。

「いいよ。驚きすぎてぎっくりもどっかいっちゃったしね。お父さんなんか大慌てで」

 ねえ、と祖父に向き直る。明言を避け、苦笑しただけの祖父の様子からあながち間違ってもいないのだろうという印象を受けた。そそくさと上着を着てタクシーを拾いに出て行く後姿に、どことなく安堵した雰囲気が漂う。

「先帰ってるって、言っといてね。安心したらまた腰が痛んできちゃって」

「わかった」

「それとお礼するんだよ。今呼ぶから」

「え?」

 じゃあ、と言って去ろうとする背中に慌てて問い詰めようと体を起こすが、あちこちが悲鳴をあげてその場に蹲る。ぎしぎしと軋む体を抱えて半ば涙目になりながら、それでも嵐は祖母を引き留めたかった。両親が戻ってくるまでの間、見知らぬ他人と何を話せというのか。

 お礼だけならば数分で済むことである。その後の話題など提供しようはずがない。

 痛む体と一緒に神経まですり減らすのは御免だった。

 しかし祖母は嵐の言葉に一切振り返ることなく、例の「恩人」とやらを呼んでしまっている。

──何て勝手な。

 一度はその優しさに嬉しく思ったものの、すぐさま自身の日常を取り戻した家族の図太さに呆れて何も言えない。

 ようやく痛みがひいてきた体を動かしてどうにか上半身だけ起こす。その時、カーテンの向こうでくぐもって聞こえた声を嵐の耳は正確に捕えた。一瞬耳を疑い、しかしその言葉と声を繰り返してみれば今度は微かな怒りが蘇ってくる。

 カーテンを遠慮なく開けたその人物は、屈託のない笑顔を向けた。

「気分はどないやねん」

「……あんたの顔を見たら悪くなった」

 脱色した短髪をかきあげ、男はにこりと笑った。

「そんだけ口叩けるんなら平気やな。なんや、お礼は無しかい」

 お礼をせびる恩人など聞いたことがない。その一言をぐっと飲み込み、嵐は棒読みさながらの感謝を述べる。ところがせびった当人はそれほど興味がなかったようで、手をひらひらとさせて軽く相槌を打つと、勧めてもいないのに近くの丸イスを引き寄せて座った。

 マイペースと言うべきか、湧き出る不快感を抑えるべく思考を良い方向へ持っていこうとする。しかし口をついて出た言葉はおそろしく素直だった。

「帰らないのか」

 男はきょとんとした顔で嵐を見つめると、やがてぽつりと呟いた。

「えらい素直な奴っちゃなあ。社交辞令覚えはったほうがええんと違う」

「……あのな」

 うんざりしてうなだれる。ちらりと恨みがましい視線を向けてみるも、男はお得意の笑顔を振りまくだけだった。

 こちらの意が汲み取れないわけではないだろう。だとすればこれは嫌がらせのつもりなのだろうか。赤の他人に嫌がらせをされる言われはない。

 そもそも、何者なのだろうか。

 あの神社からこの病院までどれだけ距離があるのかはわからないが、一瞬で行き来出来る距離ではないだろう。服装は神社で目にした時と変わらない。家族の話から推察するに、男はずっとこの病院にいたということになる。どうやって嵐と清史の前に現れたのか。

 その上、彼には二人が見えていた。清史があちら側の者だったかは定かではない。だが自身のことは何となく察しはつく。歩道橋から落ちて意識が無かったというから、間抜けな話だが、つまりそういうことなのだろう。

 清史と話していた嵐は、少なからずあちら側の者になりつつあったのだ。

──つまり。

 この男も見える側の人間なのだ。

 人間、と言っていいものかひどく怪しいものだが。

 考えをまとめ、嵐は大きく嘆息しながら枕に背を預ける。予想外に沈み行く体に驚いてやや体をずらしながら、男に尋ねた。

「あんた、何者だ」

「……ほんま、社交辞令知らん奴やね。臆するとかせえへんの」

 呆れたような声をあげて男は組んだ足に頬杖をつく。

「別に。そうしたって、その態度変わらねえだろ」

 思わず自分の姿勢を見直した男は気まずそうに笑って居住まいを正した。

「……せやな」

 頬を軽くかき、嵐を見据える。

「ほな自己紹介な。俺は鷹居良助。情報屋言うたらええんかな」

「胡散くせえ」

「せやったら葵言うたら信じる?」

 まともに聞くつもりなどなかったが、どうにも無視できない単語の出現に思わず鷹居を見返す。わずかにゆらめく蛍光灯の光を受けて笑うその表情は不敵というに相応しい。

 警鐘が段々とその声を大きくする。僅かに顔をしかめる嵐の様子に気づいていないのか、わざとなのか、鷹居はけらけらと笑って手を振った。

「俺は葵とちゃうで。葵言うたら日本最古の鬼の一族。えらい大きゅうて誰も手え出したらへん。せやけどうちにしてみたらお得意さんやってな、結構自由に出入り出来んねん」

「それで」

「あんた、丁の姉ちゃん知ってはるやろ」

 葵の人間でないという事実に一瞬胸を撫で下ろしかけたが、次いでの一言に心臓が飛び上がる。

 葵とは日本に古来から存在する鬼の一族の総称で、その力は政財界にまで及ぶという。また鬼としての力も群を抜いて高く、現存する鬼の中では最高峰にあたる。鬼という名称を肩に頂いた一族だが外見は人と全く変わらない。

 血族で構成された葵はその勢力と規模の巨大さから誰も手を出すことが叶わず、無闇やたらに手を出して無事に済んだ者はいない。

 その葵に身を置く少女、丁から聞いた情報を掘り起こしてみた。

 鷹居の言う丁と嵐の知る丁が同一人物であるかなど考えるだけ無駄である。丁とは葵における彼女の官名であり、然るに同じ官名を頂く人物はいない。

──しかし。

 ここで嵐が身構えたところで何が出来るわけでもなく、策など立てているわけでもなかった。鷹居が葵の関係者だとしてその力を振るうのならば、ただあちら側が見えるだけの嵐には対抗し得る術はない。

 それに、と鷹居を見る。

 どうにもこの軽い雰囲気はそうそう重要な使命を負った人間が出せるものではない。演技であるなら拍手を送ってやりたいところだ。

 体中の緊張と共に息を吐き出した嵐はゆったりと体を枕に委ねた。

「知ってるよ。時々情報を貰ってる」

 以前出会った慎のことを暗に含ませて返す。

 鷹居は満足そうな笑顔を向けてからイスの座席部分に両腕をつっかえ棒のように立て、体重を預けた。

「聞いた聞いた。鬼になってもうた兄ちゃんのことも、あんさんのことも」

「……何喋りやがったんだあいつ……」

 うなだれる嵐を励ますつもりか、その背中を大仰に叩いてみせる。

「えらい奮闘してはる兄ちゃんや聞いたぐらいや。そう気にせんとき。それにな、丁の姉ちゃんがあんさんに教えはる情報って、俺発のものが殆どやねんで」

 力加減を知らない励ましをやんわりと押し戻し、ややむせながら言う。

「それで情報屋かよ」

「情報屋言うと何ぞ近代的やけど、通り名としては書庫持ち言われてはるねん。鷹居言うのもなかなか古い一族で、古けりゃ千年、二千年前の文献やら仰山あってな。葵がお得意さん言うんも、それから。あちら側にどっぷり浸かっとる人間の間ではそれなりに有名なんやけど。知らん?」

 頼まれてもいない説明をせつせつと語った挙句に問われても知らないものは知らないと言うしかない。ためらうことなく頭を横に振ると鷹居はわざとらしく肩を落とした。

「そやなあ。あんさん、俺らの業界の人って感じせえへんもんなあ」

 あれだけ妙なことに巻き込まれても業界人にはなりえないのか、と他人事のように考える。一方でそれだけまだ常識人なのか、と常識人を自負する身としてはありがたい発見ではあった。

「色々、聞いていいか」

 特に構うでもなく質問を繰り出す嵐にうろんな目を向け、不機嫌そうに「どうぞ」と言う。

「丁から俺のこと聞いて、どうするつもりだったんだよ」

「別に」

 きょとんとして返す。

 単語で返されその真意を知ろうと目を覗き込むが、特に得られるものはなかった。

「何もない。面白い奴がおるねんな、ほな会ってみよか、それだけ」

「もう会ったぞ。話もしてる」

 平静さを装うとしているつもりなのだろうが慣れぬことにはぼろが出るようだ。足を組み、せわしなく視線をさ迷わせる態度には明らかに不審が募る。

 嵐は顔をしかめ、未だ残る不安を確かめるように問うた。

「まだ何か隠してるんじゃないだろうな」

「ややなー」

 手を顔の前で振り、わざとらしく笑ってみせる。

「お互いよりよい関係を保つためには信頼からやで」

「自分から破っといて何言いやがる」

 間髪入れず言うと鷹居の額にうっすら脂汗が滲み出した。

──図星か。

 脳の回転速度を上げて次の言葉を見つけようとしているが、その間を埋める言葉は全く要領を得ない。ただ唸るだけである。しどろもどろになりながら遂に舌が乾き始めた時、その饒舌は「参った」と一言だけ吐いた。

 その言葉を聞いて去来したのは安堵ではない。またか、という諦観に似た思いで鷹居同様肩を落とす。しかし復活の早さでは鷹居の方が上回り、あっけらかんとしてとんでもないことを言い出した。

「いや、丁の姉ちゃんから話聞いてるとえらい人情派みたいやんか」

 苦労人とも言うんだよ、と一人ごちる。

 嵐の胸中など察することもなく、鷹居はけらけらと笑った。

「せやから俺んとこで受けたらへん仕事、あんさんに任したろかな思て」

「……は?」

 半瞬、文の意味を把握するのに会話が止まる。

 今しがた聞いた内容を何回か耳の奥で繰り返し、それがようやく文としての意味を成しえたところで脳が解析を始める。その解析を終えたところで嵐はもう一度聞きなおすという行動に出た。

 聞こえなかったのかと訝しがる鷹居だったが、聞こえなかったわけではない。

 事実を受け入れたくなかったのだ。

「……だから。俺んとこでやらへん仕事を、あんたに任したい言うてんねん。わかる?」

 一言一言まるで老人に接するかのようにはっきりと言う。

 その態度にもどこか小馬鹿にした感が否めなかったが、嵐はそれよりも受け入れざるを得ない事実に口よりも思わず手が先に出た。

 ごっ、という鈍い音が大部屋一杯に響く。

「いったいな!? 訴えたるぞ!」

 涙目に言い放つもその声は恐ろしく小さい。他の患者を気遣ってのことだが、この場合それが鷹居にとって不利になるとは思いもしない。

 恥も外聞も捨ててあるいは大声で訴えれば良かったのだろう。

 小声で放たれた抗議は嵐の怒気によってあえなく粉砕された。

「俺を便利屋か何かと勘違いしてねえか」

 低く抑えた口調はこの先の激昂を予期させる。

 しかし思わず身構えた鷹居の頭に振ってきたのはやはり小声での怒声であった。

「さっさと帰れ変態」

「は? なんやのそれ。恩人言われても変態言われる覚えなんかあらへん。撤回せえ」

 この場に相応しくない単語に鷹居は敏感に反応する。誰でも言われたくはない一言だが、嵐にはそれを使用するだけの裏づけがあった。

「変態だろうが。神社で会ったと思えば病院にもいるんだぞ。気味が悪い。言われても仕方ないだろ」

「素人さんはこれだからあかん」

 これみよがしに嘆息して鼻で笑う。

「あの時の俺かてあんたと一緒。なんや歩道橋の階段の下で倒れてるさかい、気になって顔見たら肝心の中身がないやんか。それで救急車呼んで病院連れてって、しゃあないから探したろ思て俺も幽霊なって迎えに行ったんやで。そーれで変態呼ばわりされるなんてなあ。そら悪いことしたわ」

「……えらく都合良く俺を見つけたもんだな」

 ここで言葉が詰まる嵐を想像していた鷹居は低い声にびくりとする。

「後尾けてやがったな、あんた」

「あー……」

 わざとらしく空に視線を漂わせてから決意したように嵐を見据える。ようやく謝る気になったのかと嵐も心持穏やかにその言葉を待つことにした。

 しかし。

「そんな汚い言葉使いあかんで」

 予想外などというものの域を超えている。話の流れを完璧に無視した言葉の選択は神業と言ってもいい。ここでようやく鷹居という人間がわかり始めた。

 まともにとりあってはいけない。

 この男を相手にまともな会話をしようと思えば常人の何十倍以上もの苦労を要することになる。労力の無駄と骨折り損を避けるためには、こちらも鷹居に合わせるしか道はない。

 理解というよりも自身に対する警告のようなそれは、努めて恩人の相手をしようとした嵐に脱力を促した。

──あほらしい。

 言葉を失った嵐は適当に相槌を打ち、痛みのひいてきた左膝を立てて頬杖をつく。

「……じゃあもう一つ。あんたがやれない仕事をどうして俺がやれる」

 言外に自分が一般人であることを主張した。

簡単や、と言って鷹居はにこりと笑う。

「鷹居はでかいからな」

 短く放たれた言葉だが、その物言いには重さがある。見れば鷹居も顔をうつむけていた。

「さっき言うたやろ、でかい一族やって。せやから俺一人動いただけでもえらい問題にしはんねん」

 鈍くさい一族やで、と苦笑と共に続けた。

 その顔が丁に重なる。彼女も諦観した表情で同じことを言っていたような気がしたが、生憎記憶が曖昧模糊としている。既視感に似た思いでそうか、と言った。

 だがそこはそれ、嵐が鷹居の仕事を肩代わりする理由になりはしない。どこかしんみりする空気を破って口を開こうとした時である。不意に周りが慌しくなった。

 音の方向からすると正確には向かい側と言った方がいい。六人収容可能の大部屋で、気づかなかったが向かいのベッドにも患者がいたのだろう。あちらとこちらを隔てるカーテンには何人もの影がせわしなく行き来し、大声で薬品名やらバイタルやら叫んでいるのが聞こえた。もっとも聞こえたところで医学の知識など皆無である嵐になどわかりはせず、しかし状況の緊迫した雰囲気からただならぬものを感じる。

「……何や。重篤かい」

 ぽつりと呟き、不謹慎にも鷹居はカーテンの隙間から向かいの様子を覗こうとした。一度は小声で制した嵐だが罪悪感と微かな好奇心の攻防戦の果て、心の中で激しく謝罪しながらベッドの上を移動して鷹居の顔の下から覗く。

 白衣が慌しく往来する向こうで、沢山の機械に繋がれた人物が横たわっているのが見えた。その内の一つが呼吸を助けるためのものであることはテレビによる知識により、それと理解することが出来る。はっきりとは見えないが枕に広がる黒髪から、女性なのだと察しがついた。

「変やな」

 鷹居以上に見入っていた嵐の頭上から不思議そうな声がする。

「何が」

「だって、よう見てみい。えらい慌ててはるけど、なんや驚いてるみたいやんか」

 それに、と患者の頭側に立つ医師を指差した。

「あれ気管内チューブやで。俺んとこの婆ちゃんもやったからよう覚えてる。自分で呼吸出来ひん人の口ん中に突っ込むんや。せやけどあれ、外してるやんか」

 その通りだった。医師は何事かを患者に対して話し、上部のチューブを外す。勢いのついた空気の漏れる音が辺りに響いた。次いで、口の中に入っているチューブを抜き出す。途端に患者はむせて咳き込み、医師が酸素マスクをつける中、周囲を固める医師や看護師に安堵した風な雰囲気が漂う。

 どういう状況なのか鷹居と二人して判断に苦しんでいると、荒々しい足音がこの場に飛び込んできた。

医師や、あるいは看護師のそれよりも緊張に満ち、そして喜びに満ちた足音の主はこの場に似つかわしくないタキシードをひらめかせて向かいのベッドの横に立った。

 短い髪、口の周りの髭──そして皺くちゃのチケット。

「……あ」

 声を揃えて驚愕を露にする。

 その人物は紛れもなく、先刻嵐と神社で話した清史だった。

 蝶ネクタイも外し、肩で息をする清史は立ち尽くしたままベッドに視線を落とす。まるで言葉を探すように、その態度の取り方を考えているようだった。

 しかしその時間も終わる。清史はその場に崩れ落ち、ベッドに横たわる細い腕を握り締めた。ひゅう、と喉を行き来する呼吸の音の間に嗚咽が混じる。嗚咽と鼻をすする音だけが辺りを支配し、周囲のベッドの主も恐る恐るカーテンを開けて様子を窺った。

 清史はただ唇を噛み、泣いていた。

 どう言ってどう接し、どう謝ればいいのかわからない。

 命を絶つことにより音から逃げようとした清史の身代わりとなった、彼女に。

「……どないなってんねん」

 側面のカーテンを小さく開けて、鷹居が隣の患者である老人に事の説明を求める。老人は顔を寄せ、こそこそと話した。

「あの女の人な、一年ちょっと前にダンプにはねられて運ばれてきたんだよ」

「へえ」

「それからずっと植物状態だったんだけど……」

 視線を清史の方へ向ける。

「……なんでもあの旦那さんの身代わりになってはねられたみたいでね。あの人も随分辛そうでさ。……良かったなあ」

 ぐず、と鼻をすすって老人はベッドに戻った。

 清史の瞼の裏にはまだあの時の閃光が焼きついている。

 全ての音を拒絶しようと──自殺しようと半ば衝動的に道路に飛び出した清史は、やってくるダンプカーをひどく穏やかな気持ちで迎えた。迫るヘッドライト。耳にこだまするクラクション。

 そう、クラクションが聞こえた。

 一瞬、清史の表情に驚きが表れる。それは本当に瞬間的なものだったが、あの轟くようなクラクションは確実に清史の中で響いたのだ。

 もう一度、と無意識にあの瞬間を求める。

──もう一度だけ。

 ヘッドライトの光が一層強くなる。否、強くなるのではなくその距離が間近に迫っていたのだ。運転手の恐怖に満ちた顔が目に入る。その足は必死になってブレーキを押さえているのだろうが、勢いのついたものが急に止まれることなど無い。

 冷静にそんなことを考えていると、不意に強い衝撃が清史を襲う。

 ああ、やってしまった、と思った。

 ところが痛みはない。死とは痛みもないのかと思いながらも、頬が接する地面の冷たさは感じる。どうしたことかと瞼を動かそうとし、開けた。

 開けることが出来た。

 呆然と落胆する反面、自身の行動に呆れて微かに笑いがこぼれる。音から逃げようと思ったその瞬間に、声を聞けるとは。しかも今こうして体を起こしている間では、あの声は聞こえない。

 皮肉な。

 節々の痛む体をひきずって起きた時、支えを失った手が崩れて再び地面へ舞い戻る。力が抜けたわけではない。

 清史は目を見開いた。

 擦りむけた手の平に、明らかに自分のではないとわかる血が大量についている。

──そんな。

 清史を襲った衝撃が体に蘇る。

 車特有の硬さを伴ったものではない、どこか柔らかな感触。

 倒れた体勢のまま首を巡らせて上を見る。

 とろとろと流れてくる赤い液体の先に、横たわるその姿を。

「……すまない」

 強くその手を握り締め、食いしばった歯の間からようやく言葉をもらす。どんな謝罪の言葉も受け付けられない。受け付けてほしくなかった。己の所業が許されていいはずがない。

 けれど今の清史に許される言葉はただこの一言のみである。

──すまない。

 例え彼女の耳がそれを拒んでも、清史の口はそれを呟くことを忘れてはならない。

 半ば自身を戒めるかのように清史はひたすらにすまないと呟き続けていた。声を出すたびに喉が焼けるような痛みに襲われ、溢れる涙に視界が奪われようとも、その涙を拭いもせず。

 だから清史はその瞬間まで気づかなかった。

 清史の手を優しく握り返す、力を。

「……」

 自分の手を穏やかに包む暖かさに顔を上げる。歪んだ視界の中、清史の骨ばった手を包み込むようにして、白い指が添えられていた。先刻までの光景と違う。この白い指は伸びきったままだったはずだ。

 ゆるゆると驚愕がこみ上げてきた清史はゆっくりと顔をそちらへ向ける。

 盛り上がった布団の向こう、大振りの枕の中で柔らかな笑みを浮かべる彼女へ。

「……」

 青白い唇が言葉をつむいでいる。しかし酸素マスクに覆われてよく聞こえない。清史は医師を仰ぎ、それに応じた医師は酸素マスクを外した。空気が勢いよく漏れ出す音が響き、清史は顔を彼女に近づける。

「……た?」

 長いこと声を発することのなかった口はおぼつかなく、かすれた声しか生み出さない。彼女は自身の喉を叱咤し、頭の中を巡るただ一つの言葉を声にしようとした。清史にまた会った時、必ず言おうと思い、忘れぬようにしまい続けた言葉を。

 弱った喉の筋肉に全身の力をこめ、息が漏れるような音と共に言葉を吐き出す。

「声、聞こえた?」

 全力で吐き出した言葉だったのだろう。言うやその場で咳き込んで細い体を折り曲げる。慌てて酸素マスクをつけようとする医師の手を遮り、彼女は清史の顔に触れた。

 その手には血の気が戻り、むしろ泣いている清史の頬の方が冷たい。涙の跡が幾筋も引かれた頬にじんわりとした暖かさが伝わる。その手を無意識につかみ、清史は何度も頷いた。力なく崩れ落ちる清史の顔を覗き込むようにして彼女は身を乗り出す。目覚めたばかりの体のどこにそんな力が残されていたのだろうと不思議なほど、その顔には生気が満ちていた。

「……愛やね、愛」

 大声で言ったならばその場の雰囲気をいとも簡単にぶち壊しかねない発言をし、鷹居は顔をカーテン内に納める。つられて顔をそちらにやった嵐の不機嫌そうな顔に対し、あからさまに顔をしかめる。

「なんやの。発言は自由やろ」

「……別に」

 薄く開いたままのカーテンを横目に片膝を立て、頬杖をつく。ついでとばかりにぽそりと恥ずかしくないのかよ、と呟いた。

 だが小声で放たれた非難の言葉を鷹居の耳は聡く拾い上げ、丸イスをずるずる引っ張って嵐に詰め寄る。

「あんた、友達おらんやろ」

「やっぱりわかるか」

 鷹居としては精一杯の嫌味のつもりで──大概の人間はここで言葉に詰まるものなのだが、意に反してあっさり返ってきた言葉の味気なさに脱力する。

 一人で勝手に挑んで勝手に惨敗した鷹居を怪訝そうに見やってから、カーテンの向こうの二人をちらりと見た。

「……絶対、仕事押し付けたるで」

 恨み辛みを述べるような声で言われても実感がわかない。

「料金取るからな」

 振り向かずに言う。それが聞こえたのかどうかはわからないが、鷹居はふん、と鼻を鳴らしただけだった。それからからかいのこもった口調で尋ねる。

「出たらへんの。さっきお会いしたもんですけど、って」

 言われてみればそれも面白そうだった。神社で出会った三人が何の因果で病院でも出会ったのか、話し合えばそれなりに楽しいだろう。

 だが。

「……出歯亀」

 鷹居に向かって言う。言われた当人は怒りを沸点にまで高めたが、マナーの壁までは破れなかったようだ。小声で抗議されたところで迫力に欠ける。

 また妙なのに絡まれたな、とのんびり構えてもう一度、二人を見た。彼女は勿論、ようやっと顔をあげた清史の顔にも溢れんばかりに笑みが零れている。なるほど、清史が本当に聞きたかった声は彼女の声だったのかもしれない。

 自身で憶測をつけ、嵐は静かにカーテンを滑らせた。

 視界の端に映ったチケットは紙くずのようだったが、少し嬉しそうにその身を縮めている。

 そしてカーテンはゆっくりと、その幕を閉じた。



詩が帰る場所 終り

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