三章
銀行の通帳を眺め、嵐は考えを巡らす。
――料金はいくらです?
そう、鈴和から電話がかかってきたのは三日前の夜だ。その日も図書館へ行き、大した成果もあげられぬまま帰宅した矢先の事である。クビを覚悟して受話器をとりあげてみれば、至極嬉しそうな声でそう言い、実際、料金が振り込まれ仕事は完了したことになった。
聞けば、荒らしが無くなったと言う。
――何もしてねえぞ。
日々、図書館をうろついていただけである。普通にそれだけで失せたのならば、これ以上楽な仕事もないが――気になるのはあの男。
あれ以来顔を見ない。
会ってどうするという気もないが――何と無く気にかかる存在ではあった。
そう思う反面、だが、と思う心もある。気配に乗って鼻をついた血の匂いのようなものは気になるが、別段悪いもののようにも思えない。悪意めいたものも感じられないし――と、嵐が納得していると襖が静かに滑る。
「嵐、お電話よ。汰鳥くんから」
こちらからは悪意めいたものを感じ、嵐は眉をひそめた。
「留守って言っといて」
「何言ってるの」
母は勢いよく子機を目の前につきだす。
「しっかり聞こえてるわよ。さっさと出なさい」
最近電話を買い換えたことをすっかり失念していた。――新しい電話には子機がついていた。台所にあるそれを母が取り、持ってきた、とそんなところだろう。
肩をいからせる母から子機を受取り、渋々電話口に出る。
「……はい」
「お前、唯一の親友に対して居留守使うか普通」
怒るというより呆れたような声音で明良は言った。平然と嵐は返す。
「お前が絡むとろくな事ねえからな。切るぞ」
「ああ、待て待て!お前仕事大丈夫なのか?」
「本業とお前の持ち込みどっちだ」
「本業」
「心配してくれなくても充分だよ。切るからな」
「だから待てって!じゃあこっちこっち。オレの持ち込み!」
「もっと、いらん」
「少しは考えて言えよ……」
げんなりとしてきた明良の声にわずかながらも申し訳ない気になり、尋ねてみた。
「……じゃあ考えるから内容言ってみろよ」
「なら、来た方が早いから来いよ」
急に活力を戻した明良の声を聞き、しまったと思うがもう遅い。
満面の笑みをたたえた明良の顔が浮かぶ。嵐は肩を落とし、電話を切った子機を投げ出したのだった。
「ぶんじさん」というあだ名でその寺は知られていた。本当の名は多聞寺というのだが、後ろ二文字の読み方を変えて「ぶんじさん」と呼び親しまれている。
住職の年を思わせない元気の良さに人が集まり、その息子である坊主の人懐っこさに女性が群がる。その上仕事はしっかりやるものだから信仰も厚く、檀家の数も多い。
騙されている、と嵐は常々思う。仕事の正確さと住職の人気は認めるとしても、明良の人気には疑問があった。人に言わせれば美人の部類に入ると言うが――あの笑顔に泣かされた人間の数を上げれば、片手では済むまい。
かくいう自分も、その泣かされている人間の一人である。本業一本でいきたいと思っている嵐に、次々と自分では手に負えない仕事をふっかけ――しかもあまり得意でない幽霊だの妖怪だのの、「あちら」側が絡む仕事な為、ただ遂行すればいいというものでもない。下手に首を突っ込めば、最後まで付き合わなければならなくなるのだ。それを防ぐ為に、明良から連絡があった場合、特に気が向かなければ必ず断ることにしている。
している、のだが。
今となっては押しの弱さを恨むしかない。
後悔が先に立てば、こんな苦労をする事もないだろう。
ぐるぐると考えを巡らせていると寺はすぐそこに迫っており、短い階段を上れば、お賽銭箱の前に立つジャージ姿の明良が迎えた。
「やっぱ早いなあ、お前。さすが、さすが」
満面の笑みを浮かべる明良を睨みつけた。
「いい加減、自分でなんとかしろよ」
「なんとか出来ねから呼んでんだろが」
さらりと言い返し、脱力している嵐を手招きして寺裏の自宅へ向かう。
「……仮にも坊主なんだから、自分でやれるだろ」
「仕方ないじゃんか。坊主っつってもそれらしい力はねえし。親父は違うけど」
悲観的になることもなく、けろりとしているところが明良らしい。
彼の言う通り、父親には霊力めいたものがあったが、明良にはそういったものの片鱗は見えなかった。あちらに働き掛けることも出来なければ――あちらから干渉されることもない。結構楽だ、と笑って言った明良のその性質が、霊的不感症と言う特質であることは後になって知った。
――だからといって、奴が背負い込む仕事を肩代わりする理由にもならないが。
「今度は何だ?呪いの壺とか人形はいらねえぞ」
「そっちは親父。会ってほしい奴がいるんだけどさあ」
明良は言葉を濁す。
「本当に人か?」
「オレにとっちゃ皆一緒だよ。見た目は人なんだけどな……まあ、会えばわかる」
「……いま、途中はしょったろ。かなり」
「信用しろって」
「俺の目見てからそれ言えよ」
前方に顔を向けながら明良は渇いた笑い声をあげた。
「まあまあまあ」
「……料金二割増な」
その言葉にさすがにぎくりとしたか、苦笑しつつ振り向いた。
「……二割減の違いじゃねえの?」
「じゃあ三割増し」
「……二割増しで手ぇ打つよ」
ささやかな仕返しの成功に満足していると、明良がここ、と言って寺の縁側から続いている自宅の一室を指した。
もう少し行けば近代的な自宅が見えるが、寺に近いこの辺りは時折補修したりと、古さを残したままである。
「毎回思うけど変な家だな」
「ほっとけ。親父が自宅は譲歩したけど、ここだけは譲らねえの」
「ここなくしたら畳の部屋一個も無くなるんだっけ」
「それ嫌がってさあ。ボロいから寺も一緒に建て替えろ言ってんのに」
「……破戒僧」
「……後でゆっくり話し合おうか」
お互い牽制しあうと、明良は入るぞ、と言って障子を滑らせる。
向かいの小さな障子窓から陽光がさしこむ、ささやかな部屋だった。
その男は右側の壁にもたれかかり、閉じていた瞼を開けた。
「……やあ、図書館の」
「ああ……久しぶりだな」
我ながら間抜けと思える返答に、男は小さく笑った。
「何だ、知り合いなら話が早い。慎、こいつが嵐だよ、話聞いてもらえ。オレ、茶入れてくる」
明良がいなくなると、男は――慎はわずかに身じろぎとし、あぐらをくんだ。
「嵐君っていうのは君か」
「あいつ何か言ってたか」
慎の向かいに座る。障子窓からの陽光が眩しく、手で遮るように左目を覆った。
「お人好しで、多分自分よりは相談相手になれるだろうって」
「お人好しは余計だろ」
「後で言っておく」
くすりと笑う慎の顔を覗き見る。部屋の暗がりにいる所為か逆光の所為か、その顔色は芳しくない。
「話って?」
「……君は、霊感とかそういうのがあるらしいな」
「そう大層なものじゃねえけど」
「じゃあ、除霊も出来たりする?」
「得意じゃない。逃げ専門だ」
「得意じゃないけど出来るんだろう」
「気が進まないからやらん。除霊だったら知り合い紹介してやろうか?」
出来る出来ない以前にやりたくないのが、嵐の本音だ。むやみにあちら側と関わるのはごめんこうむりたい。しかし、慎は頭を横に振った。
「あまり知られたくない。本当に駄目か」
懇願するような目つきで言われては、嵐も困ってしまう。
頭をかき、慎を見た。
「そもそも何を除霊しろって言うんだ。知られたくないって。俺やここの人はどうなんだよ」
「君達はいい。おれと対峙する訳じゃないから」
「対峙?」
慎は苦笑した。
「除霊してほしいのは二つある。一つはおれに憑いている奴で、もう一つはおれ自身だ」
放たれた言葉を消化し、意味を把握するまでに数秒を要した。
「……人生捨てる気はまだ無いな」
「おれが人に見えるのか」
「外見は人だろう。違うなら言ってくれ」
また、笑う。嵐とのやりとりを楽しんでいるようだ。
「違う。……人であることは随分昔にやめたよ」
嵐は覆っていた左手をおろし、文机の上に置いた。
「鬼、と言うのかな。角はないけど」
慎は自嘲気味に笑う。角がないことを――それでも鬼と呼ぶことを、嘲っているのだろうか。
「今時の鬼に角はねえけどな」
血の極まりは予想もせぬ破綻を子孫に与える。それを防ぐ為に、現存する鬼の一族は伴侶を普通の人間にとるのだ。その為、昔はあったであろう角を持つ者は皆無に等しい。見た目こそ常人と変わらないものの、力は鬼のそれと同等である。
「……だから、あなたが鬼でもそれが当たり前なんだ。驚きやしない」
ただ、と嵐は続けた。
「人殺しも鬼殺しもやらん主義でね」
「……頼む」
顔を伏せる慎に、嵐は手をひらひらとさせた。
「駄目っつったら駄目だ。だいいち、俺に頼む事がお門違いなんだよ。除霊って、あんた幽霊かなんかのつもりか?」
顔をあげた慎は苦笑する。
「……少しだけね」
「鬼は精霊の一種だ。かなり上等の」
精霊の中でも、神格を得ているのが鬼である。上位に位置する鬼は霊力は勿論のこと、体力も常人の倍以上はあり――同時に治癒力も並ならぬものがある。
嵐はだから、と言って嘆息した。
「そう簡単には死ねない」
「どうしても?」
「残念ながら。それでもっつうなら、専門の奴を紹介しようか?」
弱々しく、慎は頭を横に振る。その様子は本当に鬼なのかと、疑惑を抱かせた。
「そいつらは、おれをただ殺すだけだ。……意味のある死が欲しい」
「……頑固だな」
「友達にもよく言われた」
微笑し、小さく息を吐くと頭を壁につけて天井を仰いだ。
「少し休むか?」
「病気じゃないからいい」
「……ちょっと聞くけど」
「うん?」
「断食なんて馬鹿な真似してねえだろな」
「あー……はははは」
頭に手をやり、慎は乾いた笑い声をあげた。見事言い当てた嵐はげんなりとする。
「馬鹿かあんた……何日?」
「七日。無理だったかな」
「……鬼の体はそんなにやわじゃない」
困った様に笑う慎を見て盛大に溜め息をつき、立ち上がる。追いすがる様に見上げる視線を嵐は正視した。
「何か持ってくる。そんなんじゃ話にならん」
「でも」
「ここの台所は潤ってるからな。遠慮するだけ無駄」
他人の台所事情をさらけだし、己の空きっ腹も抱えて退室した。――嫌な予感の的中を恨めしく思いつつ。
三章 終り
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