四章(1)
霧雨は激しくなることも小降りになることもせず、ただしとしとと、三人の上に降り注いでいた。
傘をわずかに持ち上げ、槇は恨めしそうに白っぽい空を見上げる。
「なあ高仲」
無言で歩を進めていた高仲は、槇の呼びかけに「はい」と答えた。
「間宮ん家に行くのはいいが、いきなり行って大丈夫なのか」
極めて常識的な発言に高仲は思わず目を丸くし、慌てたようにレインコートの前ボタンを外し、胸ポケットから携帯電話を出す。
あまりにも話が進みすぎるため、高仲は踏むべき段階を飛ばしていた。
「すみません、傘貸してくれます?」
「ああ」
二人は立ち止まり、携帯電話に耳をあてる高仲に槇は傘を傾けた。
それを眺めながら、嵐は側の木にとまる鴉に近づく。
「その餓鬼、臭い」
嵐が話すより先に鴉が言葉を発する。その声は嫌悪に満ちていた。
「臭いって?」
「臭い。これだけ臭くて何でわからないかな」
鴉はひどくじれったそうに体を震わせた。
「だから何の臭いなんだ」
「知らないよ。ああもう体にまで染み付く。綺麗好きとしては堪らないね」
「……臭いはともかく、意見を聞きたいんだが」
「意見? じゃあ言ってやるよ。お前の馬鹿さ加減には呆れるばかりだ」
まともに話そうとしない鴉に閉口し、軽く溜め息をつく。
「忠告ありがとよ」
「……似てる」
「……何が」
脈絡のない発言にうんざりしながら相槌をうつ。
だが鴉は至極真面目な声音で続けた。
「あの鬼と似てる」
「……慎のことか」
嵐は背中がざわりと粟立つのを感じた。
「血の臭いだ」
そう一言、言い放ち飛び立つ。木の陰に黒い姿を見送る嵐の背中へ、槇の声がかけられた。
「行くぞ」
「話まとまりましたか」
二人のもとに駆け寄りながら問う。歩き出した高仲はにこやかに答える。
「はい。先輩に常識を正されるとは思わなかったけど、今から行きます、って言ったら大丈夫だそうです」
「ご家族の方が誰か」
「いえ、本人です」
「……今日、平日ですよね」
記憶を辿り、問う。
高仲はああ、と言って苦笑した。
「今日、雨降ってますよね。あの男が来るかもしれないからって、休んでいるそうです」
「随分甘やかされてるな」
憤然とした表情で槇が言った。
「甘いですかね」
嵐は自身の過去を振り返りながらぽつりともらす。
槇は無言で先を促し、前を行く高仲も耳をそばだてていた。
「得体の知れないものが始終どこかにいるって、結構恐いもんですよ」
「お前はどうなんだよ」
「慣れました。あまりにもいすぎて、気にするのも面倒になったんですよ」
「……面倒ねえ」
呆れ顔で槇は頭をかく。その先で高仲は苦笑していた。
うるさくもなく、かといって静かすぎるわけでもない中途半端な静寂は心を落ち着かせた。
だが落ち着いてソファに腰掛け、テレビを見る気にもなれない。
気を抜いたその隙に、あの男がやってくるとも限らないからだ。
やってきて、入ってくるとも限らない。
間宮は冷めた紅茶を一気に飲み干し、暖かい紅茶を入れ直そうと立つ。居間に隣接するキッチンが微かに暗く、思わず立ちすくんだ。
──大丈夫。
あいつは入ってくることはないのだ。決して。
そう自分を奮い立たせ、もう一度足を踏み出そうとした時、高らかにチャイムが鳴り響いた。
心臓が飛び上がる。
まさか、という思いと馬鹿なという重いが駆け巡るが、すぐにそれは砕かれた。
数分前にあのお巡りさんから電話があった。今から行くと言っていたはずだ。時間からすると、彼に間違いないだろう。
間違いない、はずだ。
音をたてぬようコップをテーブルに置き──そんな行動に意味などないのだが──そろりと足を忍ばせて玄関に向かう。無駄に広い家が疎ましい。
合わせて広い玄関は、間宮の意気を削いだ。
ドアノブまでが遠い。
「はい」
居間には来客の顔を確かめる画面も、応対用の電話もある。
だがあの男が家にまで来て以来、間宮はそれを使う気になれなかった。
受話器を取り、男の顔を画面で確認した途端に、捕われてしまうような気がしてならない。
雨の日の来客は警戒すべき敵だった。
しかし間宮の震える声に対し、はつらつとした声がドアの向こうから聞こえる。
「あ、こんにちは。さっきお電話した芝橋交番の高仲です」
全身を捕らえていた緊張が足元から抜けていき、間宮は安堵で震える足にサンダルをつっかけてドアを小さく開けた。
「ああどうも。突然すみません」
ドアの隙間から見知った顔が覗き、ゆっくりと大きくドアを開いた。雨の匂いと、少し大きくなった雨音が飛び込む。
レインコートのフードをとり、高仲はまた頭を下げた。
「すみません、本当にいきなりで」
「あ、いえ……」
体の大きな高仲の向こうに見知らぬ顔が二つある。
間宮の視線に気付いた高仲は体をずらし、その二人を示す。
「以前相談して頂いた件なんですが、私だけではわからないことが多すぎまして。それで今日、先輩の刑事さんとそのお友達さんに来て頂いたんです」
「……刑事」
「ええ、私よりもあなたの力になれると思います。もしよろしければ、相談して頂いた内容をこのお二方にもう一度話してもらえますか」
「……えと、はい。わかりました。どうぞ」
わずかに後退し、三人に入るよう示す。サンダルを脱ぎながら、間宮は新顔の二人をちらりと見た。
くたびれたスーツ姿の男はやはりくたびれた革靴を脱ぎ、間宮ににこりと笑ってみせる。緊張している間宮に対して精一杯のお愛想なのだろうが、窓際族の感が否めない。
そしてまだ年若いもう一方の男。ファッションに興味がないのか必要最低限の服装であり、地味といえば地味だった。
しかし間宮は何故か、その男が気になった。
男自身の雰囲気、或いはその目だろうか。その目はひどく嫌悪に満ちていた。
不意に、その両眼が間宮に向けられ、思わず肩をすくめる。咄嗟に顔を背けようとしたが、間に入ったスーツの男が自己紹介とばかりに声をかけ、それはかなわなかった。
「いや、本当にすみませんね。私、槇孝義と言います」
意外に張りのある声だ。
「それで後ろのは私の大学時代の後輩でして。刑事じゃないんですが、勘はいいんですよ。まあ、気にせんで下さい」
これ以上の詮索は受け付けないとばかりに、一気にまくしたてる。
瞬間、間宮は未だくすぶっていた警戒心を解いた。
男三人を家に入れることに対しての抵抗があったのだが──窓際族と無愛想、加えてお人よし相手に抱く警戒心などお笑いでしかない。
肩の力を抜き、間宮は久々に穏やかな気分で三人を招いた。
「どうぞ」
それぞれが会釈し、家にあげる。居間へ案内してソファを勧め、間宮はお茶を入れるべく台所に立った。誰かいるというだけで、これほど恐怖心が薄れるものかと、少々気恥ずかしくなった。
台所へ消えた間宮を見送り、槇は隣に座る嵐にこそりと話しかける。
「お前、何だその態度。あの子びびってたぞ」
「……槇さん、よく平気でいられますね」
嵐の言葉に、一人がけのソファに座る高仲も身を乗り出す。
「……何のことだよ」
あえて我関せずを貫き通す槇をじろりと睨みつけ、嵐は小さく溜め息をついた。
「来るんじゃなかった……」
「あのな、オレだって嫌なんだぞここ」
「え、何かいるんですか?」
ひそひそ言い合う二人の様子にただならぬものを感じたか、高仲が話に割って入る。
自身で説明する気のない槇を横目に、嵐は言葉少なに答えた。
「ええ、まあ。いるというか……満員電車状態ですかね」
高仲はあからさまに顔をしかめてみせる。
「それは幽霊とかそういう……?」
「……他にもまあ色々と。だから槇さんの持ってくる話は嫌なんですよ」
いらいらと嵐は言葉を吐き捨てた。その様子に高仲はすっかり身を縮めてしまい、大きく頭を下げる。
「……すみません」
巨体を小さく縮める高仲に慌てて嵐は手を振って笑ってみせた。
普通に謝られるよりも迫力があり、自身の行いを改める気にならざるを得ない。
「あ、いや、高仲さんが謝ることはないです。自分でどうにかする気のない槇さんが悪いんですから」
槇がさらりと毒づく嵐を睨み付けるが、高仲はそれよりも発言の内容が気になったようだ。
目を輝かせ、身を乗り出す。
「やっぱ先輩も? そういうの見えるんですか」
「……知るか」
仏頂面で頬杖をつく。
否定も肯定もしなかったが、高仲にはその様子が謙遜に見え、つまり肯定しているのだという結論に達した。
感嘆と共に息を吐き出し、ソファにゆったりと身を沈める。
「先輩もなんですか。凄いな」
「……何が凄いんですか?」
突然の介入者に、高仲は体をびくりとさせた。だが何のことはない。三人が囲むテーブルの側に、カップを四つ乗せた盆を持った間宮が立っていた。
その顔は不審に満ちていたが。
高仲は苦笑しつつ頭をかき、差し出されたカップに口をつける。
敏感になりすぎていた高仲の体を、いい香りと共に紅茶が通っていった。
「……えと、それで」
それぞれの前にカップを置き、通路側のソファに腰掛ける。
正面、つまり窓側のソファに槇と嵐の二人が座り、間宮から見て左側に高仲が座る形となった。
戸惑い気味の間宮に、高仲が人好きのする笑顔を向ける。
「以前、ご相談頂いた内容をもう一度話してもらえませんか」
手で槇と嵐を示す。
間宮は高仲と二人を見比べてから、わかりましたと言い、やや俯き加減にぽつぽつと話し出した。
「私、間宮あかねと言います。多分信じられないと思うんですけど」
「こいつはそういうの専門なんだ。何言ってもいい」
槇が嵐を示す。やや安堵した表情で、間宮は続けた。
「特に何があるというわけではないんです。初めてあの人を見たのは二週間ぐらい前だったと思います。あの日から長雨が続いているから」
ちら、と窓を見る。大きな窓の外では白糸のような雨が落ち続けていた。
「一番最初は線路の向こうの所で、傘さしてなかったから気になっただけで」
ただ目に留まっただけである。
本当にそれだけだった。
「そしたら次の日は駅の近くにいて……段々近づいて来たんです」
「あんた自身にか?」
槇が問う。静かすぎる空気を打破する声に、何故か安心した。
「私に近づいてくるんじゃなくて、何だろう……追い込んでいく感じなんです」
わかりますか、と問う。
「私の行動範囲に段々入り込んで、私が動けなくなるようにする……みたいな」
「追い込み漁みたいだな」
面白くも無い冗談に、間宮は微笑する。
こういう時の槇は頼りになる。
空気が読めないのか天然なのか、重い空気を緩和するのに長けていた。
「……学校まで来た時は、次は家に来るのかなって」
「雨続いてますけど、ほとんど学校休んでたんですか?」
嵐が口を開く。単位を落とした時の苦労は身に染みて知っていた。
「大丈夫なんです。長雨でも、合間に晴れた日ありましたよね。その日は必ず行くようにしてるし」
それに、と続ける。
「あの人が学校に来たあと晴れが続いて、その間に単位をどうにかしたんで」
話を聞き、学校に関してはいらぬ心配だったようだと息をつく。
しかし気になる単語が隣で聞いていた槇を捕らえた。
「そいつが学校に来たのはいつだ?」
「……四日、か五日前だと思います」
「その後雨降ったのなんて一日ぐらいだろ。その時はどこまで来た?」
「家、に……」
言いながら間宮は気付いたようだ。
そして聞いていた二人も薄々感づく。ゆるやかに不安が辺りにたちこめた。
誰も口を開こうとせず、止まった時間を動かすべく槇が言う。
「それから雨なんか降ってない。……今日来たらどうなるんだ?」
ひゅう、と誰かが息を飲む。
小雨の音が異様に大きく響き、重なるようにして嵐が溜め息をついた。
何故かその音すらもこの場には似つかわしくなく、皆が一斉に嵐を見る。
掴み所のない恐怖心は、知らず警戒心へと変貌を遂げていた。肌でそれを感じながら、嵐は口を開く。
「ちょっと聞いていいですか」
無言でそれに応じる。声すらも出すのがためらわれた。
「間宮さんは、今まで知らない人と目があったことないですか」
しばし中空に視線をさ迷わせ、記憶を辿る素振りを見せる。
それからこくりと、顎を引いた。
「……それが?」
小さな溜め息と共に、嵐は言葉を吐き出した。
「……多分それらは生きている人じゃない」
ごく普通に発せられた言葉が間宮の心臓をつかむ。そのまま言葉は心臓を揺り動かし、思わず間宮は口を手で覆った。
──じゃ、ない。
では、あの今まで出会った人たちは何者だというのだろう。
「頓道」
槇が説明を求める。
おそらくは察しがついているのだろう。槇が求めているのは説明ではない。自身の結論の裏づけだった。
嵐は苦笑して頷く。
「間宮さんは見える人です。俺や槇さんと同じですよ」
「なんてこった……」
呻いて天井を仰ぐ。
「見る」ことのつらさ、面倒さ──そして恐ろしさは槇とて忘れたことはない。
槇は確かに、あちら側を見れるのだから。
二人の態度を見て不安そうに眉をひそめる間宮に、嵐は小さく笑ってみせる
「別に何が悪いということもないんですけどね」
「じゃあ、何が」
聞き返しながら、間宮は不思議と安堵していた。
家にあがってから一度も見なかった嵐の笑顔を目にしたのと、あの男が自分にしか見えぬ事の糸口を見つけた。
だから安堵していた。
「今まで気付かなかったでしょう。見てきた人の何人かが幽霊だって」
間宮は覗き込むように嵐の目を見る。
「だから知らない内に彼等と目があってしまう」
嵐の目は間宮を見ているようであり、その実、周囲の風景を見ているようでもあった。
嵐と間宮は同じだと、先刻嵐自身が言ったばかりである。
──では、嵐が見ているものは何なのだろう。
「彼等は自分たちが見える人間を探している。言いたいことを聞いてもらえるかもしれないし、食料にもなるから」
「食料?」
槇が尋ねる。初耳だった。
「幽霊は知りませんが、それ以外ならやりますよ。見える人間って美味しいみたいですね」
世間話でもするように言う。
淡々とした口調は、何か悟っているようだった。
「……それで、見える人間にはついてきてしまうんですよ。間宮さんは目が合ったでしょう」
話の筋を戻す。頬杖をつく姿が疲れているように見えるのは、気のせいだろうか。
「目が合うってことは、向こうも君を確認したということです。それは互いを認識したことになりませんかね」
「……なら、あの男は間宮さんを見つけたんですか?だから?」
恐る恐る高仲が問う。だが嵐はひらひらと手を振った。
「ああ、いや、そこがちょっと違うと思うんですよ」
「何が」
「話を聞く限りじゃ、元は人だったものだと思います。妖怪とかそういう類の感じはしませんし」
「違うのか」
少し、と言って続けた。
「妖怪とかの類の方が、獣臭いですよ。槇さんもわかったじゃないですか。鴉のこと」
ああ、あれか、と言って嵐から顔を背ける。
「漠然とだぞ」
「そんなもんですよ。でも違いはわかりますよね」
隣でうなる槇を差し置き、話の軌道を修正した。
「それでさっき言った違うというのは、男の行動です」
「はあ……」
高仲は訳がわからぬといった顔で、相槌をうつ。
「普通、言いたいことがある人には近づきませんか」
「自分の意志を伝えたいなら……そうですね」
緩やかに飲み込めてきたようだ。高仲の理解の早さには助かる。
「なら、どうしてその人は見てるだけだったんでしょう」
顔を背けていた槇が、ゆっくりと嵐を見る。
「妖怪とかならそうする理由もわかります。彼等は人間で遊ぶのが好きなので」
嵐が彼等、と言うたびに槇はどきりとする。
まだこの男は自分たちではなく、あちら側のみを見ているのではないかと。
「でもさっき言ったように、その男は元は人です。人が人で遊ぶのは想像しにくくないですか」
こくりと間宮は頷いた。
「なら声をかけない理由があるんですよ。……見張っているとか。俺はそう考えたんですけど、槇さんは?」
「何でオレが」
「そういう人の心理ってよくわからないんで」
「だからオレかよ」
「刑事だと色々な人に会うからわかるんじゃないんですか。プロファイリングとか」
曖昧な知識で物を言う嵐に、一言噛み付いてやろうかとした。しかしそれを高仲が、ぽつりと呟いた言葉によって遮る。
「……見られたからじゃないですか」
「あぁ?」
「ほら、犯人が顔を見られて報復に行く話、あるじゃないですか。それと似てませんか」
「テレビの見すぎだ、馬鹿」
違いますって、と高仲は声を荒げた。
「ほら、最近あったじゃないですか。似たようなの。一家三人を殺して、逃走中に顔を見られた近所の人にも傷を負わせたっていう」
「……ああ……あれか」
あまり良いとは言えぬ気分で思い起こす。
所轄が違ったため直接的には関わっていなかったが、陰惨な事件の解決は槇も槇の同僚も望んでいた。
「逮捕されて、実は顔を見られたから殺したって自供したんですよ」
「……それって今年の六月あたりの?」
嵐の問いに高仲は大きく頷く。
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